試練
その夜、維心と維月が並んで寝台へ入ろうとした時、維心がふと、指を見た。維月が、ふふと笑った。
「どうされましたか?指輪が、何か?」
維心は、維月を見た。
「我は…我だけがこれをしておるのかと思うたら、主もしておるの。」
維月は、固まった。
「え…?」
維心は、寝台に横になりながら言った。
「これは習慣であったかの。どうも覚えがないのだが。」そして、維月が言葉を失っているので、維心は怪訝そうに維月を見た。「維月?」
維月は、ハッとしたように維心を見た。
「あの…忘れておったことがありました。」維月は、震える声を必死に抑えて言った。「先に休んでおってくださいませ。」
維心は、維月を抱き寄せた。
「どうした?震えておるのではないのか。」
維月は、首を振った。
「いいえ!あの、十六夜に話して来るのを忘れていて。少し、月へ戻って来ます。すぐに済みまするので。」
維心は、何事かと言う顔をしたが、頷いた。
「そうか。すぐに戻るのだぞ。」
「はい。」
維月は、無理に微笑んでそこを出た。そして、思った…あれは、きっと維心様ではない。維心様が、これを忘れるはずはない。何を忘れても、絶対にこれだけは…!
維月は、月へと光になって打ち上がって行った。
月に、十六夜は居なかった。気を探ると、どうも月の宮に降りて、父の碧黎と話しているようだった。なので、維月はそっと月から降りて実体化し、どうしても確認しなければならないと、ドラゴン城へと降りた。
そこは、強い結界が張られ、前より守りは強いようだった。しかし、月に結界は関係ない。維月は、ヴァルラムの気を探って、その部屋がある上階の奥へとすーっと降りて行った。
ヴァルラムの部屋の窓には、カーテンが引かれてあって、中は見えなかった。それでも、その中にヴァルラムが居ることは、維月には分かった。なので、そっとその窓を光に戻って抜けると、また実体化し、大きな寝台の上をうかがった。
『…何者ぞ!』
維月の知らないロシア語の、怒声が聞こえる。維月はびっくりして身を縮めた…何を言われたの?どうしよう、謝ったら日本語でも通じるよね。みんな神だから、言語はわかるよね…?
「あ、あの、申し訳ありませぬ。お休みでしたのに…。」
「維、維月?」その声は、ためらったように言った。「なぜに…なぜに、このようなところへ。」
日本語だった。維月は、闇の中に見えるヴァルラムに言った。
「お話を、したいのです。お時間を。」
すると、部屋の外から、侍従の声がした。
『王?!何かおありでしょうか?!』
しかし、ヴァルラムは、維月から視線を外さず答えた。
『…何でもない。下がれ。』
侍従の、ホッとしたような気が感じ取れた。そして、その気配が戸の前から去ったのを感じて、また日本語で維月に言った。
「何を話しに参った。このような時間に、よく主の夫が許したものよ。」
維月は、ヴァルラムを見上げた。どう見ても、ヴァルラム様。気も、間違いなく。でも、あの時、自分は維心なのだと言っていた。私に、指輪のことを言った。私を宝だとも…いつも、維心が前世から自分に言っていたことだった。
「何を言っていると思われるかもしれませんが」維月は、思い切ったようにヴァルラムを見て言った。「どうか、お教えくださいませ。この、指輪のことを。ご存知であられるでしょう?」
ヴァルラムは、ためらったようにそれを見た。そして、しばらく黙っていたが、横を向いて言った。
「…それは、主が維心と前世に婚姻の際から着けておるもの。転生しても、共にと約してお互いに持って参ったのであろう。なので、今生でもお互いを認識し、それのお陰で記憶を戻した。」
維月は、衝撃を受けた。それを知っているというの…ヴァルラム様は、維心様と接したのは僅かな間のはず。そんなことまで話せるはずはないのに。
「維心様。」維月は、ヴァルラムに駆け寄ってその腕を掴んだ。「維心様なのですね。あの時、私に口付けたのは、間違いなく維心様だった。私、あの瞬間分かったのに…そんなはずはないと思ってしまって。だって、気も何もかも、違うのですもの…。」
ヴァルラムは、驚いた顔をした。そして、じっと維月を見た。
「維月…我は、ただそんな記憶を黄泉から持って参ってしまっただけだ。このように、我は気も姿もヴァルラム。主の夫の維心の気は、あれは記憶にある自分の気だった。つまりは、龍王の気。何をしようとも、気だけは変えることは出来ぬ。我は、入れ替わったと思うておるだけであったのだ。」
維月は、首を振った。
「いいえ。維心様、あれは違います。私…最近の維心様に、どうしても愛情を感じなくなってしまっておったのですわ。今まで数百年共に来て、こんなことがあるなどと思ってもみなかった。なのに、私は何かが違うと、最近では月の宮に帰ってばかりおりました。十六夜がそれを見抜いて…自分も調べてみるから、お前も自分の勘を信じてよく見ていろと言われたのです。そして、今夜。あの維心様は、この指輪を不思議そうに見て、おっしゃったのです…どうも覚えがないのだが、と。」
ヴァルラムが、驚いた顔をした。これを、覚えていない…?あれは、維心ではないのか。もしも我ならば、絶対に忘れることはない。これは、維心と維月の、とても深い記憶として残っているはずなのだ。これが自分達を繋いでいると、思って…。
「では、我は間違ってはおらなんだのか。」ヴァルラムは、維月を見た。「我は、やはり維心なのか。この記憶は、黄泉から持ち帰ってしまったものではなかったのか。ヴァルラムとしての記憶がないのも、全ては我が、維心だからで、ヴァルラムではないからなのか。」
維月は、頷いた。
「はい。きっと、そのなのですわ。維心様…あれから数ヶ月も、気付かずにおって申し訳ございませぬ。私は…私は維心様を見分けておったのに。必死におっしゃる維心様の言葉を、信じることが出来ませなんだ。」
ヴァルラム=維心は涙を流して首を振った。
「それでも主は、こうして気付いて来てくれたではないか。」ヴァルラム=維心はそう言うと、維月を抱きしめた。「おお維月…主は夢でも他人の記憶でもなかった。我の維月であったのに…。」
窓の方から、ため息が聞こえた。驚いた二人は、それを振り返った…そこには、十六夜と碧黎が立っていた。維月は、碧黎を見て叫んだ。
「お父様!ああお父様、これが維心様なのですわ。どうか、どうか原因を見つけて元へ戻してくださいませ。私には、分かるのですわ。」
それには、十六夜が答えた。
「わかってる。親父は全部知ってるよ。オレが、今日しつこいほど訊いたんでな。」
碧黎が、両手を挙げた。
「ああ、分かっておるよ。維月なら気取るやもとは思うておったが、これほどに早くとは思わなんだ。ほんになあ、維心。しかし主、思い出したのではないのか。」
ヴァルラム=維心が怪訝そうな顔をした。
「何のことか。碧黎、まさか主の仕業ではあるまいの。」
碧黎は、手を上げると明かりをつけ、側の椅子に座った。
「話してやろうぞ。」と、皆に椅子を勧めた。「座れ。」
十六夜が、側の椅子に座った。ヴァルラム=維心は、維月を腕に抱いたまま、少し離れた椅子に座る。碧黎は、苦笑した。
「そのように警戒することはないわ。これ以上に悪いことは起こらぬだろうが。」と、十六夜を見た。「最初はの、ドラゴン城から戻った十六夜が、我に言うたことからよ…維心が、何か変わったのではないのか、炎嘉が、そう言っている、との。」
維心は、その時のことを思い出した。炎嘉が、険しい顔をして自分を見送っていた。あの時、何かを忘れているといわれた…あの後、十六夜と何か話したのか。
「維心が、前世の龍王としての維心と、明らかに意識が違うってのが、オレ達の間でも話してて分かってたんだが、若いからだろうって思って放置してたんだがな。炎嘉まで懸念してるとなると、もしかしてやばいのかと思って、親父に聞いてみたのさ。」
碧黎は、険しい目でヴァルラム=維心を見た。
「我とてとうに気取っておったわ。記憶を持って参ったとは申せ、主の中には前世の記憶が色濃くなっておるわけではない。今生を生きておるのだからの。なので、生き方次第で考え方が変わってしまうのも、あり得ぬことではないのよ。観察しておって…今生では主、全く苦労はしておらぬだろう。」
ヴァルラム=維心は頷いた。確かに、生まれて母がなかったのは前世と変わらぬが、洪達臣下に大事に育てられ、早々に維月に出会って妃に迎え、父にあたる将維に譲位され、世は大きく乱れることもなく、平穏に来た…今生だけならば、恵まれている。
「…確かに、苦労などしておらぬ。」
碧黎は頷いた。
「多少我がままになっても仕方がない環境よな。しかし主は、そうではなかった。わがままになったのは維月に対して。維月が物事の中心で、ついには世を正すことより維月が最優先。世を正すのは、維月と共に平穏な世で暮らしたいからに他ならぬようになってしもうた。主は地の王なのだ…維月だけの主であってはならぬのよ。」
ヴァルラム=維心は下を向いた。確かにそう…維月が側に居るのが、当然になっていた。その有り難味よりも、居ない時にどうして居ないと憤ることが増えた。しかしここへ来て数ヶ月、その有り難味が身に沁みた。ここでは、まるで前世の自分に戻ったようだった。誰もおらず、何を見ても心の琴線に触れず、炎嘉のような友すら居らず、サイラスもヴァルラムの友人かと思うと鬱陶しく、自分には友も妃も居ないまま、こんな龍王としての記憶などを持って苦しみながら生きて行かねばならぬのかと…。
ヴァルラム=維心が黙っていると、碧黎が続けた。
「なので、我は主に試練を課した。その記憶を持ったまま、ヴァルラムとして生きさせようとの。最初は大騒ぎするであろうが、その気と姿に誰が主の言うことを聞くであろうか?事実、誰一人、十六夜ですら気付かなかった。気や姿は、神の判断の重要なものだ。特に気など変えられないと考えるのが神。しかし…」と、維月を見た。「主は気付いたの、維月。それほどに維心が愛おしいか。」
維月は、頷いた。
「維心様のお姿だけでも、気だけでもありませぬの。きっと、魂なのですわ。違うと感じるのです…だから、愛情が感じられなくなった。あの、龍の宮に居る維心様の中に居るのは、誰ですか?」
碧黎は、頷いた。
「あれはヴァルラム。入れ替えるのが手っ取り早いからの。しかし、ヴァルラムとて己を維心だと思うておるぞ。何しろ我が、いつか戻さねばならぬと思うておったゆえ、ヴァルラム本人の記憶であったなら、維月を忘れられずにヴァルラムが苦しむことになろうと思うての。しかし、あやつは龍ではない。なので、龍より穏やかなのだ。それが、維月を得て幸福な生活をしておったなら、あのように穏やかで慈悲深い王になるということが、今回分かったの。あれは、非情の王にはなりえない。本来の性質がそうなのだ。なので、大陸を治めるためには、孤独で独りで居なければならなんだのよの。思えば、哀れなこと。そろそろ、こちらの神の事も我はよう見てやらねばと思うておるよ。」
十六夜が、碧黎を見つめた。
「じゃあ、ヴァルラムは戻すのか?」
碧黎は頷いた。
「仕方あるまい。維月が気取ったしの。このままにしておくことも出来ぬから。ヴァルラムのことは、我に任せよ。あれは龍の宮での己ことは一切覚えては居らぬだろうから案ずるでない。」と、維月を見た。「そうよなあ…主、ヴァルラムの子を産むか。」
維月は仰天して碧黎を見た。ヴァルラム=維心は維月を抱きしめて首を振った。
「なぜにそうなるのだ。ヴァルラムを責務から解放するために、王の器になる神が居るのは分かる。だが、誰か他の女に産ませればよかろうが!」
碧黎が、あからさまに嫌な顔をした。
「あのな維心。もし主に他の女と子をなせと言うたなら、そうしたか?」
ヴァルラム=維心はぶんぶんと首を振った。
「なぜにそのような!維月以外の女など人形にしか見えぬわ!」
碧黎は、それ見たことか、と言う顔をした。
「そうであろうが。ならばヴァルラムにもそれは無理ぞ。あれは維月に懸想しておるからの。困ったのう…ヴァルラムにも、幸福な生というものを与えてやりたいものぞ。維心と同じように戦って来たのであるから。あのまま黄泉へなど、今の我には出来ぬな。」
十六夜が、ヴァルラム=維心を見た。
「ちょっとだけ貸してやれよ、維心。」
ヴァルラム=維心は首を振った。
「ならぬ!本来妃は貸し借りなどしないもの。なぜに我だけそのような目に合わねばならぬのだ。」
十六夜が目を細くして呆れたように言った。
「オレだってお前に貸してやってるんだけど。」
ヴァルラム=維心はグッと詰まった。
「それは…そうだが。」
碧黎が、ため息を付いた。
「他の手を考える。こんなにいろいろあっては維心の心が折れてしまうわ。とにかくは、今夜主らが寝ておる隙に戻そうぞ。」と、碧黎は、維月に手を差し出した。「さあ、娘よ。父と戻ろうぞ。」
維月は頷いて、ヴァルラム=維心を振り返った。
「維心様…お目が覚めたら、あちらでお会い出来まするから。」
ヴァルラム=維心は頷いた。
「維月…楽しみにしておるゆえな。」
維月は微笑むと、碧黎と共に光になった。そして遅れて十六夜も光に戻ると、三つの光は月の宮の方角へと飛んで行った。
ヴァルラム=維心は、どうかこれが夢ではないようにと、寝台に横になって目を閉じた。目が覚めれば、龍の宮であることを信じて。




