約定の日
維月は、維心の背をじっと見つめながら座っていた。維心は、前で臣下達に対応している。謁見の時間で、王と王妃はこうして揃って出て来なくてはならないのだ。いつもと変わらない風景だったが、それが維月には違和感があった。なぜなら、維心がとても落ち着いて見えたからだ。
前世、維心は確かにこんな感じだった。いつも落ち着いていて、維月に構うのは居間で落ち着いた時など、今の若い維心のように、どこでも維月維月と構わず構うことはなかった。確かに、十六夜や炎嘉などが来たら、前世の維心でも臣下の前でそれはがっつり維月を抱いて離さなかったりしたが、大概の日常は離れて会合にも行っていたし、執拗なほどヤキモチを焼いたりはしなかったのだ。
若いせいで、そのうちに落ち着くだろうと十六夜とも言って譲っては来たが、最近では少し過ぎた執着のような気がして、大丈夫だろうかと思ってはいた。
十六夜か、誰かが維心様に言ったのかしら。
維月は、そう思っていた。
そうしているうちに、洪達臣下が維心に深々と頭を下げて、下がって行った。指示が終わったらしい。維心が、振り返って微笑んだ。
「維月、待たせたの。さあ、居間へ戻ろうぞ。謁見も、こう多くてはやってられぬの。」
維月は微笑み返して、差し出された手を取った。
「はい。」そして、もしかして今ならいいかもと思い、思い切って歩きながら言ってみた。「あの…維心様。里帰りのことでありまするが…。」
維心は、歩きながら維月を見た。
「ああ、此度のことで戻ったのではないか?」
維月は驚いた。戻ってはいけないと言ったのは、維心様だったのに。
「いえ…あの、まだ戻ってはいけないとおっしゃったので、まだ。父と母と話したいと思いまして。」
維心は、驚いたように維月を見た。
「我がそのように?」と、眉を寄せた。「そうか、すまぬの。記憶が混乱しておるところがあっての。それでは主も落ち着かぬだろう。父母も案じておるだろうに。すぐに戻るが良い。では十六夜とも、話しておらぬということよな。あれから二週間にもなるのに。」
維月は、少し驚きながらも、頷いた。
「はい、ありがとうございまする、維心様。」
維心は、フッと微笑むと維月を抱き寄せた。
「良い。何を申す。だが、此度は一週間ほどで戻るようにの。約定の調印もある。主が居らずとも良いとはいえ、宮が大きなことをする時には王妃はここに居ったほうが良いゆえの。それに…我が主が居らぬと寂しいゆえの。」
維月は、微笑んで維心に抱きついた。
「はい、維心様。此度はすぐに戻りまするから。」
維心は、維月を抱きしめて頷いた。
「良い返事よ。待っておる。」
維月は、とても幸せを感じていた。維心が、前世の維心に戻ったような…穏やかで、余裕を持って愛してくださった維心様…。黄泉に居た時の維心様みたいな感じ…。
そして、維月は月の宮へと里帰りし、十六夜と碧黎とも会い、陽蘭と過ごし、一週間を過ごしたのだった。
約定の日は、朝から物々しい雰囲気だった。
何しろ、それに反対する大陸の勢力が襲って来る可能性もある。この数週間、ヴァルラムと維心の臣下達が内容を詰めて、双方の要望を入れた内容を考えたのだ。
それを、ヴァルラムと維心の両方が確認し、気の刻印を捺すのがこの日なのだ。
維月も朝から綺麗に飾りつけられ、その席に同席することを言い渡されていた。じっと座っているのが嫌いな維月は、月の宮で楽しく気楽に遊んで来たばかりだったので、篭められているのが余計つらく思えてならなくて、維心に言って始まるまで庭へと出ていた。維心は、苦笑しながらも出て参るがよいと許してくれた。
維月は、嬉々として庭を思い袿で歩いた。維心が、とても優しい。いつも優しいが、絶対に自分の側から離れるなと言っていた時が嘘ようで、さりげなく気遣ってくれるのが心地よい。夜も、とても穏やかで優しかった。いつも激しくてふらふらになることも多かったのに、あれから落ち着いて維月も余裕を持っていることが出来た。でも、たまに不安になることがあった…維心様、私に飽きて来たのかなあ…。
ヴァルラム=維心は、この数週間、臣下達に嫌になるほど気遣われ、それが面倒なので仕方なくドラゴンの王として政務を行なった。しかし、記憶は変わらなかった。自分の中では間違いなく維心で、しかし姿は変わらずヴァルラムだった。毎日、目覚めたら龍の宮の寝台の上ではないかと期待して目を開けるが、間違いなくドラゴン城の王の寝室の、大きなベッドの上で一人だった。そして、最初は金具一つもどうやればいいのか分からなかった洋服さえ、今ではきちんと着れるようにもなった。毎日、鏡に映して見る自分の姿は、間違いなくヴァルラムだった。ヴァルラム=維心は、段々に自分が本当に記憶が混乱しているだけなのではないかと思うようになっていた。
しかし、今日は約定のため龍の宮へ帰る。その時、何か手がかりを得ることが出来るのではないか。ヴァルラム=維心は期待していた。維月…維月は、どうしているのか。
輿が龍の宮へと舞い降りて行く。数週間離れただけなのに、維心はそこを懐かしいと思った。ここは、我の宮。間違いなく、我が統治していた宮なのに…。
到着口に降り立つと、洪が迎えて頭を下げた。
「ヴァルラム様。ようこそお越しくださいました。では、お控え室の方へご案内致します。どうぞ、こちらへ。」
ヴァルラム=維心は黙って頷いた。どうせ、今ここで洪に何を言っても、またアキム達と同じように頭がおかしいのではという顔をされるに決まっている。分かっていたので、そのまま客間へと移動した。
最上級の貴賓室へと通されたヴァルラム=維心は、じっと庭を見た。自分が、この宮の客間へ入ることになろうとは。考えたこともなかった…。
そこへ、アキムがやって来て膝を付いた。
『王。こちらの準備は滞りなく、終わりましてございます。王には既にお見せしております、あの内容をそのままに書状に焼付けまして、ご準備しておりまするので。』
ヴァルラム=維心は頷いた。
『わかった。まだ時はあるのか。』
アキムは、頷いた。
『はい。もうしばらくお待ちくださいませとのこと。』
ヴァルラム=維心は立ち上がった。
『では、我は庭にでも出て居るゆえ。時が来たら呼ぶがよい。』
アキムは、少し不安そうにしたが、頷いて頭を下げた。
『は。』
ヴァルラム=維心は、思っていた。この隙に、庭から奥宮をうかがうことは出来まいか。さすれば、少しは何かたくらみが分かるのではないのか…。
そう思うと、時が惜しく、ヴァルラム=維心は早足に庭を抜けて行った。
一方、維月はぼーっといつも行く池の端に座って水面を見ていた。何か、最近物足りない気がする。何もないはずなのに、そんな気がするのだ。
維心は、物凄く優しくなった。というか、穏やかになった。それを、里帰りの時に十六夜に言うと、前世もそうだったんじゃねぇのか、と笑ったが、そうではなかった。維心の前世、あれは実は激しいのを、押さえる術を身につけて押さえていただけで、その実維心は大変に激しい気性だった。なので、何かの時に爆発すると手がつけられないほどになった。それは、いくら歳を経ていても同じだった。
今生の維心は、それに輪を掛けて激しく見えた。それはまだ若いので、前世の維心ほど我慢が出来ないからだった。それでも、自分を押さえつける方法はある程度知っていて、押さえてもいた。では何が問題だったかというと、考え方だった。今生の維心は、維月ばかりだった。前世既に重々しい王であった維心が、その生の終わりに出会ったのが維月だったし、それから維月にかまけると言ってもそう羽目を外すこともなかったが、今生は若くて早くから会ってしまったために、どうも考え方が変わってしまっているようだった。なので、維月も心配していたのだ。
維心が落ち着いて、心配することがなくなって、良かったとは思う。だが、維月には違和感があった。前世の押さえ込んだ激しさまで、感じなくなってしまったからだ。あの静かな激しさも、好きだったんだけどな…。魂のレベルが上がったのかな?というか、何だかとても老けたように思ってしまうのは、私の身勝手かしら…。
維月は、またため息を付いた。すると、側の茂みががさがさと動いた。
そこには、ヴァルラムが立っていた。
ヴァルラム=維心は、庭を奥へと抜けて歩いていた。元より、この庭で迷うことなど、自分にはなかった。なので、すんなりと迷うことなく、いつも行っていた奥の池まで辿りついた。
ヴァルラム=維心が木を掻き分けて行くと、先に懐かしい気を感じた…この気…維月…?!
慌てて茂みを抜けると、思った通りそこには、正装させられた維月が座ってこちらを見ていた。びっくりしいているようだ…突然に出て来たからだろう。ヴァルラム=維心は我を忘れて叫んだ。
「維月…!」
維月は、立ち上がって慌てて頭を下げた。
「ヴァルラム様…ようこそいらっしゃいました。あの、こんな場所で失礼致しまするわ。調印まではまだ時間があったので、散策しておりましたの。ヴァルラム様もでございまするか?」
ヴァルラム=維心は、思わず抱き寄せようとしていた腕を、ピタリと止めた。ヴァルラム…やはり、維月にも我のことはヴァルラムに見えるか。この姿…分からぬのか。
「我は…」ヴァルラム=維心は思い切ったように維月を見た。「維月、分からぬか。我は維心ぞ。主の夫、前世より、ずっと共に来たではないか。我は…目覚めたらこのようになっておった。我はヴァルラムではない。維心なのだ。」
維月は、ためらったようだった。
「え…ヴァルラム様?何をおっしゃって…」
ヴァルラム=維心は維月の手を握った。
「維月、我ぞ。我が妃よ。我が分からぬのか。臣下も十六夜すら気付かぬ。だが、我は維心。主には分かるであろう?このような姿でも、我らは共だと約したのに。そう指輪。我ら共にと…」
ヴァルラム=維心は自分の手を見て、それがないのを感じた。そうだ、この体であの指輪をしているはずがない。維月は、戸惑って手を離そうとした。無理もない。姿がヴァルラムなのに、我は…。
ヴァルラム=維心はそれでも、維月に訴えずにはいられなかった。
「我をそのような目で見るでない。我の命より大切な宝であろう。維月…」
維月は、必死に訴えるヴァルラム=維心の目を見つめた。金色の瞳…でも…。
そう思って見上げる維月に、ヴァルラム=維心は唇を寄せ、深く口付けた。
「!!」
維月は、びっくりした。あの時、気の補充が必要だと何度もこうして唇を合わせた。でも…これは?
「何をしておる。」低い声が割り込んだ。維月がハッとして振り返ると、そこには維心が浮いていた。「これから調印をしようかという相手の王が、その相手の妃に手を出すとは何事ぞ。」
ヴァルラム=維心はその姿を見て、愕然とした。間違いなく、自分の姿。あれは、自分。龍王、維心の姿と、気だ。それなのに…この自分は、ヴァルラムの姿と、そして気。誰が見ても、我はヴァルラム…。
ヴァルラム=維心が維月から手を離したので、維月は慌てて離れた。すると、そこへ維心が舞い降りて来てヴァルラムを睨んだ。
「…今回は、見なかったことにする。調印も、必要であるゆえの。しかし二度と、我が妃に触れること許さぬ。」と、維月の手を取った。「さ、参るぞ。」
維月は、ためらいがちにヴァルラムを振り返った。ヴァルラムは、呆然とただ立ち尽くしている。
維心は、維月を腕に、宮へと戻って行った。
調印は、無事に終わった。維月が同席することはなかった。やはりあんなことがあったので、維心が止めたのだろう。
ヴァルラム=維心は、ただ呆然と言われるままに調印の式に出、そして、言われるままに宴の席に同席した。そして、その間ずっと思っていた…ここは、もう我の宮ではない。我は、維心ではないのだ。ドラゴンの王、ヴァルラム。あの、強大な気を持つのが龍王、維心。我は、夢を見たのか。龍王として君臨し、そして愛しい妃を迎え、幸せに暮らしていたという、そんな、他人の幸せをうらやむあまりの、夢を。
その夜、ヴァルラムは思った。我は維心ではない。このような記憶、黄泉から持ち帰ったただのドラゴン族の王、ヴァルラムぞ。もう、他人をうらやむような気持ちを、持つのはやめなくては。我は、叶わぬ夢を追えるほど暇ではない。なぜなら、大陸を平定して押さえつけておるのだから。
ヴァルラムは、涙を流した。なんと残酷な夢を見せることか。黄泉から戻るのではなかった。我はあのような幸せ、知らぬ方がよかったのに…!




