第九章 穴瀬| 面倒
9-1. 決心
事務スペースの安っぽいドアを軋ませ、一度振り返った。コピー機、ファックス機、プリンター、PC、すべての電源が赤くなっているのを遠目で確認し、電気パネルのショールームの灯りを半分絞る。半分開けてあった表の入り口のシャッターを完全に下ろして鍵をかけ裏口へ向かった。
穴瀬はやらなくてもよい残業を終えて帰宅する所だった。少し思い裏口のドアの鍵を上下締めて、ドアノブをガシャリと引っ張る。鍵か掛かったことを確認して昼間は試乗車が置いてある広い駐車スペースを横切って行った。
ショールーム前の生垣に人影が見えた。こんな時間にこんな所で、と不思議に思いながらチェーンポールを跨いで社用駐車場へ向かおうとした時、人影が立ち上がった。
「穴瀬さん・・・!」
(そうか、面倒がやってきたんだ・・・)
と穴瀬は他人事のように思う。石岡を見下ろす背の高さで「面倒」を見つめた。石岡は彼特有の少し怒ったみたいな顔をして穴瀬を見上げていた。彼の緊張した時の顔だ。穴瀬はまだ、覚悟ができてない。彼が言おうとしていることを受け取る気にもなれない。
「穴瀬さん、」
「何?」
「俺・・・」
「ファミレスでいい?」
「え?」
「立ち話で済むの?」
「あ・・・あぁ、いえ。」
「車だから。駐車場までちょっと遠いんだけど、歩いて。」
穴瀬は何歩か先にたって歩いて振り向き、石岡と少し見合った。遠くでクラクションが鳴った。それを合図にしたように石岡は穴瀬の後について来る。
駐車場のいつもの場所からキーを押す。ガシャリとドアが開いた音がした。運転席に座って、石岡が迷っているらしい事に気がついた。運転席から乗り出して助手席のドアを開けてやると、石岡は黙って助手席に座った。
何も言わずにエンジンを掛けて一番近いファミレスを考える。その沈黙に耐え切れなかったのか、石岡が「穴瀬さん」と呼ぶ声と穴瀬がアクセルを踏むのが同時だった。
「何?」
でも、穴瀬がそう訊いてももう石岡は何も言わなかった。小さな声で「いえ」と言った声が聞こえたが、話はファミレスに着いたらと決めたらしかった。
都会独特の地階にある駐車スペースに車を停めて、先に行っていて、と石岡を先に行かせる。石岡はデッキをあがる階段の手間で一度穴瀬の車を振り返った。穴瀬はハンドルに凭れてそんな石岡を見送る。
(どうしようかな)
面倒くさい、やはりそう思う。それでも、この面倒を引き受けてみたら何かが変わるんじゃないかとどこかで期待してはいないか。多分、石岡があの応接室で見せた面倒を持ち込む顔を見た瞬間から、いつかこうなるんじゃないかと思っていた。だるい体を横たえたビーチチェアーに真っ直ぐに向かってくる石岡を見たとき、確かにこうなるのではないかとそう思った。朝日の中で、彼の目が自分を見つめた時、その視線の強さは穴瀬を穿つように強く、きっと心の中までも覗き込まれるような気がして、穴瀬が心のどこかで面倒を求めているのだとしたら、石岡にはそれが見えたのではないだろうか?
(なるようになるでしょ・・・)
車を出て、ワイシャツだけの穴瀬は肌寒さにぶるっと震えた。後部座席に置いたスーツの上着をちらりと見て急いで鍵をかけると、駆け足でデッキを登っていった。
両手で顔を隠すようにして悩ましげな石岡が座っている。穴瀬は人数を尋ねるウェイトレスを無視して石岡の座っている席へ向かった。人の気配を感じた石岡が顔を上げて穴瀬は向かい側に座った。二つの水のグラスがうっすらと汗をかいている。
「飯は?」
穴瀬がノンビリ訊くと、石岡は黙って頭を振った。こんなふうに緊張する気持ちを、穴瀬は知らない。自分の想いの丈をぶつける緊張感ってどんなんだろうか、と思う。石岡と一緒にいたら、そんな気持ちをいつか覚えるだろうか?
メニューを広げながら、穴瀬は石岡を見ずに言った。
「初デートなんだから、もっといいとこにすればよかった。ね?」
9-2. 束縛
「ッんん・・・もうっ!!しつっこい!!!!!」
執拗に求めてくる石岡をやっとの思いで自分の体から引き剥がして、重たい体を無理矢理起こした。疲労に任せて横たわっていたら、いつまでだってこの男は自分を離しはしない。石岡に応えることができない自分の淡白さを年齢のせいにして、穴瀬は片腕に引っかかったままのしわくちゃのシャツを羽織った。
「なんで?当たり前でしょう?」
(当たり前じゃない)
「もっと知りたい。穴瀬さんのこと、もっと。」
「十分知ってるじゃないか。これ以上何を知りたいの?」
「カラダ中にキスしないでどこがいいかなんて、どうやったら知り尽くせるの?」
「はあ?何言ってんだよ。そんなの、大体分かるでしょ?それともそんなことも分かんないなら、誰かを抱いたりするのなんかやめなよ」
「大体、じゃなくて、全部知りたいの。俺は。」
「バカみたい。」
人間は全部を知り尽くせるほど簡単にできているのか?いや、あるいは、人間なんて単純すぎて、この歳になればある程度のことなんて分かりすぎているくらいだ。そんなことをいちいち説明するのも面倒くさい。穴瀬はワイシャツの前を肌蹴たままシャワーへ向かう。
「ちょっ・・・と・・・!!穴瀬さんっ!!」
あの夜面倒がやってきてから2ヶ月が過ぎた。朝、昼、晩、一日3回は掛かってくる電話。土日が休みの石岡と稼ぎ時の穴瀬の休みが合わないのは穴瀬に取っては幸いと言えるほどだった。客足が増えて残業が多くなるのに、土日の夜のどちらかはあるいは二日とも穴瀬に会いに来る。月曜日の夜、できるだけ仕事を早く終わらせて会いに来る事もあった。穴瀬にしては十分サービスがいい方なのに、何がまだ足りないというのか、不満を募らせる石岡はそれを隠そうという気もないらしかった。
シフトによっては週末に休みになることもあった。それに合わせて朝早くからデートした一日はせいぜい夕ご飯を食べて解放かと思ったら続きがあった。穴瀬はだれかとこんなにまで一日中一緒にいたことなど家族以外にはいない。不満というよりも疑問が先に立ってしまってズルズルとこんな時間になってしまった。
今日一日分の疲れがじわじわと湧き出すのに、この上自分を束縛して当然のように振舞う石岡が心底面倒くさい、と思った。これだから厭だったのだと後悔の念が湧き上がる。
(もう・・・本当に面倒くさい)
熱めのシャワーを頭から掛けながら穴瀬は歯軋りをするような気持ちだった。
こんなはずじゃなかったのに、と思う。自分にはやはり何か生まれつき足りないものがあるのではないだろうか。なぜ誰もが恋をして、たった一秒をも惜しみながら二人きりでいたいと思う気持ちを募らせていくのに、自分だけはなにもかも面倒くさくなってしまうのだろうか。
その時、シャワー室のドアをコツンと叩く音がする。
「穴瀬さん、ごめん。」
シャワー室の曇りガラスに石岡の黒い頭と握り拳が見える。裸体にボクサーブリーフだけを履いてきたのかうっすらとシルエットになった石岡がうな垂れているのが分かった。
(悪いのは俺なのに)
石岡は、悪くない。穴瀬は動きを止めて曇りガラスの向こう側にいる石岡を見ていた。
「焦りすぎてるよね、俺。ごめん。嫌な思いさせて」
(悪いのは俺なのに)
穴瀬はシャワーをフックから下ろし、曇りガラスに向けてざーっと掛ける。驚いた石岡が少しドアから離れたのを見計らってドアを開けてできるだけ穏やかな笑顔を作った。
「一緒に入る?」
石岡は一瞬目を瞠って、少年のように笑う。ゴールを決めたサッカー少年のような爽やかさだった。穴瀬はこんな石岡が好きだ。そして、なぜかとても寂しい。
9-3. 痕跡
皺になったシャツを着るたびに、比べるつもりも無い人を思い出してしまう。その人はいつも、ゆっくりとボタンを外した。ひとつひとつ、マニュアルを確認するように穴瀬に口付けてはボタンを外し、ボタンを外しては穴瀬に口付けた。そしてカフのボタンを外しながら、穴瀬の人差指の第二関節にキスをした。左、右、と。いつも間違いなくその順番で。ワイシャツを肌蹴て椅子の背や、ソファや、サイドテーブルや、目がもうひとつあるように丁寧にどこかに置いて、穴瀬を愛撫しながらいつも頭のどこかでこの愛撫の果てのその先を見ている。
ワイシャツの皺は石岡の性急さが綯う愛のロープだ。そのシャツを着るたびに、穴瀬は胸を縛り付けられる。腕も、腰も、膝も、動けなくなるほど縛り上げられて苦しくて、逃げ出したくて、もがく。「おねがい、もう、やめてくれ」そう言ったら、このロープは緩むことがあるだろうか。
「穴瀬さん」
上半身裸の石岡がTシャツの両腕だけ入れてベッドに座ってこちらを見ていた。
「ん?」
「穴瀬さん、まだ怒ってる?」
「・・・。いや。怒ってないよ。」
「でも、眉が寄ってる」
「あ?あぁ・・・いや、別に。」
(シャツが皺だらけだな、って思って・・・)
でも、穴瀬は口に出さない。シャツの第二ボタンを止めると、丸まったセーターを手に取った。皺だらけのTシャツを着た石岡がまだ穴瀬を見つめている。セーターの裾を捌きながら石岡を見返すと、石岡は照れくさそうに笑った。
「ワイシャツの穴瀬さんもかっこいいけど、そういう格好の穴瀬さんもいいね。」
「そう?ありがとう。どっちのが好き?」
「うーん、そうだなあ。裸の穴瀬さんが一番好きだよ。」
「答えになってないね。」
石岡は笑って言う。
「俺ね、いつも穴瀬さんがワイシャツを着てネクタイを締めて鏡を確認する時ゾクゾクすんの。せっかく着たワイシャツとネクタイ、もっかい脱がしたいって思う。でも、そういう格好の穴瀬さんも、いいよ。服着たまま、したい。」
穴瀬は、石岡が言った言葉の途中からはもう聞こえていなかった。
『俺、それ、好き・・・。その、ワイシャツを着た後にキスマークを確認するところ。』
穴瀬はそう言って微笑んでいた男を思い出す。そして彼が必ず残した痕跡を。癖になった確認作業が、本当は何を意味していたのか、石岡は知らない。そして彼は無邪気に、その姿が好きだと言う。