第三章 石岡 | 9月 夏休み
3-1. 旅の始まり
「海に行かない?」と、森川が言った時、石岡は近場の海に日帰りで行くのだろうと思ったので軽く「いいですねえ」と答えた。夏休みを使って三人で泊りがけで行くと分かっていたら、もう少し慎重に考えたのに、と思う。
(慎重に・・・?何を?)
7月、8月、穴瀬はやはり森川に会いにやって来た。外回りをするせいで陽に焼けた穴瀬は精悍さを増した。この笑顔の少ない営業マンの売上の行方が気になる。7月は応接室、8月は社長室に案内した。穴瀬は石岡が迎えに来た時一瞬だけ目を和らげたが石岡の好きな笑顔は見せなかった。
7月は森川からの内線で、8月は穴瀬を案内した社長室で、森川から夕食に誘われた。断る理由はもちろんなかったけれど、たとえ先約があったとしても優先したい。小さな弟が、兄とその兄の友達の仲間に入れて貰うような、単純な嬉しさがいつもそこにあった。
ただ、いつも、喉につかえて取れない魚の骨が石岡の単純な喜びに水を差す。森川の武勇伝、森川の冗談、森川の語る夢物語、無言の賛同と反対を語る穴瀬の眉や穴瀬の肩、穴瀬がスパイスやグラスを運ぶ手、そんな玉手箱のようなひと時が終わった後で、必ず二人揃って石岡を見送る時。
石岡はつとめて爽やかに「ご馳走様でした~」と笑って手を振る。だけど・・・。
長い友人同士なら二人で語り合う事もあろう。そう思うたびに頭のどこかで首をもたげる疑問。
男同士。そう思うたびに胸のどこかで首をもたげる自分自身への問い。
9月のリゾートならフィジーかハワイがいいのだと森川は言っていた。急に思い立った旅行で予約が取れなかったので奄美大島になったが、石岡にとっては二人とリゾート地に旅に出かけるならそこがフィジーだろうとハワイだろうと奄美大島だろうとあまり大差ない。温泉もいい、という話もあったが、多分二人は若い石岡のことを考えてくれたのかもしれない。
一日に一便、直行便がある。昼に奄美に入る便だった。のんびり仕度を整えて羽田で待ち合わせた。3日分の着替え、水着、小さなスーツケースに入れてまだ空きがあった。お土産を入れたらちょうどいいだろうとぼんやり考える。
コロコロとスーツケースを転がして電車を乗り継ぎ羽田空港に入った。少し早く着いた。出発ロビーから森川の携帯電話に電話する。
「もしもし?」
その声は、穴瀬だった。
旅の始まりの忙しなさの中で忘れていたのに、ウキウキした気持ちを押さえつけるように、石岡を居心地の悪さが襲う。でも、それを否定するようにさり気なく
「あ、今、出発ロビーに着きました。」
と元気よく答えた。
「俺たちも今来たトコだよ。3階にXXっていうカフェっがあるから、ちょっと一服してからでどう?」
石岡はロビーを戻ってエスカレーターへ向かう。空きのあるスーツケースが少し重くなったような気がした。
3-2.青い海
こんなに長く飛行機に乗ったのは初めてじゃないかと思う。飛行機が斜めに旋回しながら着陸する時眼下広がった白い砂浜と青い海の始まりを見ると、石岡の憂鬱は吹っ飛んだ。
「スゲー・・・」
はしゃいだ子どものように窓に額を押し付けて、森川と穴瀬を振り返り
「綺麗ですよ、すっごい、綺麗!!」
必要以上に元気のよさを装う。それが、この二人が自分に求めている「イシオカ」だと思うからだ。森川が笑う。こうして穏やかに笑う森川が石岡はとても好きだ。仕事の事になれば時に厳しい事もあるけれど、ランチに誘ってくれる時や穴瀬と共に夕飯やお酒に誘ってくれる時、彼はいつもこうやって、年の離れた弟を可愛がるように石岡に接してくれる。
青い空の下にいれば誰だって、大きな声で笑いたくなるものだと、この景色の中ではっきりとそう思う。どこか居心地の悪い気がした三人の旅の始まりも、この空の下でなら、と思う。ハーフパンツをはいた石岡は元気よくボーディングブリッジへ飛び出して行った。その小さなトンネルは石岡の未来のどこかに通じている。社会人になって初めての夏休み。少なくとも、そこへ。
中日の忙しい日は石岡の運転、半日で済む今日は森川が運転するという。空港で借りたレンタカーでソテツの海岸道路を走る。そろそろお腹がすいたと誰かが言い出して、洋食にするか定食屋のようなところがいいかと騒ぎながら、ビストロのような、雰囲気の良いレストランに停まり昼食を取った。非日常的なレストランの濃茶の枠の窓から、どこまでも青い海が見えた。
「綺麗だなあ・・・」
穴瀬が窓の外を見やりながら言う。独り言のように、でも確かに彼の前にいる二人に向かって。穴瀬は、眩しくて目を細めているのだろうか、それとも、見えないものを見ようとして目を細めているのだろうか。立ち上げた前髪と賢しそうな額。スーツを着ている時はその髪型も額も実際の年齢より上に見える気がするけれど、こうして白いポロシャツを着た彼は少し若く見える。
そして、穴瀬の隣に座った森川が見ているのは、窓の外なのだろうか、それとも、窓の外を見ている穴瀬なのだろうか。
「ほんとにね」
そう答えた森川を一度振り返った石岡は、でも、森川が見ているものを確認できないで、また窓の外を見た。どこまでも、本当にどこまでも、青い海。あの海の底に揺らめく幾千幾万の命はあの青さの底に沈んで海を眺めているここからは見えない。美しい海の底に泳ぐのは、どんな美しい魚なのか、どんな怪物めいた魚なのか。そして、石岡は思う。そこに何がいたとしても、青い海はただ、美しいし、それでいいのだ、と。
3-3.二つのダブルルーム
空港から程近いペンションは、まるで外国の映画に出てくるようなリゾート地らしい造りで海が一望できる。グループで利用できるコテージがついていたが空きがなく、エクストラベッドが入らないダブルの部屋を二部屋予約してあった。話し合った訳ではないけれど、おそらく石岡が一人だ。
当然そうだと思っていたのに、チェックインを済ませて二つのキーを持ってきた森川が
「グーパーしようぜ」
と、言い出す。
「は?」「いいよ」
石岡と穴瀬が答えたのが同時だった。
「なんで?俺、一人でいいです。」
焦りながら石岡が言うと、森川が笑って言う。
「一人で一部屋なんて贅沢過ぎるよ。ここは公平にグーパーだよ。」
「グーチーでもいい?」
穴瀬が受ける。(そう、その笑い方が、好きだ。)石岡は穴瀬の笑顔を見て思う。二人のその掛け合いを見て、自分だけが変な気を使っていたんだ、と安心感とか恥ずかしさとか色々な気持ちが綯い交ぜになって石岡の心をグルグル巻きにして、嬉しさだけが搾り出されてくる。
「じゃあ、チーパーでどうですか?」
と石岡が言うと、二人が笑って答える。
「じゃ、チーパーで」「オーケー、チーパーね!」
こんな些細な事がこんなに楽しいなんて、と石岡は思う。部屋割りは、森川と石岡、穴瀬が一人の部屋になった。
3-4. 絶妙なバランス
大きなテラス付きのダイニング・ホールで食べる南の島らしい食事。ハワイの郷土料理と言われているロコモコを作れるハンバーグプレートとライス、スープと小さなサラダにはパパイヤの刻んだものが入っている。遠くなり、近くなる潮騒。暗闇に揺れる狐火のような蝋燭。旅の始まりの興奮が冷めやらぬ石岡がガイドブック片手にはしゃいでいた。半分食べ終わったハンバーグを、半分食べたライスのボウルに乗っけて、今、端に除けておいた目玉焼きをそうっとボウルに乗せようとしているところだ。ほんの半日で焼けた腕、頬、額の赤さを暗闇に溶け込ませて森川は、木製の椅子の背もたれに寄りかかったり、前かがみになったりしながら、大きく切ったハンバーグを、大きくすくったライスを頬張りながら、石岡とガイドブックを睨んだり、そのガイドブックを穴瀬に見せたりしている。穴瀬はロコモコにしたライスのボウルを大きな手に乗せて、殆どずっと同じ姿勢で、二人が決めていく翌日と翌々日の予定に耳を傾けていた。
カップルと家族連れが彩るダイニングを三人連れ立って出る。少し海辺を散歩しようと穴瀬が言い出して、ペンションの小さなフロントで貰った地図をあっちを上にこっちを下に回しながら、灯りの少ない道路へと出て行った。石岡が一人、前を歩いたり、後ろを歩いたり、穴瀬が一人取り残されるように付いてきたりする3人の夜の散歩は、ビーチまでたどり着いてテトラポットの山に突き当たるとまた来た道を戻った。暗い闇の側から歩いてくると、白っぽいペンションの壁が奄美の夜にぷかりと浮いていた。
小さな灯りがいくつかと非常灯を残して蝋燭が消えたダイニングを通り過ぎる時、大きな窓の向こうにテラスと海が見える。石岡はその薄い闇の中に、先ほどまで自分たちが夕食を取っていた席を捜し、なぜだかそこに置き忘れたものがあるような気がして仕方がなかった。それは、何だろう。思い出?そう、きっと、絶妙なバランスで成り立っている三人の、危なっかしい愉快さ。永遠に続けばいいのに、どこか、いつか壊れてしまう事を分かっているような(あるいは望んでいるような)危なっかしさ。
穴瀬が左手を少し上げて、あの笑い方で笑う。
「おやすみ」
穴瀬が低い声で言った「オヤスミ」が、ペンションの静かな廊下に少し響くように聞こえた。部屋の中から森川が石岡を呼んで、石岡が部屋に入ったとき、穴瀬が閉めたドアの音が聞こえた。
3-5. あるひと部屋の朝
朝がゆっくりめだったといっても、飛行機に乗って遠く奄美大島までやって来たのだった。旅の疲れか、石岡は、森川がシャワーを浴びている間にぐっすりと寝込んでしまったらしかった。翌朝、目が覚めたとき、辛うじてブランケットが掛かっている状態で、石岡は昨日の服のままベッドに寝転がっていた。
隣のベッドで、森川がうつぶせになって寝ている。パジャマを持ってきていないのか、裸の肩と腕がブランケットから出ていた。二の腕のTシャツの袖の下あたりから下がまだ赤くなっている。枕の上にうつ伏した顔も、頬、鼻の頭がとくに赤い。
石岡は森川を起こさないように静かにベッドを降りてユニットバスの扉を開閉した。ゆっくりと蛇口を捻り、低いバスタブの中でシャワーを浴びる。朝起きたばかりでぼんやりしていて、シャンプーや着替えを持たないで入ってしまった。うっかりしたな、と思いながらとにかくシャワーで頭から流す。やっぱりシャンプーと着替えを取ってこようとシャワーの蛇口を閉めて、小さなタオルを腰に巻いた。そおっと扉を開けて顔を出すと、森川がベッドの上で肩肘を付いていた。
「おはよ!」
「あ・・・起こしちゃいました?すみません」
濡れた足をつま先立ててスーツケースを置いた窓際のテーブルまで歩く。森川が石岡を目で追っていた。
「パンツ忘れちゃった。」
「貸そうか?」
「あ、いや、そうじゃなくて・・・シャワー浴びる時に」
森川が豪快に笑う。
「分ーかってるよー」
(朝から元気な人だな・・・)
一緒になって笑いながらパンツと洗面セットを持ってもう一度シャワーに向かった。扉を一度閉めて、すぐにもう一度開けた。
「森川さん、俺、頭洗いたいんですけど、風呂、まだ使ってていいですか?」
「・・・トイレ使いたいなあ・・・。しかも長く。」
「あ。」
「冗談。」
「あぁ。」
「お前ってほんと、可愛いのな。」
「はぁ・・・いや、どうもありがとうございます。では、ソッコウで浴びますので少々お待ちを!!!」
石岡は今度は音を立ててユニットバスの扉を閉めた。シャワーカーテンを半分閉め、小さなシャンプーセットをギュっと押して掌にシャンプーを取る。出しすぎたな、と思いながら頭にのせてごしごしとこすった。シャンプーの液は本当はお湯で溶かしてから使った方がいいんだよな、とたまに思い出すのだけれど、いつも頭にのせた後だ。小さなシャンプーセットの蓋が、壁に取り付けられた石鹸置きの上に乗っているのを落ちないように、と思いながら頭を洗った。そして、流しながら、シャンプーの蓋を閉めて、こういうのっていつもリンスが残るんだよな・・・と思う。
『おまえってほんとかわいいのな』
はた、とその言葉を思い出す。
(森川さんてやっぱりそっちなんだろうか・・・?)
蛇口をぎゅうっと閉めて、少し湿ったタオルで体を拭いて、洗面台の上のボクサーパンツを手に取った。パンツ一丁で出てくとか、アリだろうか。なんでそんな疑問が頭をよぎるのだろう。頭を拭いたタオルで周りに跳ねた水を拭き、結局それ以外にないのだから石岡はパンツ一丁で部屋へ出た。森川はまだベッドの上にいて、ベッドの向かい側に設えられたテレビを見ていたが、石岡が出てくると、のんびりとベッドの上に座りベッドの足元に投げてあった洗面用のポーチをポンポンとボールのように弄んだ。
「今日も晴れだよ。」
森川がそう言いながら石岡が座っているベッドを横切りユニットバスに向かう。ドアを開け放したまま、シャワーの音が聞こえた。