第二章 穴瀬 | 逢瀬
2-1. 独占
唇、左頬、左の首筋、左の鎖骨、左肩、左の二の腕から左手首、そして両手首を掴んだら、こんどは腕をずっと戻って、胸の真ん中から下へ向かって行く。両手は今度は腰を掴むから、自由になった両手で森川の頭を押さえる。
同じ手順で、同じ強さと同じ柔らかさで、同じ息遣いで穴瀬を抱く男。
たとえば一人の夜に目を瞑ったら何もかも間違いなく再生できるほど覚えている愛撫。心は飽き飽きしているのに、その舌がその手が彼の体を這い回る時、穴瀬はそのたびに同じように声を上げる。もしかしたら、その声の上げ方も、声の大きさや高さや、掠れ方なんかも、いつも同じなのかもしれない。
森川はいい男だと思う。でも彼を好きなのかと訊かれたらよく分からない。穴瀬がまだ大学生の時に友達の先輩として紹介されて、二人で逢うことが多くなって、ある時からこんな関係になった。穴瀬を抱く夜、森川はいつも情熱的だ。そう、同じ手順で、同じ熱さで、彼を抱く。森川のその数時間の情熱、森川は自分に夢中だと思うその数時間が、穴瀬をこの夜に拘束する。森川は何事に対しても、その時やるべきことに使うべきエネルギーを費やす男だ。そして、仕事が好きな森川にはよくありがちな恋人の独占欲や嫉妬がない。穴瀬にはそれが心地よかった。
声変わりして、背が伸びて、思春期が過ぎた頃から、穴瀬の周りが少しずつ変わり始めた。男も、女も、穴瀬がちょっと笑顔を見せてちょっと優しくしたりするだけで、穴瀬を自分のものにしようとする。あるいは、ちょっとばかり一緒にいるだけでもう自分のものになったと勘違いするような輩。心底嫌いだ。友情も、恋愛も、面倒くさい。自分は誰のものでもない。誰のものにもならない。
森川の喘ぐ声の間隔が短くなって、絶え絶えになる森川のその声が穴瀬を掻き立てる。森川が力尽きる瞬間、そう、いつものように、穴瀬の体の中心から一息に突き抜けていく何かが彼の後頭部をじーんと打った。この瞬間、自分は、自分のものですらない、と思う。
2-2. 油断
油断していたかもしれない。男だったし、年も結構違う。石岡があんな顔をすると分かっていたら、もっと気をつけて、笑顔も見せなかったし、声も掛けなかった。いまどきの子にしては熱心に仕事をする真面目な好青年だ。しかもよく気のつく子。珍しいな、と思った。最近面倒なことに関わりあっていなかったせいで少し気が緩んでいたのかもしれない。
ワイシャツのボタンをかけながら、昨日の石岡の様子を思い出す。応接室のドアの前で立ち尽くす石岡の紅潮した頬。お盆の縁を硬く握り締めた手。まだ少年らしさを残すように薄い皮膚が白く血色を失うほど硬く握り締めていた。ウェイターに案内されながらレストランに入ってきたときの緊張した表情は、まるで、職員室に呼ばれた学生のようなふくれっ面で、それでも丁寧にお礼を言って席に座る彼の几帳面さ。とても好感が持てる。席に座る前に、石岡がペコリとお辞儀をしたとき、さらりとした髪が額から落ちた。ロゼのワイングラスを持った石岡の初々しさ。そのワインの色に近くなるほど紅くなった顔、首まで。自分のペースが分からない呑み方。殆ど恋に似た憧れの目で森川が話すのを熱心に聞いていた。
(あ、そうか・・・。)
そうか、森川のことも憧れの目で見ていたのだ。石岡は多分とても素直な青年なだけなのかもしれない。あの時も穴瀬に特別な想いを抱いたということではなくて、ただ嬉しかっただけで・・・。
ボタンを全部止めて、人差指でワイシャツの衿をぐっと引きながら、首を右に傾けて昨晩の痕が見えていないか首筋を確認する。
「俺、それ、好き」
森川がベッドの上に横になって肩肘を突いた姿勢で鏡越しに穴瀬を見ている。
「どれ?」
「その、ワイシャツを着た後にキスマークを確認するところ。」
「こう?」
ふふん、と笑って、鏡越しに森川を見ながらもう一度そのしぐさをする。
「そう、それ・・・そそられる」
「いい事を聞いた」
ひと月に一度、気だるい体に纏う柔らかいワイシャツ。そんなワイシャツを着る朝、必ず繰り返すしぐさ。
ネクタイを結びながら、小さなテレビ画面のニュースを見ている森川をしみじみと眺めた。白地のストライプのワイシャツ。ワイン色のネクタイ。穴瀬はけして背が低い方ではないけれど、森川はその穴瀬よりもほんの少し背が高い。いつもエネルギッシュで、自分にも他人にも厳しいところもあるけれど、大概は鷹揚に笑っていて、なんだか隙だらけのようでいて実は多分本当の隙を見せたりはしない。その森川の隙が見える気がする瞬間がある。こういう時間の、彼のワイシャツの袖。まだ止めていない袖口のボタン、その袖口が、穴瀬は好きだ。
「俺は、それが好き」
「ん?なに?」
「いや・・・」
出掛けなければいけない時間になれば、森川はワイシャツのカフのボタンをする。そのボタンを止めたとたん、森川はもう穴瀬を抱いた夜など本当にあったのか分からなくなるほど、何もかもを閉じ込めて、森川にしか分からないどこかにしまい込んでしまうのだ。つぎの逢瀬まで。