第十二章 石岡 | 12月
12-1.二人のペース
目覚ましを掛けずに起きた土曜の朝、部屋を片付けて一週間分の洗濯物をやっつけたら、出かける準備を始める。穴瀬が「いいね」と言ってくれた若草色のセーターを、先週着たけどまた着ようかと思う。携帯電話と財布、鍵・・・。
ずっと一緒にいたい。そうキリキリと思う気持ちを抑えて、いくらでも待つ、いくらでも待てる、と言い聞かせながら、石岡はもう直ぐで鳴りそうな携帯電話を握り締める。人ごみが嫌いな穴瀬はきっと初詣だって行かないと言うに違いないけれど、二人で年越しする為の計画をいくらでも考えてやる、と思う。都心の大きい本屋で雑誌をいくつか立ち読みして荒い計画を練る。
森川にヒントを貰ったドライブデートは良かった。運転席と助手席の距離は、もどかしくもあったけれど、身体だけではなく心を繋ぎたいのだ、と思う石岡の気持ちを伝える為に必要な距離であったのだと今なら思う。その想いはそれまで石岡ですら気付かないところで燻っていた気持ちだった。石岡が穴瀬を求めすぎるのは、心の距離が近づいていないからなのだと、やっと分かったような気がしたのだった。
ハンドルを握りながらただ穴瀬を隣に感じていることが心地良かったのは、何も言わなくても穴瀬がポテトを口に入れてくれたりするただそれだけのことが、少しずつ近づいてきた穴瀬と自分の心の距離を思わせてくれたから。サービスエリアの安っぽいカフェテーブルに二つ置かれたコーヒーの紙コップ。穴瀬だってちゃんと「二人分」を考えてくれているのだとその事だけで十分嬉しかった。
急がなくていい、二人のペースで、二人なりに行けばいいのだと初めて思えた。
(年末年始はどこも込んでいるだろうけど・・・映画とか観て家に帰ってのんびりDVDでも観るか・・・それなら映画は観なくてもいいし・・・年越し蕎麦を食べに深大寺とか・・・混む、かな。動物園があったな、あの辺り・・・。美術展とか博物館とか・・・そういうのもいいかな・・・、歌舞伎・・・ミュージカル・・・。)
年末年始デートの特集の雑誌をいくつか物色し、うちの一冊を買って時間をつぶす為に喫茶店へ向かった。土曜日に穴瀬と会う夜を待ちわびながら待つ喫茶店もひとつふたつ絞られてきた。そのうちの一軒は本屋から少し歩く場所にあったがソファ席もありゆっくり出来る。時間がありすぎるくらいだからちょうどいい。携帯電話を気にしながら石岡のブーツは少し跳ねるようにしてアスファルトを蹴って行った。
週末はミルクが入ったコーヒーを飲むことが多い。何となく胃を休めてやるような気になる。少し並んだけれどやはりゆっくりできるからいい。ソファ席にゆっくりと腰をかけて本屋で見繕った雑誌を最初のページから繰って行く。見開きに遊園地の広告、スパやエステの広告が載っている。人気のモデルが横顔を見せている広告や、端正な外国人モデルがコートに手を突っ込んで大げさに笑っている広告を、湯気の立つカップに指を掛けてページを次々に繰って見ているようで見ていない。
それでも、リゾートホテルの濃い茶色の設えの家具と青い空に溶け込むバルコニーの個室バスのコントラストがいかにもカップルを誘う広告を見ながら、こんな所でいつか二人で年越しをすることがあったらいい、と思う。広いベッドの上で穴瀬がいつまでも寝ているのを眺めていたいと思う。そんなことがいつか叶うだろうか。
12-2. インド
「会えないんだ」
と、穴瀬が言う。その顔は特に残念そうでもない。セットのサラダをつついていたフォークを止めて石岡は穴瀬の顔を探るように見ていた。穴瀬はトマトをプツリと差してそれを口に運びながら石岡を見た。
「年末年始だけじゃなくて、2月、3月は休みの日も暫らく会えないと思うし、その後は本当に滅多に会えなくなる。・・・・会えなくなる。」
会えなくなる、という所を2回繰り返して言ったあと、穴瀬は黙々とサラダをつついた。
「どういう意味?会いたくない、っていう意味?」
「そうじゃないんだけど・・・。異動があって・・・」
「イドウ?」
「うん。今度娯楽性のあるショールームを創ることになって、そっちに配属される事になって・・・引越しとか、色々・・・」
「異動・・・。どこ・・・?」
「うん、と・・・。・・・ド」
「え?」
「インド」
「い・・・・インド????」
カチャンと音を立ててフォークがサラダボールに落ちた。石岡は穴瀬を見つめ続けている。何かの冗談なのだろうかと思うのに、穴瀬は至極真面目な顔をしてサラダを突き続けていた。
「なんなの、それ・・・?」
石岡は怒りをぶつける場所に迷いながら疑問を口にした。
「何・・・って・・・。」
レタスの最後の二葉を突いて口にすると、フォークをサラダボールに置きながら穴瀬は石岡を向いた。
「真面目な話しなの?」
「冗談だと思ったの?」
「思ったんじゃないよ、思ってるの。」
「真面目な話しだよ。」
「どうして?なんで穴瀬さんが行くの?」
「そんなの知らないよ。会社に言われたから行くんだよ。サラリーマンなんだからさ。」
「穴瀬さんじゃなくたっていいじゃない?」
「だから知らないって!俺に訊かないでよ!!」
穴瀬はサラダボールをテーブルの端によけながら水のグラスをぐいっと傾けた。石岡が怒った顔で穴瀬を睨みつけているのを見て見ない振りをしている。声を荒げた事も忘れたように店内に掛かった絵を見つめていた。
12-3. 仕事納め
毎日だっていいくらいなのにせいぜい毎週会えたらいい方で、デートだって頻繁にできない。それでも焦らないと決めたのは少しずつでいいから二人でいる時間も二人でいない時間もお互いを思いながら時を重ねて行く事で近づいていくことがあると思えたからだ。でもそれは地球を半回転もした向こう側とこちら側でする恋の話ではない。
もう直ぐ仕事納めだ。デスク周りを片付けながら、年末年始の予定というよりもこれからの恋の行方について悶々と考える。クリスマスも会えなかった。仕事納めに向けてますます忙しい穴瀬に電話しても早々に切られるのが目に見えてるし、異動の話があってから何となくどうしていいのか分からなくて電話を掛けられない。
「会いたくないってこと?」
「そうじゃないけど」
そうじゃないって・・・つまり、会いたくないわけじゃないけど、ということだけど。
経理兼庶務の女性がバタバタとケータリングの手配をしている。「忙しいから話しかけないで」オーラが凄い。石岡は、静かに立ち上がって彼女の方へ向かう。こういうときは仕事に夢中になるに限る。
「俺、何かできることないですか?会議室の掃除、やってきます?飲み物とか、買いに行ってきますよ」
助かった!という顔をした彼女がメモを書くと言ってデスクに戻る。石岡は掃除用具が入ったものいれから雑巾を出して、会議室の掃除に向かった。丁寧に机を拭く。合皮の椅子の背、座、雑巾はあっという間に汚れていく。何枚も何枚も洗いながら丁寧に拭いていく作業は単純すぎて穴瀬を頭から追いやるほどではないけれど、それでも悶々とそんなことばかりを考えているよりマシだ。
「きったねえなあ・・・」
ボヤキながら、12脚の椅子を拭き終わって、経理兼庶務の女性から受け取った封筒とメモをポケットから出して眺めた。
事務所を出て五分ほど歩いたら、寂れた商店街がある。その中ほどに大きな通りがクロスしていて大きな通り沿いにちょっとした大きなスーパーがあった。石岡はもう一度メモを取り出してカートに二つバスケットを入れると(経理兼)庶務の女性が書いてくれた詳細な店内図面を確認しながら買物をする。左から二番目の棚にあるナプキンを2パック、奥の棚に移動してプラカップを二パック。紙皿。棚を二つ移動して日本酒、ビール、その奥へ移動して2リットルのペットボトルのお茶、ジュース、コーラ。さらに奥に進んでスナック類を少々、煎餅、乾き物。この辺は任せる、と書いてある。
石岡はお菓子の棚をずーっと移動しながら甘いものとしょっぱい物をバランスよくカゴに入れた。最後に老舗のパイ菓子を入れる。森川がそのお菓子を好きなことを知っていたからだった。
森川に相談してみようか、とふと思う。でももちろん、そんなことしたいわけじゃない。石岡はカートをレジの方へ押しながら、これ全部持てるのかな・・・思う。
***
「今年は石岡くんがいて助かったーーーー!!!」と、ビールをあおりながら経理(兼庶務)の女性が言った。「まあ、飲んで飲んで」透明のプラカップを石岡に持たせて慣れた手つきでビールを注いだ。ビールは苦手だな、と思うけれど黙って適当に口にする。どうせお酒を楽しむ場所ではない。
営業の男性が二人窓際で飲んでいた。一人のプラカップのビールが泡だけ少し残っているのを見ると、石岡は缶ビールをテーブルから取って彼らの方へ向かった。「お疲れ~」「お疲れさまですー」どちらともなく言ってお互いを労う。年末年始の予定やら普段話さない個人的なこと(一人暮らしなのか、とか実家はどこなの?だとか)そんな話をして、大して興味もないのかもしれないのに案外そんなことを知ってまたひとつ彼らと仲良くなったんだなと思う。隠すつもりもないらしく恋人の事などを聞いたりするのは今の石岡には少し羨まし過ぎて、軽くなったビールの缶を注ぎ切って、缶を棄てるふりで彼らからそっと離れた。
テーブルの上に開いた缶がいくつかあるのを石岡はそっと取り上げて行き、空になった缶を見つけてはそっと窓際の出窓の方へ持って行ってケータリング会社が持ってきたアルミニウムの大きな盆の上に乗せた。そっと部屋を出て缶を洗おうと給湯室へ向かうと、男子トイレから森川が出てきたところに出くわした。
「おう!」
「あ、森川さん。」
「相変わらず小まめだなあ・・・」
「あぁ、いや。なんかやってたほうが気がまぎれるんですよ。」
「・・・・。また何かあったのか・・・。」
石岡は黙って俯いた。
「聞かないよ。今日は。仕事納めだからね。お兄さんの仕事も納めます。俺も恋心をそろそろ納めるべきなんだろうけど、納める気もないし。そんなにお人よしじゃない、ってところも見せないとね。」
そう言って森川はぽんっと石岡の肩を叩くと会議室の方へ向かっていった。アルミニウムのお盆の上で缶ががさんがさんと音を立てる。石岡は給湯室で缶を一つ一つ洗いながら自分の苛立ちや切なさも水に流れるように祈った。