第一章 石岡|6月
1-1. 謎のオトコ
小さい会社ではあるけれど小さいなりに充実している。打ち合わせや来客が多いので、社長室の隣にはそれなりの応接室が隣接していた。石岡はその男性を応接室に案内して静かにドアを閉めた。6月。今日で3回目だった。
余計な愛想を振りまかないが、とても魅力的な人だと思う。背も高い方だし均整の取れた体をしているのがスーツの上からも分かった。よく見ると特に美男子な訳では無いのに、背の高さのせいか、スタイルがいいからなのか、彼の持つ雰囲気のせいか、一重の目もスッキリした鼻も薄い口元もとても整って見える。石岡は特に彼がほんのちょびっと笑う顔が好きだ。出し惜しみをしているような笑顔。
石岡が初めてその男性を見たのは入社して1週間か2週間の4月で、まだ前任者から引継ぎをしている時だった。先輩に言われて緊張しながら社長室に案内し、社長に「友人だ」と紹介された。「あなせ」というのが彼の名前だった。高級車ディーラーのANASEの営業をしているという。月に一度くらい退社時間近くにやってきて社長と出て行く。穴瀬がやってきたら、社長が忙しければ応接室へ案内する、社長がそろそろ出られそうだというのなら社長室に案内するように、と引き継いだ。
月に一度来社する社長の友人。謎に満ちた美形の男性。
(本当に謎・・・)
広告媒体を扱うこのデザイン会社は卒業式ギリギリに新聞の求人広告で見つけた。バイトとサークルに明け暮れた学生時代、4年生になってからやっと就職活動を始めたけれど、大手はもちろん中小企業への「新卒枠」の就活は4年生からでは遅い。とくにどんな仕事をやりたいという夢があったわけでもないけれど、できれば「クリエイティブ」な職種についてみたいような気はしていた。社長はまだ30代前半で、若い元気な会社は石岡にとって十分魅力的だった。小さな会社だけに雑用も多いけれど、新卒の石岡でも色んな仕事をさせてもらえるのが面白かった。
石岡が仕事の続きを始めたとき、内線が鳴った。社長室のキーが点灯している。
「はい、石岡です。」
「石岡?穴瀬は応接?」
「はい。先ほどご案内しました。」
「じゃあ、トイレにでも行ったかな。応接に内線掛けたけど出なかったから、悪いんだけど言伝頼んでいい?あのさ、1-2時間掛かりそうなんだ。一度出るんだったら出てくれてもいいんだけど、って伝えてくれる?待っててもらってももちろんいいよ。必要なら会議室から本か雑誌見繕ってやって。よろしくね。」
石岡は内線が切れたのを確認すると受話器を置いて給湯室へ向かった。グラスに麦茶を入れて、小さなお盆に乗せ、次は会議室に向かう。会議室の本棚から小説とエッセイを数冊づつ、新聞を金具から外して四つ折にたたみ、マガジンラックから数冊最新号の雑誌を見繕った。雑誌と本の上にお盆をのせて応接室へ向かう。ノックをするために本と新聞と雑誌とお盆を左腕だけで持つそれほど筋力がない訳でもないが石岡のどちらかといえば細めの腕がふるふると震えた。
「失礼します。」
石岡が入っていくと、穴瀬は応接室のソファに浅く腰掛けて携帯電話で話しているところだった。デザイン会社らしい洒落た低いテーブルの上に、見積書が数枚乗っかっていた。
石岡は濡らさないようにグラスを少し離れた所において、先ほど出したお茶の湯呑を下げた。
雑誌と新聞と本をグラスの横に置いて、社長の言伝は後でもう一度伝えに来ることにした。
一礼して応接室を出るとき、携帯電話を耳と肩に挟んだ穴瀬と目が合った。その目は何かを言っているようにも見えたけれど石岡には伝わらなくて、石岡は少しもどかしい気持ちになった。小さな声で「後でまた来ます」と言って部屋を出た。
1-2. 残業
残業が少ないのはこの会社の良い所だと思う。でも社長がまだ出てこなくて穴瀬が応接に残っているのに先に帰るのも気がひけたので、石岡は雑用をこまごまとやりながら珍しく残業していた。先ほどから1時間ほど経過している事に気付き、石岡は給湯室へ行った。温かいものがいいかなあ、と思う。ドリップのコーヒーを二杯作った。一杯は自分の分だった。
応接室のドアをノックする。はい、と小さな返事が聞こえた。湯気の出ているインサートカップのコーヒーを向かい側から置く。ポーションのミルク、スティックシュガー。そして汗をかいた麦茶のグラスを小さなお盆に乗せる。一連の作業を穴瀬が見守っているのが分かる。
「若いのに、気が利くよね。君って。」
穴瀬はスティックシュガーを石岡に渡しながら言った。
「へ?」
スティックシュガーを受け取りながら、穴瀬の思わぬ言葉におかしな声が出てしまった。
「お茶。麦茶。コーヒー。今日付けの新聞、雑誌の新刊、本の種類も。」
「あ・・・いえ、それは、社長がそう指示してくれたんです。」
「うん、今までもこんなことあったよ。長くかかるから何か持っていくようにとかなんとか、森川さんがそう言ったら、大抵の子はそれだけ持ってくるんだ。本も雑誌も適当に1冊か2冊、多分目についたものとか手に取るのに近かった方とかなのかな。新聞は一日くらい古かったりする。金具をわざわざ外して持ってこないから。それからお茶も新しいお茶が来たことはないよ。みんな悪気があるわけではないんだ。ただ気付かないだけ。」
穴瀬の意外な賞賛に石岡はなんだか小さな子どもが憧れているおねえさんに褒められたときのようにどぎまぎした。
「いえ、あの・・そんな・・・」
「コーヒーはミルクだけ、入れるんだ。ありがとう。」
穴瀬はコーヒーを口に運びながら、あの、出し惜しみをするような笑顔を作った。石岡は自分の顔赤くなったのが分かった。心臓が縮んで、広がって、血液をぎゅーーっと押し出したのが分かった。
「就業時間過ぎたでしょう?僕は大丈夫だから、もう帰ってもいいよ。森川さんには、僕が言っておくから。」
穴瀬の声がぼわんぼわんとエコーが掛かったように聞こえる。
「えぇ、いえ、まだ少しやることがあるので。」
石岡がやっとそう言えた時、応接室の内線が鳴った。社長室からの内線だった。
1-3. 悪酔い
社長と穴瀬を見送って、雑用をノンビリ片付けた。そろそろ帰ろうかと支度をしていると、電話が鳴った。
「はい、アド・フォレストです。」
「石岡?まだ掛かりそう?」
それは、森川社長の声だった。
「あ、社長、いえ、今帰り支度をしていた所です、でもまだ大丈夫ですよ、何かありましたか?」
「いや、そうじゃないんだ。終わりそうならちょうど良かった。飯、食おうよ。今穴瀬と食べているんだけど、珍しく部下を褒めてくれるから気分良くて」
「え?あ・・・はい・・・。」
白いインサートカップの縁に触れた穴瀬の口元を思い出した。満面で笑わない穴瀬のほんの一瞬持ち上がる口角。カップ越しにこちらを見た目の一瞬の優しさ。ぎゅうっと絞られるように石岡の心臓が息を止める。受話器を持つ手がなぜか少し震えていた。
梅雨の夕暮れは雨が降りそうな湿っぽさで、ビジネスバッグに入れた折り畳み傘がいまかと出番を待っている。電話で教わった通りの道を行って言われた店に到着する。一見瀟洒な洋館のような佇まいに見えるがビルの一階だ。紫色のアジサイが垣根を華やかに彩っていた。
木製の重たいドアをあけると薄暗い店内は石畳の路地のような床で、レジの向こうにテーブルが並んでいる。昼間はカフェとして営業しているのかもしれない、開閉式の大きな窓が道路に面している。店内の中ほどの席に森川社長と穴瀬が四角いテーブルの四辺に隣り合うように座っていて、ウェイターに案内されている石岡を見つけた森川が手を挙げた。背を向けた穴瀬がこちらを振り向いてテーブルの上で手を組んだ肩越しに会釈をした。濃いブルーのシャツの肩が少しいかっているのが、シャツの下の肩を想像させる。
そんなことを想像する自分に驚きもしないで石岡は会釈を返しながらその肩と肩越しの穴瀬からひととき目が離せなかった。森川が機嫌良さそうにワインを持ち上げている。
「あの・・・。呼んでいただいて、ありがとうございます。」
気の利いたことはいえないけれどとにかく道すがら考えた御礼をきちんと口にして席に着く。森川と穴瀬が二人並んでワインを飲んでいる姿はとても様になってる、大人の男たちだった。スーツ姿もまだぎこちないだろう自分が席を共にするのが少し恥ずかしく思える。
「余計なことを言う奴じゃないのに、穴瀬がお前のこと褒めてたよ。気が利くなって。」
「いえ、あの・・・」
「褒めたわけじゃない。事実を言っただけ。」
「あ、えぇ・・・。」
「どうしてそういうこと言うの?褒め言葉だろ?」
「森川さん、彼に何か頼んであげたの?」
応接室で褒めてくれたときは確かに褒め言葉に聞こえたけれど、いまこうしているとそれは確かに褒め言葉ではなくて、社会人として当たり前にできることを事実として言われただけのような気がした。ここに石岡がいることを邪険に思っているふうでもないが、穴瀬は今はあの出し惜しみの笑顔すら作ってくれそうになく、淡々とワインを口にしているだけだった。それでなくとも居心地が悪いのに、来なきゃ良かった、と石岡は少し後悔した。
ワインのことは良く分からないけれど、赤ワインは渋いからあまり好きではない、と言うと、森川は石岡にロゼを頼んでくれた。お酒の事は良く分からないけれど確かに赤ワインよりもずっと呑みやすいような気がした。プリッツのオバケ。ブルスケッタ。洒落た前菜、小さく盛られたパスタ・・・。食べた気がしないけれど、すごく贅沢だと思う。石岡の緊張を解すように、森川は若かりし頃から今に至るまでのおかしい話を山ほどしてくれた。自分があと10年も経ったとき、こんな風にかっこいい男になっていられたらいいのに、と思う。自分の失敗談を笑って話せるほど、余裕と自信に満ち溢れた人。こんな風になったら、穴瀬のような男を連れてあるくことが出来るのだろうか。
その穴瀬は、時折森川の話に説明を付け加えたり、石岡に話を振ったりしながら、でも多分、本当はどうでもいいみたいな様子に見える。赤いワインが砂時計のように自分の体の中に満ちていくのを測っているのかもしれない。森川のグラスが空けばワインを満たす。そして自分のグラスに満たしてはまたグラスを口に運ぶ。
青いワイシャツの袖口から伸びる手がワインボトルを持つ度に石岡の目はその手に釘付けになった。手首と指の骨ばった所もほんの少し浮く血管も、どんな風にボトルを持ったら一番美しく見えるのかを計算しつくしたかのように見える。
そして、穴瀬が「森川さん」と呼ぶとき、どうしてその声がそんなにも悩ましく聞こえるのだろうか。自分を魅了するこの男の美酒に潤った喉が、別の誰かを呼ぶ声。石岡は悪酔いしたんではないかと思う。胸が悪い。酷く眠い。
「石岡?大丈夫?」
どうだろう・・・?大丈夫なんだろうか・・・?
1-4. 魚の骨
電話が鳴っている。目を開けると見知らぬ天井だった。シーツやブランケットの色も布の張りもまるで嘘っぽいシングルベッドの上にいた。鳴り続けているベッドサイドの電話を取る。
「おはよう。」
前の晩の記憶を辿りながら、この声が誰なのか思い出せそうで思い出せない。
「そろそろ準備しないと、遅刻しちゃうよ?」
「はい・・・」
呑みなれない酒に嗄れた声で答えながら、あぁ、これは穴瀬さんの声だと思い至る。そして、その声の主に確かめようとした瞬間、受話器の向こうで一瞬雑音がして
「飯食える?食えるなら下へ来て。一緒に食おう?」
その声は森川社長だ。
重い頭で精一杯考える。昨晩の事、今のこの状況。重力に負けそうな頭を支えて、シャワーを浴びて歯を磨いて身支度を整えて部屋を出る。矢印に従ってエレベーターホールへ向かう。何度も思った疑問がまた頭をもたげる。
(穴瀬さんの電話、森川社長の声・・・。)
食堂の入り口で部屋番号を訊かれる。鍵の番号を見せて中に入っていくと窓際に二人を見つけた。あの席に、自分も行くべきだろうか、どうしようか・・・。とりあえず朝食のビュッフェに並ぶ。ビジネスホテルの朝は、こんな所ですらなんだか忙しない。物慣れた男たちの後から朝食を少しずつ取っていく。スクランブルエッグ、ソーセージ、ベーコン、トマト、トースト2枚、ジャムとマーガリン、コーヒーと・・・牛乳も、とグラスをトレーにのせた時、一瞬先に牛乳のパックを持ち上げた人が石岡のグラスに牛乳を注いでくれた。昨晩、深緑色のワインボトルを握っていた手だった。
「あ、なせさん・・・。おはようございます!!」
石岡が会釈をしたとき体ごと斜めに傾いだトレーを支えて穴瀬がにやりと笑った。石岡の心を掴んでやまないあの笑い方で。
「おはよう。良く眠れた?これだけ食べられるなら二日酔いでもなさそうだけど・・・?」
「あ、はい。あの、昨晩は・・・」
聞こえなかったのか、穴瀬は牛乳のパックをオレンジジュースのパックの横に置いて自分のグラスを持ってテーブルに向かってしまった。石岡はなんとなく後についていく。
穴瀬が席を空けるようにして窓際に自分のトレーをずらしてくれたので、何となくそこに自分のトレーを置き、石岡は昨晩の非礼を詫びた。
「昨晩は大変失礼しました。なんか記憶が・・・」
「呑ませすぎたよね。どう、大丈夫?」
「はい。」
「若いからな。」
森川がトーストを食べながら笑う。笑いながら石岡から穴瀬に目を移したのがどうも目配せのように見えてしまったのは、石岡の無粋な想像のせいなのだけれど、でもやはり気になって仕方がない。ビジネスホテルで朝食を取るなんて生まれて初めての経験をいつもの石岡ならウキウキと楽しんだところだけれど、そんな気分になれないのは呑みすぎたワインのせいで頭が重いからなのか、それとも、喉に引っかかった魚の骨のように胸につかえている疑問のせいなのだろうか。
森川と穴瀬は、同じ部屋に泊まったのだろうか。
同じ、ベッドに寝たのだろうか。
何でそんなことを思うんだろう。石岡はいつまでも取れない魚の骨を飲み込もう、飲み込もうとして朝食を平らげていた。