<第2章 運命> 第8話 ふれあう想い
梅雨明けの頃になると豪雨のような雨と雷が時折暴れまくり、日中でも局地的な夕立が増える。昨夜遅くに降り出した雨は、朝方にかけて大音響で嵐のように町中を洗い流し、明るくなると途端に勇み足で消えて行った。今はまだ路面や周りの木々を濡らしたままで、程よい湿気と真夏の朝のさわやかさが気持ちいい。紫織は少し早く学校に着いたので文化エリアに足を伸ばした。朝の庭園は静かで小鳥がさえずり、澄んだやわらかい空気に包まれ穏かな気分でいられる。それでも梅雨が明けるこの時期には、太陽が高くなる時間になると蝉がけたたましく合唱し始めるので途端に辺りは騒がしくなる。快適な時間は短い。紫織が庭園に足を踏み入れると後ろから人の気配がした。
「ようっ!おはよ。早いな、紫織。」
須崎聖護である。
「ああ、おはよう。」
紫織は一旦立ち止まってちらっと聖護を見てそっけなく言うとまた歩き出す。聖護は、ため息をついた。
「なんだよ。それだけかよ。」
紫織が足を止める。
「何度も言っただろう、僕にかまうなって。」
そういって紫織は振り向かずに歩き出す。
「ちょっと待てよ!紫織!なんだってまた、そんな態度とるんだよ。おい、紫織!」
紫織はかまわず歩いていく。振り返る気配もない。
「だーっ!くそ!」
聖護は悪態をついた。
先月の裕司の事故の件で少し紫織に近づけた気がしたのに、それからまたこんな調子である。前ほど過剰反応はしなくなったが、相変わらず避けられているのだ。それでも、聖護を助けようとして必死になっている顔や、肩を痛めて聖護が支えた時に見せた一瞬の微笑みを思い出すと、聖護にはとても嫌われているようには思えなかった。何か理由があって避けているのだと思えてならない。もしかするとあの紫織が見せた不思議な力のせいなのか。それにしても、そのことに関しては、聖護はとうに目の当たりにして知ってしまっている。他の人はともかく、今更隠し立てすることもない。だとしたら、なぜ避け続けるのか・・・。聖護は、まだ、紫織には何か隠された秘密がある気がしていた。
朝のホームルームが始まると、光陵の毎年恒例の2泊3日の夏期集中講義合宿の説明にクラスが沸いた。普通は必須の授業を合宿ですることはないが、ここは著名人や財界人の子女が多く、創立以来、夏の集中講義合宿は恒例となっていた。その内容といえば、リゾート地にバカンスにいくような内容だ。授業は午前中のみで午後からは課外活動である。課外授業とといっても実質は自由時間のようなものだ。もちろん光陵は進学校でもあるので夏休みにだらけないように授業の機会を持ち、気持ちを引き締めるという名目が一応あるのだが、もうひとつの目的はもちろんレジャーでクラスの交流を深めることでもあるのだ。しかも学年ごとに行く場所が違っている。聖護たち一年生は今までに行ったことのないはじめての場所で、近隣の県の海の傍にあるリゾートホテルをオープン前に貸切るという内容だった。その話にクラスはさらに盛り上がった。
「やったね!海にはいれるぜ。夏休みに塾と学校のプールだけでおわるかと思ったぜ。」
「おれ、水着買いにいこー!」
「おっまえ、女みてぇー。」
クラスに楽しそうな笑いが広がる。担任の柳が夏期講習についての説明をしているのだが、まるで聞こえていない様子で勝手に盛り上がっている。聖護たちの担任教師の柳貴彦は30代半ばの身長が165センチとやや小柄な男だが、エネルギー体質でカッカしやすい。小柄だが、豪快なタイプで生徒の人気はまずまず良いほうで、数学を担当している教師である。
「最後まで聞けーっ!うるさいぞ、お前たち!」
柳が異様に盛り上がってまるで説明を聞かない生徒たちに喝をいれると一瞬静かになる。
「部屋は2人一組だ。それと、クラス委員だけじゃまとめるのに大変だからな、班にわけることとする。一応班長だけは決めといた。班長は加藤、須崎、それから高岡、水野、山下、渡辺だ。いいか、各6人ずつ3部屋の担当だ。あとから部屋割は班長から連絡してもらう。したがって準備等もあるので班長は放課後残るように。」
「えーっ!部屋割りおしえろよーっ!」
「ずっるーっ!」
生徒たちはまた騒ぎはじめる。
「ホームルームは以上だ!」
柳はうるさい生徒たちをねじ伏せるように言いはなつと早々に部屋から消えた。
放課後、班長が集められて夏期集中講義合宿の準備の内容と班長の役割について話があった。柳は、30分程度で一通り話を終えて、解散すると教室を出て行こうとする聖護を呼びとめた。
「須崎、ちょっと。」
「え?あ、はい。」
聖護が教壇上にいる柳のもとへ戻ってくる。
「お前に頼みがあるんだ。」
柳は少々申し訳なさそうな顔をしている。いやな話かと聖護は瞬間顔を曇らせた。
「なんですか、頼みって。」
「ああ、実は間宮のことなんだがな。」
聖護は紫織の名前が柳の口から出て一瞬どきっとする。
「間宮?」
聖護はできるだけ平然を装い聞き返した。
「ああ。お前の班であいつの面倒みてくれんか。あのとおり頭はいいが、誰とも話をしない上、みんな妙にあいつを怖がるんだ。須崎、部屋割りもあいつと組んでくれんかなあ。」
「はあ、いいですよ。別に。」
気持ちを押さえて無表情に淡々と返す。
「でも、なぜ俺なんですか。委員長もいるじゃないですか。」
「ああ、お前、間宮とけっこう仲がいいんだろ?」
「ええっ?」
聖護は柳の唐突な言葉にややあせった。
「どこから聞いたんですか、それ。」
柳は頭をかいて笑いながら言った。
「いやあ、一応集中講義といっても宿泊だしな、間宮を出席させるのにドクターの許可がいるんだ。それで医務室に相談にいったんだよ。そしたら、そこでお前と仲がいいって聞いてな。おまえしか頼めんなと思ってさ。」
「あっ!」
聖護は涼子の顔を思い出した。
「諏訪先生ですか。情報源は。」
「ははは、そういうことだ。」
柳がうれしそうに赤くなる。柳は独身だし、涼子は美人だからまんざらでもないらしい。
「いいだろ?頼むよ。」
柳は聖護に拝むようなそぶりをした。聖護はせっかく紫織と班や部屋が一緒なのにここで文句つけて替えられても困る。それに担任に恩を売っておくのも悪くない。柳には数学でちょくちょくやられている。まあ、数学の時間によく考え事していて聞いてない聖護も聖護だが。聖護はここは少々恩着せがましく受けておくことにした。
「しょうがないなあ、わかったよ。先生高くつくからね。」
聖護はにやっとして口元で笑った。
「それで、間宮と一緒ってことは、間宮の体も気遣わないといけないってことですよね。注意事項は?」
「ああ、それ、直接諏訪先生から聞いてくれよ。課外授業だけは見学だが、そこまで神経質になることはないとは言っていたけど。一応念のためだ。頼むよ。」
「そうですか、わかりました。じゃあ、明日にでも諏訪先生のところで話を聞いておきます。
」
「ああ、悪いな、須崎、頼りにしてるよ。」
「ちぇっ、先生そういう時だけ都合いいな。」
冗談ごかしに、いかにも面倒をおしつけてといわんばかりの態度をしていたが、心の内では、夏休みの間、紫織に会えないと思っていたのが、集中講義に出席するだけではなく、同じ班で部屋まで同じだと思うと聖護はなんだか浮き足だった。相変わらず避けられてはいるが、聖護は紫織と少しゆっくり話す機会ができそうな気がして、はやる気持ちを胸におさめた。
次の日の昼休みに早速聖護は医務室に顔を出した。
「あら、聖護くん。今日はどうしたの?」
誰もいない診察室で涼子がにっこり笑って出迎えた。
「夏休み近いとねえ、授業なくなるからここも暇だわ。まあ、こんなとこにぎわってちゃ困るんだけどね。」
涼子はふうっとため息をつくとアイドル級の笑顔とウインクを聖護に向けた。聖護は不意打ちされて一瞬どきっとする。
「先生、柳になんか言ったでしょう。」
「あら、早いわね。ふふふ。柳先生が紫織くんのことで頭抱えてたもんだからちょっと手助けしただけよ。」
涼子が聖護に近づいてきて頭を傾げてくりっとした大きな目で顔を覗きこむ。
「嫌だった?」
聖護は近づいてきた涼子に唐突に覗き込まれびっくりした。
「えっ?いや、そんなことはないけど・・・。」
聖護はたじたじである。
「でしょ?ふふふ。」
涼子は聖護の顔を間近で見つめてにっこりと微笑むと奥の部屋に歩いていった。しばらくするとコーヒーの香りがほのかにしてくる。涼子は奥の部屋から背中越しに聖護に話しかけた。
「砂糖とミルク両方いれていいわよね。聖護くん。」
「え。あ、はい、いいです。」
聖護はその場にとり残され、どうしていいかわからなかったので、まわりを見回して近くの椅子をみつけるとそそくさと腰掛けた。そこへ、涼子がマグカップを2つもってもどってくる。入れたての香ばしいコーヒーの香りが鼻に触れる。
「はい、どうぞ。」
「ありがとう。」
聖護は涼子からマグカップを受け取って、一口飲んだ。甘く濃くほろ苦い。ここは、診察室なので病院の雰囲気と似ているが、涼子がいるせいか、自然の草木の匂いや新鮮な空気があふれているようで不思議と落ち着くところだった。涼子は見かけはグラビアから飛び出てきたような容姿だが、その行動はおおらかで潔くりりしい。ただ玉にキズといえば、ときどき年下の少年をからかうような茶目っ気があるところだ。特に聖護は涼子のお気に入りのようで話しているといちいちどぎまぎさせられる。それでも、聖護は涼子がもっている軽く飄々とした顔の向こうにあるどこか物事を冷静に見て的確な判断をする頭の良さや感覚の鋭さが気に入っていた。からかわれながらも気付くと心のうちを正直に話している。
「あいつ、体弱いでしょ?何か気をつけてやらないといけないことがあるかと思って来たんだけど。」
涼子が診察用のデスクの傍の椅子に座るのを待って聖護が話かける。
「さすがねえ、聖護くん。紫織くんのこととなると抜け目ないわね。」
涼子がにんまり笑う。
「そういうわけじゃなくて!」
聖護が赤くなって立ち上がろうとする。
「あははは!わかってるわよ。あなたは優しい人だものね。あなたのお父様はお医者様だし、お母様のこともあるものね。どうしても気付くわよね。」
「え?母さんのことも知ってるの?」
「一応この病院に勤めてるのよ、私。っていっても、須崎先生なんにも言わないから最近まで知らなかったのよ。この間、あなたを病院で見かけたの。それで、ちょっと職権乱用で調べさせてもらったわ。勝手にごめんなさいね。8年になるのね、お母様。それに弟さんも。」
涼子が急に真面目な顔で聖護を見た。
「ああ、そうなんだ。もう8年なんだよな。あっという間だな。意識はないけど、なんだか俺がわかるみたいで、会いに行って話をすると体調がいいみたいなんだ。そのうちきっとふっと目がさめて、またしかりつけられるんだろうさ。」
今度は聖護が涼子に笑顔を向ける。
「よくしかられたの?」
涼子が少し吹き出し気味で聞いた。
「ああ、俺、無鉄砲だしね、しょっちゅう、しかられっぱなしだったよ。」
「そう。早く意識が戻るといいわね。私も時どきお見舞いに行くわね。聖護くんの奮闘ぶりでもお話しておくわ。」
涼子がにやにやなにやらたくらんでいるように笑っている。
「あ、変なこといわないでよ、先生。絶対ろくなこと言わないだろうし。」
聖護が口を尖らせている。涼子はその顔を見てふっと笑う。
「そんなことないでしょ?私は本当のことしか言わないわ。ね、紫織くんにご執心の聖護くん。」
「ええっ?ちょっと!ちがっ…。」
聖護があわてて動いたので思わずコーヒーがこぼれそうになった。
「わかってるわよ。班長さんだものね。ふふふ。」
涼子がまた、ウインクする。聖護はバツがわるそうにさらに口を尖らせた。
「合宿の事前にこちらで私が診るからよっぽどいいわ。柳先生にも言っておいたけど、午後の課外授業はいつものように見学ね。海には当然入れないもの。あとは特にないわ。何かあったら私に連絡して。これ、私の携帯電話の番号よ。」
涼子は引き出しの中からメモを出してきて聖護に差し出すと、聖護は急に真面目な顔になってそれを受け取った。
「わかりました。」
「ふふふ。楽しみねえ。聖護くん、少し紫織くんと話ができるといいわねえ。」
「え?」
涼子が聖護を見て優しく微笑んでいる。それに反応して聖護が一瞬顔を赤らめる。
「やだ、なに赤くなってるの?」
「いえ、別に。」
聖護はそう応えながらバツがわるそうに照れまくり、目のやり場に困る。そしてさらに顔がかっと熱くなる。涼子はその様子に目を細めた。
「ふふふ。間違いはおこしちゃだめよ。」
「はあ?」
聖護が噴出す。
「何考えてんですか!俺は…っ!」
すでに顔が真っ赤になっていた。
「あははは!冗談よ。男の子だもんね。ありえないわよねえ。ほんと純情なんだから。聖護くん。だからいいんだけどね。」
涼子はそう吹くと
「あの子、最近雰囲気変わったわ。何か、張り詰めていたものがやわらいだっていうのかな。やっぱり、聖護くん、あなたのせいかしらね。」
涼子がやや低い声で真面目な顔して聖護に話かけた。涼子はこんな時、いつものからかいモードの陽気な雰囲気から一転する。聖護はこんな時、妙に話に引き込まれて聞き入ってしまうのだ。
「え?でも、相変わらず避けられてますよ。」
「そう?」
涼子が笑う。
「でもね、ここで見る限りは、あなたが現れる時、たっぷり迷って消えるわよ。さっきもそうだったわ。あなたがやってくるのが窓から見えて、しばらく考えていたもの。」
「え?」
聖護はどきっとした。
「それに」
涼子の目が、にやっと笑う。
「ここからね、校庭が見えるでしょ?紫織くん、ここでよく本にも目をくれずあなたをじっと見てるわよ。」
「え?俺?」
聖護は心臓が破裂せんばかりに激しくうって体の奥から熱くなる。
「紫織くんはね、意地っ張りだし、天邪鬼で素直じゃないわ。しかたないわね、すべてに疑いをもって生きてる子だもの。自分にもね。だから、あなたに対してどうしていいかわからないのよ。でもね、あなたの存在がとても気になるのね。傷ついた子供が自分を慕ってくれる人を前におそるおそる扉を少し開けて眺めてるって感じかしらね。」
聖護はじっとその話を聞きながら何か考えている様子だった。涼子はふと立ち上がって聖護に近づくと聖護の顔をまじまじと眺めた。
「ねえ、聖護くん、君、何したの?彼に。」
聖護はどきっとして息を思わず呑み込んだ。聖護も男である。容易に至近距離に近づいてくる涼子にいちいちどぎまぎする。涼子はどうもその辺わざとやって面白がっている風がある。
「ええ、いや、あの、何もしてないけど…。」
裕司の事件で魔物と対峙して不思議な力を使いましたとはさすがに涼子に話せない。聖護は口ごもってごまかした。
「別になんにもしてないよ。相変わらず声をかけてるだけだよ。そっけなくされるけど…。」
目をそらす聖護を涼子はさらにじっと見つめて追い詰める。聖護はどきどきして目が泳いでいる。
「あははは!わかったわ。聖護くん、正直ね。まあ、何があったかは知らないけど、いい傾向だわ。あの子は確実に変わってきてるわ。顔つきがやわらいだもの。時々つついてやるとムキになって面白いほど反応するわよ。」
涼子は楽しそうだ。完全におもしろがっている。どうやら涼子はいじめ体質のようだ。聖護もいつもからかわれている。涼子と話しているとどこまで本気でどこまで冗談なのか定かでないところも多々あるのだ。
「なんだかんだいって少しずつあなたの存在に慣れてきてるんじゃない?」
ふとまた真顔でいう。
「そうかな、そうだといいけど…。」
聖護は今朝のことがだぶる。
「前にもいったけど、紫織くんはあなたが必要よ。それから、たぶんあなた自身もね。」
聖護ははっとする。
「え?俺?」
聖護は涼子を見上げる。
「そう、あなたの心を揺さぶっているでしょう?紫織くんの存在。それはあなたが彼を必要としてるからじゃない?だから追いかけずにいられないんでしょ?」
「俺が必要としている?」
聖護が床に目を落としてじっと考える。そうだ、そうかもしれない。紫織に近づきたいのは紫織の心を溶かしたいだけじゃなくて自分自身、紫織の存在が必要なのかもしれない。確かに紫織といると心の奥にひびく。それが何かはわからないが、なにか大切なかけがえのない思いのような気がするのだ。
「どうしたの?聖護くん。」
涼子の声にふと我に返った。
「え?ああ、そうかもしれないって思ってたんだ。俺が紫織に近づきたいのは紫織のためじゃなくて俺自身あいつを必要としているのかもしれないな。」
涼子は少し驚いた。からかっているときは普通の中学生の少年なのだが、時折大人びた顔を見せる。これも聖護の魅力だ。もともと聖護は頭が良くて、いろいろなことに良く気づくので、聖護の周りには人が集まる。でも、根本は強くて優しいのだ。とくに人に対する思いやりが深い。聖護は涼子のような大人が見ても時々どきっとするぐらい頼もしく、大人に見えるときがある。
「ふふふ。ほんとおもしろいわね、聖護くんって。なにか…似たとこあるわ。あなたたち二人。」
「え?似てる?俺たちが?」
聖護が顔を上げると不思議な顔をしている。
「ええ、なんとなくね。」
涼子がにこやかにうなづく。
「きっと紫織くんもあなたが必要なことにとうに気付いてると思うわ。」
涼子が自信たっぷりにいうと聖護はまた視線をそらし何かをじっと考えている。その様子をしばらく眺めて涼子がまた口を開く。
「まあ、いい合宿になるといいわね。また、話を聞かせて頂戴。」
「諏訪先生。」
ふと、入り口の受付から声がする。
「はい。」
「診察お願いできますか。」
「はい。いいわ。入って頂戴。」
「じゃ、健闘を祈る。」
涼子がこめかみあたりに指を2本たてて聖護に敬礼してウインクした。
それから終業式までは準備に追われ瞬く間に過ぎていった。毎年終業式の間際になると豪雨のように雨が降り、梅雨が明ける気配さえみせない。それでもやはり時期を知っているのか、終業式前後にはしっかり梅雨明けとなる。そして例にもれず、今年も終業式の前日に梅雨明け宣言がでた。それから8月上旬の夏期集中講義合宿までの間晴天が続いたこともあって、出発の日には猛烈な暑さで少年たちのバカンス気分はピークに達していた。現地へは学校からバスで2時間半ほどの道のりだが、聖護たちのクラスのバスの車内は少年たちの有り余るエネルギーであふれかえっている。
「あー、あぢー!はやく海にはいりてー。」
「それ俺にも食わせろよー!」
「やだねー。」
「部屋何号室だ?夜遊ぼうぜ!」
「そのゲーム俺のと交換しろよ!」
学校を出たばかりの頃は騒々しく、驚くほどの熱気だったが、30分もすると静かになってゲームの音や寝息やらぼそぼそ話をする声が聞こえる程度になった。座席は部屋割りにあわせて座っていて、聖護たちの班はすばしっこく、一番後部のシートを陣取った。その窓側の奥に紫織は座っていた。もちろん聖護が隣である。真ん中の少年が席に御菓子のはいった袋を置いているせいか、聖護と紫織の席が少々狭く体がくっつくほどだった。聖護はどきどきしながらもはじめは班のメンバーとしゃべっていたがそれぞれゲームをやりだしたり、寝てしまったりしたので、ふと紫織のほうに振り返った。
紫織は無関心のように外をじっと眺めていた。朝の集合の時にいくぶん顔色が悪そうに見えて気にかかっていたが、今のところとくに問題はないみたいだった。聖護も少し安心してかうとうとと眠りに落ちいった。紫織は聖護が眠ったのに気付き、無防備にすやすや眠る聖護の顔に目をやった。
紫織は緊張していた。初等部の頃は学校にほとんど行ってなかったので、こうして家を離れて合宿のようなことをするのははじめてだったのだ。本当は今朝から熱っぽく調子が悪かったので病気を理由に休もうとも思っていたが、なぜか、朝、総真に顔色が悪いが大丈夫かと聞かれたときにも大丈夫と応えてしまったのである。夏休みに入る前、聖護から部屋が一緒だから、よろしくなと言われてから、それまでは休むつもりで考えていたのが揺らいでしまったのだ。その頃、紫織はまた新しい力の目覚めに戦々恐々していた。人に触れるとその人の心が読めてしまうのだ。はじめは、学校で人とぶつかったときだった。
―げ、間宮にぶつかっちゃったよ!やばっ!こいつこわいんだよな。目をみると寒気がするもんな。―
「えっ?」
紫織は耳を疑った。その後、故意的にぶつかってみたが、やはり同じだった。今までは意識を集中して触れることでその人の記憶や過去を読むことができたが、少し触れただけで人の思いがなだれのように入ってきてしまうのである。それから、触れる人触れる人すべての思いが流れ込んできてしまって、紫織は参っていた。ここのところ夜も不安で眠れないのだ。いつもはたやすくコントロールできたのに、今回はうまくいかず、夏休みにはいってどんどん紫織は心が追いつめられていった。
紫織は自分の心が弱るとつい聖護に頼ってしまう自分に自己嫌悪しながらも、無意識に聖護を追い求めていた。それだけに、休むといえなかったのだ。でも、不思議だった。こうして聖護と隣り合わせに体が触れ合っているのに、聖護の感情が流れ込んでくることはなかった。それよりも、触れあっているところから暖かいやわらかい気が流れ込んできて、心が落ち着くのだ。なぜ、なんだろう?離れようとすればするほど聖護はいつの間にか近くにいる。そして時に紫織を守り、紫織を癒す。
聖護との間には何かあるような気はしているが、それでも、それが何かわかるまでは気を許してはいけない。そう思っても最近は聖護が近くにいることの心地よさを知らず知らず求めてしまう。最近はそうやって無防備になっていく自分が怖いようで押さえようにも押さえられないのだ。今だってそうだ。結局は、弱った自分をもてあまし、聖護に頼っている。紫織はそんな自分に自己嫌悪しながらもいつのまにか、穏かな気分でついうとうと意識が遠のいていった。
バスがガタッと揺れた時、聖護がふと目を覚ました。そして左肩に暖かい体温と重みを感じて左側を見た。そこには聖護の左肩にもたれて眠る紫織の頭があった。聖護は驚いた。あんなにいつも警戒心でいっぱいに誰も近寄らせない紫織が、今は静かに聖護の左側で無防備に寝息をたてている。紫織の髪はさらさらで柔らかく、浅い茶色で光の加減で金色にも見えた。ふわりとオレンジのような香がほのかにがする。紫織の白磁器のような肌は近くでみても本当に滑らかで綺麗である。睫毛は長く今はあの蒼い瞳を隠している。
ふと春に図書館でであったときのことを思い出した。思えば、紫織と話すようになったのはあの時からである。聖護はなつかしくそのことを思い出しながらも、未だ聖護を拒みつづける紫織に、この上紫織はまだ何を隠しているのか、聖護は考えていた。ふと、右の奥から2番目にすわっている七海が声をかける。
「へえ、めずらしい。氷の女王様が眠ってる。聖護が隣だからかな。」
「なんだよ。七海、寝てたんじゃないのか。」
「ああ、寝てたけど、変な夢をみて起こされた。」
「変な夢?」
聖護がいぶかしげに聞き返す。七海はその涼しげな顔をかしげて笑う。七海はいわゆる涼しげな上品顔といわれる鼻が高く切れ長の目の日本古来の繊細な顔立ちで、背も聖護ほどではないが、まずます高いので物腰の優雅さとあいまって女子部でも人気がある。
「ああ、でも、たいしたことない。それよか、間宮って近くでみると本当美人だよな。絶対、男だと思わないよな。本当は女だったりして。」
七海が笑う。
「なにいってんだ、七海。いい加減にしろよ。」
聖護がじろっとにらむ。
「こうやって眠ってるとまじまじ見れるんだけど、普段は怖いもんな。こいつ。」
「怖い?」
聖護が七海を見る目を細めると、七海は怖がるように言った。
「ああ、この恐ろしいぐらいに綺麗なブルーの目は寒気がする。それに目があうと吸い込まれそうで怖いんだ。ほら、断崖絶壁の崖から下の海を見たときみたいなさ。青く透き通って綺麗なんだけど、吸い込まれそうで怖い。そんな感じかな。みんないってる。それにこいつ、人を避けてるもんな。でも、不思議だな、お前には違うんだな。」
「え?違うって?」
「だって、おまえだけだぜ、聖護、あいつの目を見て平気で話すの。それであいつも普通に話を返してくるもんな。よくお前たち話してるだろ?お前と話しているときだけは普通にみえるもんな。それにほら、今だって。あ〜あ、無防備な顔しちゃって。」
「おい、あんまり覗くな、起きるだろ?」
聖護が覗き込もうとする七海を制する。
「はいはい、聖護殿。まるで間宮の王子様みたいだな、お前。」
「なんだと?」
聖護はきっと七海をにらみつけた。
「あははは。怒ってら。きっとお前だけこいつにとっては特別なのかもしれないな。ふああ、ねむっ。もう一回寝るわ。もうあと30分ぐらいだろ?」
「ああ」
聖護がむっとしながら応えると七海はまた眠ってしまった。
聖護はその様子を見届けるとまた、紫織に振り返った。さっき七海が紫織を興味本位に覗き込もうとしたとき、七海に対してひどく腹がたった。なんなんだろう、この気持ちは。なんだか、自分の大切なものをとられるような、子供の頃にもったような感情だった。聖護は紫織が関わると自分のさまざまな感情が揺さぶられていくのを感じていた。なぜこんなにも翻弄されてしまうのだろう。なぜここまで紫織のことが気になるのか。近くに居たいと感じるのか。聖護は先日の涼子の言葉を思い出した。
―あなたが紫織くんを必要としているからじゃない?―
聖護はそのことを考えてみるのだが、らしき答えはもやもやしてみつからない。それでも、今はひどく心地よく、このまましばらく時間が止まるといいのにとさえ思うのだった。聖護がまわりを見回すといつの間にかみんな寝入っている。ふと聖護は紫織の手に触れてみた。白くて細長い指が繊細で美しい。それでも、触れた途端聖護ははっとした。紫織の手が熱い。熱があるのか。聖護は紫織の頬にもそっと触れてみた。やはり熱い。常に聖護は母の肌にふれるので皮膚温でだいたいの体温がわかるのだ。あきらかに高い。道理で、顔色が悪かったはずだ。今は静かに眠っているのでそのままにしておいてやろう。でも、現地についたら授業は休んで部屋で寝たほうがいい。聖護はしばしの穏かな時間を過ごしながら一抹の不安を心に抱えた。
現地に近づくと車窓から青く抜けるような海の景色が見えてきて周りがざわつきはじめた。その声に紫織も気がついた。紫織は目が覚めるとしばらくぼんやりとしていた。
「大丈夫か?紫織?お前、熱っぽいぞ。」
聖護が紫織の顔を覗き込みやさしく手で包み込むように頬に触れてきた。紫織ははっとした。
「なんっ!」
紫織がおもむろに赤い顔してにらみつけ、ぱっと体を起こした。紫織は急いで反対側に体を寄せるとバツがわるそうな顔をして窓の外へ視線をやった。
「ごめん・・・。大丈夫。なんともない。」
それでも聖護の手が紫織の顔を強引に聖護のほうに向けさせた。紫織の鼓動は激しく打ち、熱っぽい体がさらに熱くなる。
「大丈夫じゃないだろう。結構な熱だぜ。朝から調子悪かったんだろう?顔色悪かったぞ。なぜ言わなかったんだ。」
紫織は怒ったような顔をしている聖護にじっと見据えられて目をそらして困った表情をしている。その様子に聖護は小さくため息をついて気持ちを抑えるように低い声で言い含める。
「まあ、いい。ホテルに着いたら休めよ。な。」
「ああ。」
紫織が聖護から視線をそらして気まずそうに応えた。
「でも、たまには頼ってくれよな。俺はいつでもお前のこと気にしてるんだぞ。」
聖護はそういって紫織にニコリと微笑みかけた。紫織がちらっと聖護を見て再び窓の外へ視線をやった。そのいつもは青白く透明な陶器のような肌に、熱のせいなのか、聖護のせいなのか、やや赤みが差していた。
現地に到着すると、岸壁に程近いところに立つ全室オーシャンビューの白い横長の真新しいホテルが出迎えた。集合時間と場所を確認して早速順次クラスごとにチェックインをする。聖護は紫織をともなって部屋にはいった。2人の部屋は1階でベランダから外にでられるようになっている。着くなり、2人分の荷物をおいた。
「紫織、今日は簡単なオリエンテーションだけだから休んで寝てろ。あとで教えてやるよ。今、何か冷やすものもらってくるから、着替えて横になってろよ。いいな。」
そういうと聖護は足早に出て行く。紫織は冷房でひんやりとした部屋の奥に入っていくとベランダの前に立った。外にはまぶしいほどの海が広がる。紫織は本物の海を見るのは初めてだった。ほとんど自宅で過ごし、用事がない限りはどこかに出かけることは極力避けるような生活ぶりだったからだ。
紫織は熱でだるい体ではあったが、外の空気を吸いたくてベランダの窓を大きく開け放った。途端に波が激しく寄せる海の音や匂いでつつまれる。生暖かいがさわやかな外の風に吹かれた。潮の香りで程よく湿気がある。いい風だ。しばらくベランダで風にあたっていると聖護が戻ってきた。聖護は紫織が外の風に当たっている姿を見て一瞬その姿に見とれた。すがすがしい顔をしている。紫織が物音に気づいて振り返ったとき、聖護は一瞬息を呑んだ。まぶしい光を背にした紫織がこの世のものとは思えないぐらい神々しく光を背負っているように感じたからだった。聖護ははっと我にかえって怒鳴った。
「ばか!熱があるのに潮風にあたってどうする。早く寝ろよ。熱があがるぞ。」
聖護が真剣に怒っている。紫織はその様子に突然ふっと笑い出す。そう言えば紫織は叱られることは初めてだった。それでも、聖護に叱られるのはなんだか嫌じゃなかった。紫織はなぜか、暖かい気持ちになって思わず笑ってしまったのだ。聖護は紫織の思わぬ笑顔にどきどきした。
「なんだよ。何がおかしいんだよ。」
「いや、君は心配症だなと思って。」
「ばか、お前、体弱いんだから心配するの当たり前だろう?」
「わかったよ。これぐらいの熱はしょっちゅうだから大丈夫だよ。おとなしく寝てるからもう行ったほうがいいんじゃないか。時間だよ。班長だから早くいかないといけないだろ?」
紫織が珍しく穏かな表情で聖護に返してきた。聖護が左腕の時計に目をやる。
「あ、やばっ!わかった。俺は行くから、ちゃんと寝てるんだぞ、あとで様子見に来るからな、紫織!」
「ああ、わかったよ。」
聖護はあわてて自分のバッグを引っ掻き回して筆記用具などを引っ張りだすとあわてて部屋を飛び出て行った。紫織はその様子にくすっと笑う。熱があって体はだるいのになんだか気分が軽く気持ちがいい。やはり、聖護は不思議な存在だと紫織は思うのだった。
紫織の心の葛藤とそんな紫織に寄り添う聖護。二人の静かで穏かな時間が流れます。そんな折、七海の身の上に何かが起こりはじめます。次回も是非読んでくださいね。