第7話 覚醒
聖護は病院の最上階のフロアをとぼとぼと考え事をしながら歩いていた。紫織のこと、黒猫のこと、そして裕司のこと、なんだかしっくりいかなかった。何か、すべてがひっかかる。
「あら、聖護くん。どうしたの?明日来るっていってたのに。」
その声にふと我に返って顔をあげた。
「なーんか難しい顔してるわねえ。嫌なことでもあったの?」
そう優しく話しかけてくるのは母の部屋で付き添いをしてくれている立川夏江だった。夏江は40半ばくらいで化粧もしない飾り気のない人だったが、快活で気取らない人柄が聖護は気に入っている。
「ああ、夏江さん。こんにちは。今日はね、特別なんだ。友達が昨日ここに入院したんだ。だからだよ。」
夏江は笑顔で手に大きな花を生けた花瓶を重そうに抱えている。
「ああ、これ、俺が持つよ。」
「あら、ありがとう。助かるわ。先ほどね、院長先生がお見えになって大きな花束をくださったのよ。早速生けてみたんだけど、大きなお花だから花瓶がこれじゃないとバランスとれないのよ。素敵でしょう?そう、それでお友達の怪我は大丈夫なの?」
この病院の院長は聖護の父の先輩だった。かつて、ここの大学でともに学び、付属病院でも一緒に仕事をしていた。アメリカから帰国後、現在は違う病院に勤めているが、院長とは学生の頃から親しい友人として付き合っていた。聖護の母の事故のときに救急で運ばれたのがこの病院だったこともあったが、このように昏睡したままになってからもあえて自分の病院へ移さず、この院長のもとにゆだねることにしたのだ。そういういきさつもあって、時折このように院長が見舞いに顔を出してくれる。夏江は聖護に花瓶を受け渡すとふうっと息を吐いた。
「さすがねえ、聖護くん。空手で鍛えてるだけあるわ。最近だんだん逞しくなってきたしね。」
聖護はその言葉に少しテレながら夏江と並んで歩いた。
「裕司のやつ、まだ、意識が戻らないんだ。」
聖護が力なくなくいうと
「まあ、それはたいへんね。はやく意識が戻るといいわね。」
夏江は心配そうな面持ちで聖護に言葉をかけた。そして病室の前まで来ると、
「あ、待って、私があけるわ。」
夏江がすばやく前に回りこんで病室のドアを開けた。ふっとラベンダーの香が聖護の鼻に触れる。聖護はこの香が好きだった。ここは、他の病室に比べて穏かな、ゆったりとした雰囲気が漂っていた。聖護はこの部屋に来るととても落ち着いてリラックスできる気がするのだ。ラベンダーは幼い頃から母が好きでよく部屋に香らせていた。聖護にとっては母の香である。
「清香さん、聖護くんよ。今日も来てくれたのよ。よかったわね。」
夏江は部屋の中央に眠る聖護の母清香に明るく声をかけた。
「さあ、聖護くん入って。花瓶は窓側のテーブルの上に置いてくれる?」
聖護は言われたとおり、慎重に部屋の奥の机の上に花瓶を置きながら窓の外にちらっと視線をやる。ここは最上階なので、窓から周りが一望できる。聖護たちの校舎もここから見えた。
「ありがとう。聖護くん。私、志奈子さんと話があるから、出てくるわね。ゆっくりしていって。あなたが来たときはお母さん体調がとてもいいみたいなの。きっとあなたの話聞こえてるのよ。」
「へえ、俺がわかるのか。」
聖護は嬉しそうだ。
「じゃ、きっと意識が戻ったとき、あんた、あの時こうだったでしょ、あんた本当に無鉄砲なんだからとかいってまた叱られるかもね。」
聖護がそう言ってくすくす笑った。
「そうね、だからしっかりやらないとね。お母さんにはなんでもわかるのよ。」
夏江の言葉に聖護は舌を出して答えた。
「やばいね、そりゃ。」
夏江は聖護の表情を見てふき出すように笑って部屋を出て行った。聖護はいつものように母が横たわるベッドのそばの椅子に座ると、フェザーケットを少しめくって母の白い手をとり軽く握った。
「母さん、聖護だよ。」
聖護はここへ来ると一日の出来事などを母に話かけていた。聖護の母は聖護が5歳のときに事故で意識が戻らないまま現在に至る。同乗していた聖護の弟啓護はその時亡くなってしまった。母はそのこと知ることもなく、眠ったままだ。啓護は窓際の花の傍に幼いままのあどけない笑顔で写真の中にいる。聖護はその時父とアメリカに居たらしいのだが、本人にはその前後の記憶がない。父にその時のことを聞いてもつらい思い出だからと語らずのままだった。いつしか、この病院に週2から3回父とともに訪れるようになっていたのである。啓護が亡くなったことも病院に通うようになってからある日聞かされたのである。聖護は幼い頃アメリカで育ち、昨年までは小学校の校区にあわせて家の近くの学校に通っていた。そして中学からは父の出身校である光陵に入ったので今年の春からは一人で病院を訪れるようになっていた。
「そうそう、母さん、今日は紫織が俺のことを聖護って呼んだんだ。はじめてだよ。名前呼ばれたの。相変わらずそっけないけどね。仲良くなれるといいな、あいつと。でも、少しだけあいつに近づいたかな。まあ、気長にやるよ。なんだかあいつほっとけないもんな。」
そんな話をしていると夏江が部屋に戻ってきた。
「聖護くん、しっかりお話できた?あなたが来た日はね、ほんと機嫌がいいのよ、お母さん。あなたがそうやって体に触れて話しかけるのがとってもいいみたいよ。ああ、そう言えばさっきのほら、お友達の裕司くん、ここから街に出る途中のあの噂の事故現場で事故にあったらしいわね。聖護くん、聞いた?」
夏江が志奈子から話を聞いてきたらしい。
「うん、あの先に裕司のお母さんの実家があるらしくて、そこへ行く途中だったって。」
「そう、実家に行く途中だったのね。お気の毒に。あそこで事故を起こした人は意識があった人はみんな黒猫を見てるらしいわ。避けようとしてガードレールに追突するんですって。ほとんど軽傷らしいけど。でも、意識が戻らない人は怪我はたいしたことがないみたいなんだけど、頭を打ったわけでもないのにずっと昏睡したままらしいわ。そのうち何人かは意識も戻らず亡くなってるらしいの。裕司くん、骨折でしょ?でも、意識が戻らないんですって?心配ね。この病院でも、黒猫の崇りだってもっぱらの噂みたいよ。」
夏江の言葉に聖護ははっとした。
「今まであそこで事故して、昏睡した人は意識が戻ってないの?」
「そうらしいわ。だから、裕司くんのおかあさん、相当まいってるみたい。」
「あの黒猫…、やっぱりなんかある。」
聖護はぼそっとつぶやいた。
「夏江さん、そろそろ帰るね。稽古があるし。」
聖護が顔を曇らせて何か考えているのを見て夏江は気にかけた様子であわててフォローする。
「あ、ごめんなさいね、余分な話だった?聖護くん、気にしてたから心配してるだろうと思っていろいろ勝手に話してしまったわ、気に障ったらごめんなさいね。」
「いいよ。大丈夫だよ。気になってたから知りたかったんだ。教えてくれてよかったよ。ありがとう。」
夏江は聖護の様子にほっとしたように微笑んだ。
聖護は病室を出ると裕司の病室に向かった。入り口には『面会謝絶』とかかれている。廊下には誰もいない。聖護はそっと扉をあけてみた。中では憔悴した裕司の母が裕司が横たわるベッドの脇で裕司をじっと見つめていた。
「おばさん、ちょっといい?」
聖護が裕司の母に声をかけると裕司の母はビクッとして我に返ったようだった。
「え?ああ…、聖護くん。来てくれたのね。」
ほっとしたような表情を一瞬したが、すぐに表情を重くして応えた。
「ごめんね、せっかくお見舞いに来てくれたのに裕司は意識が戻らないの。」
「うん…、さっき看護士さんに聞きました。会えないって言われたけど気になって。おばさん、怪我は大丈夫?」
聖護は心配そうに裕司の母の様子を伺う。裕司の母は小柄で目が大きく、顔立ちは裕司によく似ていた。いつもは母親に見えないぐらい随分若く見えるのだが、昨夜から眠ってないのだろう、顔色が悪く、目の下にはクマがでている。疲れきった様子で額には包帯がまかれていて痛々しい。
「大丈夫よ。おばさんはかすり傷だもの。」
「おばさん、寝てないでしょう?俺しばらく見てるから休んでよ。俺、ここ慣れてるんだ。大丈夫だからまかせて。」
裕司の母は少し表情をやわらげると首を振った。
「ありがとう、やさしいのね、聖護くん。でも、この子を見ていたいから、今は眠れないの。」
「そう、でも、なるべく休んでください。自分のために家族が病気になったら裕司のやつ悲しみますよ。近くにいっていいですか。」
その言葉に裕司の母がうなずいた。聖護は裕司の傍らにいって裕司の顔を覗きこんだ。
「おい、裕司わかるか、聖護だよ。」
聖護はシーツをめくって裕司の手をとり両手で握った。
「おまえ、いったいどうしたんだよ。早く戻ってこいよ。お前がいないとさびしいんだからな。」
裕司に微笑んで話しかける。
「おばさん、裕司に話しかけてやってください。こうして肌に触れながら話すと意識がなくても体がわかるみたいですよ。俺の母、実はこの病院の最上階にいるんです。もう8年近く意識が戻ってないんです。でも、俺が話しかけるとわかるみたいなんですよ。付き添いの人が俺が来たときは調子がいいって言ってました。意識は必ず戻りますから、いっぱい話しかけてやってください。」
聖護は裕司の母の顔をしっかり見て言った。裕司の母はその言葉に涙を流した。
「ありがとう、聖護くん、そうね、いつまでも私が沈んでちゃだめね。わかったわ。そうする。」
聖護は少し微笑んでうなずいた。
「おばさん、ひとつ聞いていい?応えづらかったら応えなくてもいいですから。でも、大事なことなんだ。」
聖護は裕司の母をじっとみつめて真剣な面持ちで聞くと、裕司の母は聖護の目を見つめながらゆっくりうなずいた。
「事故のとき、黒猫を見たって聞いたんですけど、その時ほかに何か思い出せることはないですか。」
裕司の母は一瞬びくっとしたが、深く深呼吸するとじっと考えた。
「あの時、黒猫を見たのは私で、その前に裕司が大声でさけんだの。女の子がいるって。」
「女の子?」
聖護が眉を一瞬吊り上げる。
「そう、すごい形相で。それに驚いて気が散漫になったのね、目の前を黒猫が横切って黒猫の目が光った途端ガードレールに追突したの。裕司は外に投げ出されて。私はすぐに駆け寄ったけど、その時はもう裕司の意識はなかったの。あわてて救急車を呼んで・・・。その後のことは気が動転していてあまりよく覚えてないのよ。でも、あとから考えても女の子の姿なんてどこにもなかったと思うわ。」
「そうですか。ありがとうございます。すみません、つらいこと話させてしまって。」
聖護は申し訳なさそうに裕司の母を気遣うと
「いいのよ。聖護君と話しているとなんだか元気がでるわ。かえって話ができてすっきりしたわ。ありがとう。」
さっきの思いつめていた表情を思うといくぶん顔色がよくなったように感じた。
「そろそろ俺、帰ります。あまり長居するのも申し訳ないですし。あ、これ、今日の分のノートのコピーです。明日、また、様子見に来ていいですか。授業のノート届けたいし、学校の話も聞かせてやりたいから。」
「ええ、お願いするわ。ありがとう聖護くん。」
ほんの少し元気を取り戻した母は聖護を入り口まで見送った。聖護は病院を出るとまっすぐあの事故現場に向かっていた。夏江や裕司の母の話が気になってもう一度現場に行ってみたくなったのだ。裕司が女の子を見たって言っていた。黒猫と何か関係あるのだろうか。そう言えば、紫織は黒猫の背後を厳しい顔でじっと見つめていた。その時紫織の目が紫に光ったのだった。やはりそこになにかありそうな気がする。そんなことをいろいろ考えて歩いているうちに聖護はその現場にたどりついた。聖護は紫織が立っていたところに立ってみた。しかし何もない。ごく普通の風景で、急な崖の下にはのどかに畑が広がっているだけだ。黒猫の姿もない。ふと女の子の泣く声がして聖護は道のカーブを登っていった。カーブを曲がりきると、道端に5、6歳のポニーテールの赤いスカートをはいた女の子がしゃがんで泣いる姿が目にはいった。聖護は近づいて行って話しかけた。
「どうしたの?」
女の子は応えず泣きじゃくっている。聖護は女の子のそばにしゃがんでもう一度優しく問いかけた。
「なぜ泣いているの?」
ふと聖護は同じようなことを以前自分が言ったような気がした。ぼんやりとして思い出せないが、前に、どこかで…。聖護がぼおっとしていると女の子が顔を上げた。
「お兄ちゃんだあれ?私がわかるの?」
「え?俺?俺は聖護っていうんだ。あの丘の上の学校に通ってるんだ。君はどうしてここで泣いているの?」
女の子は悲しそうな顔をして
「私、帰れないの。お母さんの言いつけ破ったから。」
聖護はふっと微笑んだ。
「なんだ、叱られたのか。俺もよく叱られたなあ。」
「お兄ちゃんもお母さんの言いつけをやぶったの?」
「ああ、いつも怒られっぱなしだったよ。弟が悪さしても自分が叱られてよく文句いってたな。」
女の子は驚いたように聖護をじっとみた。
「おにいちゃん、弟がいるの?」
「うん。もう死んじゃったけどね。」
「そう…。じゃ、会えないのね。」
女の子が寂しそうな顔をする。
「ああ。そうだな。」
「私にも妹がいるの。いつも私が叱られて…、だから妹のこと大嫌いだった。」
「そうか、俺もそう思ったことがあるよ。」
「ほんとう?」
「うん、いつもお兄ちゃんだからって叱られるのが自分では納得がいかなかったな。」
聖護は懐かしそうにふっと目を細めた。
「でも、お兄ちゃんは家に帰れたでしょう?私は帰れなくなってしまったの。」
女の子はまた、泣き出した。聖護は困ったようにため息をついた。
「よし、わかった、お兄ちゃんがついていってあげるからいっしょに行こう。それならいいだろ?」
「え?ほんとう?」
女の子はうれしそうに聖護を見上げた。
「ああ、ほんとうだよ。そのかわりちゃんとお母さんに謝るんだよ。さあ、行こう。お家はどこなの?」
女の子の手をとって立ち上がらせようとしたが、女の子は下を向いて肩を揺らせて笑っている。その声が次第に低く不気味な太い声になっていった。
「くっくっくっくっくっく、ほんとに一緒にいってくれるのね。」
女の子がさっと顔を上げてすごい形相で聖護をにらみつけた。聖護は氷ついた。心臓が破裂せんばかりに激しく鼓動し、アドレナリンが大量に流れた。女の子の目は尋常じゃないぐらいに眼球がむき出しになって血走り、真っ赤になって聖護を捉えるように睨み付けている。口は獣のように避けあがって牙が見える。その牙をむき出しにして口を開けて肉食獣のようによだれを滴らしている。聖護は反射的に手を振り払おうとしたが、女の子が子供とは思えない力で素早く聖護の手をつかんで引っ張った。聖護はその強い力にひきずられて転んだ。立ち上がろうと必死にもがくが、女の子はすごい力で聖護をずるずる引きずっていく。
「なんだ!おまえは!何をする!」
女の子の姿はだんだん巨大な蜘蛛のような魔物にかわっていった。
ずずずずず…
聖護はガードレールの傍までひきずられた。そこから崖の下が視界に入る。さっき眺めた時は何もなかったのに、今見ると白く透き通る糸が張り巡らされているのが見えた。所々糸で包まれた塊が見える。聖護の体は蜘蛛にその透明な光る糸で縛られ閉めつけられた。
「うっ!」
ずずずずず…
ずずずずず…
聖護は抵抗するが、体は確実に蜘蛛に引き寄せられていった。
「くっくっくっくっく。自分から罠にかかってくれるとは都合がいい。しかもお前の魂はエネルギーが強くてうまそうよのう。」
そういってカマのようにするどい手のような前足を振り上げた。聖護はとっさに逃げようとするが、蜘蛛の力が強くて身動きができない。カマが目の前に振り下ろされる瞬間、聖護は息を呑んでぎゅっと目を閉じた。
「聖護!」
聖護がその声に目を開けると光の塊が巨大蜘蛛に直撃した。
「ぎゃあ!」
「うわっ!」
その時、聖護が縛りつけられていた糸が切れた。反動で聖護もはじき飛ばされる。蜘蛛はひっくりかえってもがいている。聖護ははじかれたときにガードレールの足に掴まろうと手をとっさに伸ばしたが、掴み損ねて隙間をすり抜けてしまった。
ずずずずずっ!
「ああっ!」
聖護が落ちる!と思った瞬間、誰かの手が聖護の手首をつかんだ。
聖護はなにも起きないことにふと疑問を感じてそうっと目を開けた。崖下を覗いて助かったことを確認すると、聖護は目を閉じ大きく息をはいて顔を上げた。
「大丈夫か、聖護!」
紫織が苦しげな顔で細い腕を伸ばしてかろうじて聖護を支えていた。
「ははは…。取り合えず…な。」
引きつり笑いで聖護が応える。その時ガクっと聖護の体が下がった。聖護はすぐにはっとした。
「ばか、おまえ、心臓!ばか!離せ!」
「ばかか!離したら君が落ちるだろうが!死にたいのか!」
紫織はもう一方の手でガードレールの足を掴み、耐えているがずるずると聖護の方にひきずられていった。
「俺のことはいい!離せ!お前も巻き添えになる!」
紫織は苦しそうな顔で聖護をにらんで怒鳴りつけた。
「僕は嫌だ!」
紫織は紫に光る瞳で聖護を睨んで、息を思いっきり吸うと、紫織は力を振り絞って聖護の体を少しだけ引き上げた。聖護は反対の手がアスファルトに届いたので自分で体を持ち上げ引き上げた。体が半分上がってきたところで紫織の背後に、飛ばされてひっくり返っていた蜘蛛が体制を立て直して近づいてくるのが見えた。
「おのれ!お前は何者だ!」
巨大蜘蛛はすごい形相で食いつくように紫織に向かってくる。その時、蜘蛛が口から針のようなものを飛ばした。
「紫織!」
その瞬間、聖護の目が光る。紫織の背中に刺さろうとした針がすべてはじき飛ばされた。紫織がはっと振り向くと白い光の防御壁が紫織の体を覆っていた。そして蜘蛛が恐怖におののいて後ずさりしはじめた。蜘蛛の血走った目は恐怖の色を浮かべながら紫織の後ろを見ている。紫織が聖護を振り向くと、聖護は全身白い炎のような光をたちのぼらせ、黒い瞳が燃えるように激しく巨大蜘蛛を見据えていた。その顔は紫織の知っている聖護じゃなかった。
「聖…護?」
紫織はその様子に呆然とした。聖護は巨大蜘蛛にゆっくり近づいていく。蜘蛛はその迫力と凄まじい気にあてられ緊迫した様子でじりじりと後ずさっていく。
「なっ何者だ。お前、人間じゃないな…、その気…。近寄るな!来るな!来るなーっ!」
聖護の目が容赦なく鋭く光ると両手に炎が集まり始めた。
「聖護!いけない!」
紫織ははっとして、その瞬間、聖護と蜘蛛の間に立ちはだかった。聖護の手から光の炎が飛ばされると紫織は紫の光の防御壁をはり、まともに受けた。聖護の力が強大なので紫織は防御しきれず、反動で飛ばされてガードレールで右肩を強く打った。
「うっ!」
その瞬間、聖護ははっと我に返る。
「えっ?俺、今何を…?」
呆然として手を見ている。すぐにはっとして倒れている紫織に駆け寄った。
「紫織!大丈夫か!」
聖護が必死に紫織を抱き起こす。
「うっ!…。ああ、大丈夫だ。」
巨大蜘蛛がその間に逃げようとしていた。紫織はとっさに体を起こして蜘蛛に向かって手をかざした。すると紫の光がかざした手に集まってきてぼわっと光の固まりを作っていった。紫織はその固まりを思いっきり放出する。すると蜘蛛の周辺でかぶさるように網を形成し、蜘蛛を閉じ込めた。聖護はその光景を目の当たりにして驚いた。
「紫織…?」
聖護が紫織をみると紫織の瞳は再び妖しく紫に光っていた。紫織はゆっくり立ち上がると冷たく厳しい威圧するような視線を蜘蛛に向けた。
「なんだ…、お前は誰だ!我らと同じではないのか。なぜ邪魔をする?」
おびえるように紫織に語りかける。
紫織は巨大蜘蛛の言葉には応えずに、じっと見据えたまま強い口調で言った。
「逃がしはしない。その女の子から離れてもらう。」
紫織はロザリオを出して胸に当てて一瞬目を閉じた。紫織がぱっと目を開けるとロザリオから白い光を放出した。
「や、やめろ…!ぎゃあーっ!」
白い光をまともに浴びた蜘蛛は悲鳴をあげた。光が消えると蜘蛛はふらふらとその場に倒れこんだ。そして女の子がごろんとその横に投げ出された。
「聖護!その子を頼む。」
「わかった!」
聖護が走り寄り、女の子の手をつかもうとした瞬間、黒猫が目の前に現れて女の子の前に立ちはだかった。
「おまえ…。」
聖護が身構えようとすると、
「聖護いいんだ。その黒猫はこの子を守ってるんだ。」
紫織が頷くとと黒猫は目を光らせて毛を逆立ててうなり始めた。するとみるみる黒猫の体は大きくなって黒豹に変身した。動きがとまると黒豹は少し伸びをして武者震いし、女の子の服を口で引っ張りあげて軽やかに飛び上がった。そして女の子を安全なところに移動させると、素早く蜘蛛の前に戻ってきた。紫織が閉じ込めた蜘蛛の網を解除する。それを待っていたかのように黒豹が蜘蛛に飛び掛った。蜘蛛はふらついてるとはいえ、飛び掛ってくる黒豹にすごい形相でカマを向けた。黒豹は間一髪それを交わすと蜘蛛の体に噛み付いた。
「ぎゃあ!」
「がるる!ぐぎゃぉっ!」
緑の血が飛びちる。獰猛な獣が牙や爪をむき出しにしてとびかかる。壮絶な戦いに聖護も紫織も目を剥いた。そして、やがて黒豹の目が金色に光ると蜘蛛に飛び掛って、蜘蛛の頭にかぶりつた。黒豹の牙が蜘蛛の頭に食い込み、毒々しい緑の血が噴出した。黒猫は返り血を浴びながらも蜘蛛が必死に振り落とそうとするところを強引にねじふせ、顎にぐっとに力をいれた。
「ぎゃあーっ!」
蜘蛛は凄まじい最後の叫びをあげて力尽きた。黒豹が離れると蜘蛛は解けて緑の固まりになり、やがてそれも消え失せた。黒豹の体や周りに飛び散った緑の血も同時に消えていった。そして周りに張り巡らされていた糸も消え、掴まってたいた魂が開放され、いくつも光の玉となって飛び去っていった。その様子を紫織と聖護はじっと眺めていた。しばらくして黒豹はその姿を猫に戻した。そして、女の子の傍にいくと女の子の顔を舐め始める。女の子が目を開けると黒猫を抱き寄せた。
「おまえ、助けてくれたんだね。ありがとう。」
紫織はその様子を見てほっと一息した。
「つっ!」
肩が痛んで紫織はとっさに体制を崩した。
「紫織!大丈夫か。」
聖護が紫織の傍にかけよって紫織を支える。紫織の体は華奢で軽い。聖護はまた、手をはじかれるかと一瞬思ったが、
「ああ、大丈夫。」
と少し微笑んで素直にもたれてきた。聖護はドキッとした。紫織が笑いかけてくれたのはこれが初めてだった。聖護は照れくさくってふと視線をそらして女の子と黒猫に目をやった。
「あの子…。」
「ああ、まだ、あの子を送っていかないとね。」
紫織はそういって黒猫と女の子をじっと眺めた。
「あの猫…。」
「ああ、あの猫は僕に助けを求めてたんだ。あの子を助けたかったんだけど、おそらく魔物が憑いていて、魔物を退治すると女の子も助からないから、手出しできずにいたんだと思う。」
紫織の応えに聖護は驚いた。
「じゃあ、あの事故は・・・。」
「少しでも女の子を悲しませないように黒猫が邪魔してたんだ。たぶん、黒猫を見た者だけが助かっていて、魔物を見た者が魂を吸いとられてたんだろう。あの魔物は生きた人の魂を餌としていたみたいだからな。おそらくこの女の子は心の闇につけまれて、人の心を惑わし、罠にかけるために利用されてたんだろう。そしてあの白い固まりはすべて生きている人の魂だったんだ。」
「じゃあ、裕司もあの中に?」
「おそらくね。でも、魔物の存在が消えたときにみんな帰っていったからたぶん今は元気に意識を回復してるんじゃないかな。」
聖護は紫織の言葉にほっと安心した表情を見せた。
「そうか。よかった。」
紫織はその様子を支えられた肩越しでちらっと見ると、女の子と黒猫に向き直って声をかけた。
「さあ、そろそろいかないとね。時間がない。ちひろちゃん、もうお家に帰れるよ。一緒に帰ろう。」
紫織は優しい穏かな顔をしていた。紫織が女の子に手を差し伸べると女の子は立ち上がって紫織に近づきにっこり笑ってその手をとった。3人と黒猫がゆっくり歩いて坂を上っていくと、民家が数軒立ち並んでいるエリアにでた。そのうちのひとつに紫織は女の子と入っていった。聖護もあとに続いた。
「こんにちは。」
紫織が声をかけると奥から30歳ぐらいの女の人が出てきた。
「何か・・・。」
紫織の姿をみて一瞬驚いたように言葉を呑み込んだ。そして不安げに見返してきた。
「ちひろちゃんがあなたに謝りたいって。」
その女性ははっとした。
「あなたたち何・・・?」
「見えませんか?」
紫織の目が一瞬光る。するとその女性は目を見開いて驚いて口に手をやり、声にならない声を抑えた。
「ちひろ?本当にちひろなの?」
「お母さん!」
ちひろは母に抱きついた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ちひろが悪かったの。言うこと聞かない私が悪かったの。ごめんなさい。」
泣きながらしがみついた。
「ちひろ、いいのよ。お母さんこそごめんね。もう少しあなたを気づかわないといけなかったわね。いつも怒ってばかりでごめんなさい。悪いお母さんだったわ。でも、会えてよかった。」
母はちひろをぎゅっと抱きしめて涙を流した。
「ちひろちゃん、よかったね。」
聖護が声をかけるとちひろはうれしそうにこくんと頷いた。
「ちひろちゃん、これから…、わかるね。」
紫織が声をかけるとちひろは再びこくんと頷いた。そして母の方に振り返って
「私もういかなきゃ。」
ちひろが寂しく微笑むと母が悲しそうな顔をした。
「ちひろちゃん、お母さんも父さんもみんなあとからちひろちゃんに会いに行くから、先に行って待っててね。」
紫織がやさしい目をしてちひろに声をかける。聖護はどきっとした。そのやさしい表情は清麗でまるで女神のような慈愛にみちた美しさだった。紫織のその言葉に母もはっと気づいて声をかけた。
「そうよ。ちひろ、みんな後からいくからね。お話いっぱいもっていくから楽しみにしててね。」
母は涙をぼろぼろ流している。ちひろは嬉しそうにうなずくとその場にしゃがんでで黒猫の頭をなでた。
「ありがとう。」
そういうとちひろは満面の笑顔で少しずつ姿が薄くなり、やがて光の雫になって消えた。母は声を出して泣いた。その様子を見て紫織はそっと玄関を出ようとした。
「待って!どなたか存じませんが、ちひろを連れてきてくださって本当にありがとう。会えて嬉しかった。ずっとわだかまりがあったんです。ちひろが事故に会う前、私が妹のことでちひろを叱りつけてしまって…。そうして一人で飛び出していったのが最後だったんです。いつも暗くなったらひとりで出かけるなと言い聞かせてあったんですけど、よっぽど辛かったんでしょう。でも、今日会えてよかった。ちひろと笑顔で別れることができたんだもの。あなた方のおかげです。本当にありがとう。」
ちひろの母はあとからあとから流れる涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら紫織と聖護に感謝して頭を下げていた。紫織はその様子に少し困ったような表情で戸惑っている。
「いえ・・・。」
聖護がふっと笑って後ろから右の肩に手をかけた。ふいに暖かい手の感触でそこから聖護の気が流れ込んできた。痛めたはずの肩がみるみる痛みが消えていく。紫織は振り返って聖護を見上げた。聖護は微笑んでうなずいた。
「アビス!」
紫織は黒猫にそう呼びかけると軽やかな身のこなしで紫織にとびついた。紫織はうまく黒猫を抱きとめる。その様子を見て帰り道、聖護が話しかけた。
「肩は大丈夫なのか?」
心配そうに聖護が紫織に声をかける。
「ああ、もう直った。」
紫織は相変わらず、聖護に振り向かないままぶっきらぼうに答える。それでも以前のようなとげとげしさはない。
「えっ?直った?そんなはずないだろ?我慢するなよ。」
聖護は紫織が意地を張っているのだと思った。
「何言ってるんだ?君がさっき直したじゃないか。」
紫織はちらっと聖護の顔を見た。聖護はきょとんとしている。どうやら、ほんとうに気付いてないらしい。聖護はしきりに頭をひねっている。
「ほんとうに痛くないのか。」
「ああ、ほら、大丈夫だよ。」
紫織は軽く肩を回してみせる。聖護はまだ解せなかった。しばらくは訝しげなな顔をしていたが、ふっと紫織の顔を見て笑った。紫織はその笑顔にはっとして視線をそらす。それでも今、聖護には紫織が以前のように無理やり顔を背ける感じではなくて、ひどく照れ屋で意地っ張りなだけのように感じていた。
「そいつ、アビスっていうのか。」
聖護は上機嫌で話しかける。
「ああ。前の飼い主がそう呼んでいたんだ。」
「へえ・・・、え?なんでそんなことまで知ってるんだ?おまえ。」
紫織はそのまま答えなかった。紫織はしばらく黙っていたが、ふいに聖護に話しかけた。
「聖護、あの力はいったい・・・?」
「え?ああ、あれかあ、俺も驚いた。何が起こったのか俺にはさっぱりわからなかった。紫織が危ないと思ったらああなってた。」
「はじめてなのか?」
「ああ、今までにあんな化け物も見たこともないし、霊だって見たのはじめてだったんだ。さっきまでちひろちゃんが死んでいたなんて気づきもしなかったぐらいだからな。」
聖護は困惑した様子だった。
「そうか。」
あのとき聖護が使った力は魔力ではなかった。確かに神気を帯びていた。しかも凄まじいエネルギーを持っていた。そしてあの顔。聖護じゃない顔。武将のように険しく荘厳で圧倒的な威圧感・・・。だからあの巨大蜘蛛は怖がって逃げようとしたのだ。魔物にとって神の気を帯びた物は猛毒と同じである。あのまま、あの巨大蜘蛛が聖護の放った光を浴びていたら一瞬で消えてたに違いない。それぐらいの力だった。いったい聖護は何者なのか。
「おまえはどうなんだ。あの力はいつからなんだ?」
紫織はちらっと聖護を見てぶっきらぼうに答えた。
「幼い頃から。」
紫織は幼い日に聖護と出逢ったときのことを思い出していた。あの時、おそらく聖護は力を使ったはずだった。そして聖護の気が自分の心を確かに癒してくれた。それすら聖護は忘れてしまったのか。いずれにしても聖護は今は気づいていない。紫織は聖護と自分の間にある見えない何かを感じていた。それでも聖護を近くに置くのは危険だ。力を持っているのは偶然で関係ないかもしれない。もう少し様子を見ようと紫織は思った。紫織はふと足をとめる。そして振りかえらずに聖護に話しかけた。
「聖護、今回のこと誰にも話さないでほしいんだ。こんなこと普通のことじゃないから。」
「ああ、そうだな。」
聖護は自分が使った力のことで困惑気味ではあったが、紫織と近づけたことに少しほっとしていた。しかし、あれはいったいなんなんだろう。紫織も不思議な力を使っていた。聖護は今さらながら、紫織との間に特別な意味があるような気がしていた。
大通りに出てくると、紫織の迎えのベンツが待っていた。紫織が車に近づいていくと運転席から長身の男が降りてくる。聖護と目が合うと丁寧に会釈をして紫織のために後ろの扉を開けた。紫織が乗り込もうとしたとき、聖護が声をかけた。
「紫織、ありがとな。」
紫織がちらっと聖護を見たが、何も言わずに車に乗り込んだ。車が発進するときにふとウインドウが開く。紫織は聖護と目を合わせずに横顔のままぶっきらぼうに言った。
「もう、変なことに興味をもって顔つっこむなよ。命がいくつあっても足らないだろう。」
「ああ、わかったよ。」
聖護はバツが悪そうに応える。紫織はちらっと聖護をもう一度見て
「ありがとう。」
そう言うとすっとウインドウがしまり、車が静かに走り出した。
聖護はなんだか気持ちが晴れ晴れしていた。あれだけ自分を避けるようにしていた紫織が今日一日ですごく近くなったように感じていたのだ。聖護は穏かな表情でしばらく去っていくベンツのテールランプを眺めていた。その後、もう一度病院に戻ると意識を取り戻した裕司が元気に迎えてくれた。ほかにも長く意識が戻らなかった人達が意識を戻し、病院は幾分いつもよりにぎやかな夜を迎えた。