第6話 紫の瞳
梅雨の半ばのこの時期は雨が上がって周りが明るい日差しで覆われても、じめっとした感触は消えず、さらに肌にはりつくように水分は空気の中で重く密度を増してくる。その中に十分に潤いを与えられて熱れる木々や草花の放つ独特な匂いが混じると、さらに皮膚の呼吸をふさがれるような気がして息苦しささえ感じる。
聖護は、下校ピークの学生でごった返したバスの中にいた。バスのエンジンの臭いと汗の臭いが入り混じった空気に人の熱気が加わって、一層不快感が増してくる。聖護は暑苦しくてべたつく肌にイラつきながら、窓の外を見ていた。
あれからひと月たつが、聖護は時折、紫織に話しかけたりするものの、ことごとく避けられ、相変わらずの日々が続いていた。しかし、少しずつではあるが、紫織のことがわかってきた。紫織は、頻繁に学校を休む上、早退も多い。それなのにテストとなれば、学年でダントツのトップで周りを驚かせた。それでもクラスの仲間ともほとんど話をしないので、2ヶ月もたつと一匹狼を確立していた。
また、紫織は、授業以外は図書室か医務室に現れ、本を読んでいることが多い。そしてたまに天気のよい日は校庭の奥にある文化エリアに顔を出す。この学院は光陵学院大学付属病院とその大学部があるエリアと隣接しており、広大な敷地の中に、初等部〜高等部までの男子部と女子部があった。バス停もそれぞれの校門前があるぐらいの広さである。そして学院内は、それぞれ使うエリアが分かれていたが、いくつか共通で使うエリアがある。その中にこの文化エリアもあった。この文化エリアは日本庭園をイメージした公園のようになっていて、茶室などもあり、定期的に一般のお茶会や俳句の会など文化的な催しもなされていた。なにも行われていないときにはこのエリアはひっそりと静かである。紫織はそんな時を選んでは時折、出かけていた。聖護は、その姿を2、3度見かけたことがあった。
紫織は普段から本当に意図的に人を近づけないようにしているのがわかる。しかし、あの容貌である。誰もがはっとするぐらいの凄絶な美しさで学校では知らないものはいなかった。ひんやりとして皮膚温を感じさせない紫織の白い肌と、宝石のような蒼い瞳のコントラストは、見るものに現実味を感じさせなかった。さらにあの蒼い瞳と目があうと威圧されてほとんどの者がすくみ上がる。ちょうど断崖絶壁から美しい紺碧の海を眺めたときのようなあの吸い込まれそうな怖さである。それを平気でにらみ返すのは聖護ぐらいで、普通は長く目を合わせていられない。その上、本人がかたくなに人を拒む雰囲気とあいまって、さらに近寄りがたい雰囲気を増長させている。紫織はいつの間にか周りから氷の女王様といわれるようになっていた。
それでも、聖護にはみんなが言うほど冷たく厳しい雰囲気や近寄りがたい雰囲気というのは感じなかった。むしろ、寂しさや悲しさを抱えているようで、そばに居てやりたい気持ちになるのだ。そして、なぜかなつかしさやいとおしさを感じていた。どこか遠い記憶の底から感じる不思議な感覚だった。聖護は確かにそんな感覚があるのに相変わらず思い出せずに悶々としていた。そんなことをぼんやり考えながら外を見ていた聖護は、バスが信号待ちで止まると、ふと街につながる道とはそれていく横道に歩いていく紫織を見つけた。
「あれ、あいつ何やってるんだ?あいつはいつも車で送り迎えのはず…。」
そうつぶやくととっさに停止ボタンを押してすぐの停留所であわてて降りた。
聖護は走って紫織を見かけた横道を追いかけた。この道はここから山につながるので道が緩やかに昇り坂になっていた。しばらく上って緩やかなカーブを曲がったところで紫織の後姿を見つけた。聖護はゆっくりと様子をみながらついていった。よく見ると紫織の前を黒猫が歩いている。時折立ち止まって紫織の方を振り向いてはまた小走りに走って坂を上っていく。まるで紫織をどこかに案内しているかのように見えた。その黒猫は、毛並みは美しくつややかで流れるように引き締まった体つきをしており、軽やかに音も立てずに走っていた。目は遠目からもわかるぐらい、美しく金色に光っている。聖護にとっては、そのあたりで見かける黒猫とは雰囲気がまったく違っているように感じた。どこか気品があって人の目をひきつける存在感がある。聖護はなんだかその黒猫が気になって、聖護も黒猫を追いかけるように紫織についていった。
道が急カーブになる手前で黒猫は足を止め、紫織に振り返ると今度はじっと紫織を見たまま動かない。聖護も足を止めて道端の木の陰からその様子を伺った。このあたりは最近事故が多発しているところだった。聖護の立っているそばにも、『交通事故多発現場』と赤字でかかれた看板があった。聖護にも聞き覚えがあった。最近よくニュースで取り上げられ、学校でもちょくちょく話題になっている。ちょうど先週も事故があったばかりだ。紫織は黒猫に近づいた。
「おまえ…。」
紫織はそう言って黒猫の前で屈むと黒猫の額に手をあてた。その時紫織がビクッとして目を剥いた。しかし、紫織はそのまま目を閉じ、なでるわけでもなくじっとしていた。どのくらいが過ぎたのだろう。静かな時間が流れた。やがて紫織は目を開けると黒猫をなでながら話しかけた。
「おまえ、寂しかったんだな。」
紫織がふと寂しそうに笑った。聖護はどきっとした。紫織のあんな表情ははじめてだったが、その顔は紫織がいつも聖護にきつくあたったあとにふと現わす表情によく似て聖護の心を締め付けた。
そう言えば紫織は猫に似ているかもしれない。聖護は昔一緒に過ごした猫のことを思い出した。まだ幼い頃、父とともに渡米したときの引っ越した先にその白い猫はやってきた。ある日、庭にじっとすわって聖護を見ていたのである。真っ白で飼い猫のように丸く穏かな顔ではなく、引き締まって精悍な顔をしていた。目は鋭く灰色で光の加減でやや緑がかって見えた。そしてその瞳はどこか物悲しさが漂う気がした。しかし、聖護が近寄っていこうとするとさっと逃げたり、威嚇したりして決して聖護を近づけさせなかった。でもその白い猫はいつも聖護を見ていた。そのうちその猫は聖護の家に住みつくようになって、時折、聖護がしかられて泣いたりしているとふっとそばにきて少し距離をあけてじっとすわっていた。聖護はそんな白い猫にクイーンと名づけ、決して触れることはなかったが、いつも聖護のまわりにいたので聖護は自然にクイーンに話しかけていた。家族の誰にも懐かなかったが、お互いの存在を感じる程度の距離感をいつも保って、慣れない外国暮らしを癒してくれるようだった。聖護がアメリカから帰ってくる少し前、クイーンは病気になった。いつも辛そうにしていた。聖護は気になって気遣うがクイーンは決してそばには近寄らせなかった。聖護が見た最後の姿はふらつきながら聖護のそばに現れたときだった。珍しくそばにやってきて隣に座った。呼吸が荒くつらそうである。聖護は思わずクイーンの体に触れた。クイーンはその日は威嚇したり引っかいたりする気配はなく、聖護が優しくなでてやると気持ちよさそうな穏かな表情をしていた。それっきりクイーンに会うことはなかった。ふと聖護がそんなことを思い出していると、紫織は立ち上がり、黒猫の背後を厳しい表情でじっと見つめた。瞬間、紫織の瞳が紫に光りはじめた。聖護ははっとして、その様子に釘付けになった。
「あいつ…、いったい…?」
聖護は思わず、紫織に近づいていった。
「紫織、おまえ、こんなとこで何やってるんだ?」
いつもの調子で紫織に声をかけると紫織はビクッとして振り返った。紫織はひどく驚いた様子だった。同時に黒猫も聖護がちかづいてくるとびっくりしてすごい勢いでその場から居なくなってしまった。紫織は明らかに動揺していた。
「君こそなんで…。」
「ああ、俺は…その、紫織がこっちに歩いていくのが見えたから、こんな山の人気のないさびしいところへ何しに行くのかと思ってついてきたんだ。おまえ、体弱いし、一人じゃ心配だしな。いったいなんでこんなところまで来たんだ?」
紫織は目も合わせなければ、何も応えない。
「だんまりか、まあ、いいけど、おまえ、いつもの迎えはどうしたんだ?」
「別にに、近くで待たせてある。もういいだろ。」
そう、そっけなくいうときびすを返して来た道を歩き出した。
「ちょっと待てよ!」
聖護が紫織の腕を掴んで引きとめると、紫織はまた、ビクッとしてひどく驚いたように振り返り、すごい勢いで聖護の手を振り払った。聖護は、はっとした。紫織の瞳はいつのまにかいつもの蒼い瞳に戻って、その瞳にはおびえるような悲しさが浮かんでいた。その顔を見て聖護は自分が何か紫織を傷つけたように感じて胸が痛んだ。
「何度言ったらわかるんだ。僕にかまうなと言っただろ?ほっといてくれ。」
紫織は苦しそうに言い放つとその場を逃げるように離れた。聖護は深くため息をつくと紫織の後ろをついて歩き出した。通りまで出るといつものメタリックグレーのベンツがハザードをたいて紫織を待っていた。紫織は後ろを歩いている聖護に一度も振り向かず、車に乗り込んで行ってしまった。聖護は車のテールランプをしばらくじっと眺めていた。
車に乗り込んだ紫織は心臓の鼓動がなかなか収まらなかった。なぜ聖護があの場に?迂闊だった。どうしてもあの黒猫が気になり、周りへの注意心が不足していたのだ。しかもあの時、黒猫にふれた瞬間、黒猫の記憶や想いが自分の中に流れ込んできた。今まで体験したことのない力がまた目覚めたのだ。紫織は怖かった。ここのところ、力の目覚めがスピードアップしている。新しい力が目覚めるたび、未体験の感覚に紫織はおびえて動揺した。それでも少しすると紫織はその力をコントロールして自由に使えるようになっていった。紫織はそうやって変化していく自分を受け入れる一方で、この先自分はどうなっていってしまうのか、不安はますます募っていった。そして、入学式で再会して以来、聖護のことも気にかかって、さらに心に重くのしかかる。紫織は聖護を近づけないようにしても、聖護はいつも傍に現れる。しかも、さっきは力を使っているところまで見られた。このままですむわけはなかった。きっと何か気付いたにちがいない。紫織は聖護と目があったり、触れられたりするとどうしても自分の弱さを抑えられなくなってしまうのだ。聖護を遠ざけるのは容易ではなかった。それでも紫織は聖護を近づけるわけにはいかなかった。聖護に近づけばいずれ聖護に危険が及ぶ。それだけはどうしても避けたかった。もう大切な人達を失いたくない。紫織は改めて心に誓って深く息を吸い込んで呼吸を整えた。総真はルームミラー越しに紫織の様子を心配そうにじっとだまって見ていた。
紫織は家に着くとまた、部屋に引きこもった。紫織は先ほどの黒猫のことを思い出していた。ここ数日、あのあたりを通るたびに黒猫は紫織をじっと見ていた。車や人があふれる中、紫織だけを見ていたのである。何か訴えかけるような悲しい目が強く心をうつ。紫織はどうしても気になって確かめに行く気になったのだ。行ってみて驚いた。聖護に声をかけられたあたりの気は邪気にあふれ尋常ではなかったのだ。姿こそ確認できないものの、何か大きな力をもった魔物の気配を感じた。そしてあの黒猫の記憶・・・。黒猫に触れた瞬間、雪崩のように黒猫の記憶や想いが紫織の中にあふれてきた。悲しく寂しい想いだった。
幼い頃から紫織が抱えてきた想いに共鳴するかのように紫織の心の奥底に触れ、いつか紫織の心も湿って切なく震えていった。そしてそのうち映像のように長い黒髪のうすくグレーがかった瞳の15、6歳の美しい少女が頭の中に現れた。その少女が黒猫に微笑みかけているようだった。黒猫の愛おしい想いがあふれてくる。
「アビス。いい子ね。」
しかし、その少女は、ときおり咳をして苦しそうな表情だった。
「アビス。心配しないで。私は大丈夫。」
少女は力なく笑いかける。そのうち青白くなって動かない顔が強く写しだされた。黒猫の嘆きや悲しみが痛く心に響いてきて紫織の心にもその痛みが刺さるようだった。その後、さまざまな景色が流れる。放浪しているのか、映像が音のないビデオテープのように静かに流れて、黒猫からは戚然とした想いだけが淡々と伝わってくる。そのうち泣いている別の少女の姿が見えた。その少女は帰りたいと泣いていた。
「おまえ、私がわかるの?おまえだけね。私の話をきいてくれるのは。ずっといてくれる?」
黒猫に寂しく笑いかける。黒猫の想いはまた激しく悲しく震えた。そして、紫織は、はっとした。突然、巨大な蜘蛛の魔物が現れた。頭の中でカンカンうるさいほど何か金属音が鳴り響き、アドレナリンがどくどくとあふれでてくるような緊迫感に襲われた。紫織は体を硬直させて手には冷や汗がにじんだ。顔は人のようで不気味に目は鋭く血のように赤い。口は裂けあがって腹をすかせた獰猛な獣のようで大きな牙からは涎がしたたり落ちている。
「人の魂は絶品だからな。くっくっくっくっく。」
巨大な蜘蛛は尻から透明に光る糸を出して周りに張り巡らしていた。所々に糸でぐるぐる巻きになった固まりが見える。巨大蜘蛛はそのひとつに手をかけると中からぼんやり光る光の玉を取り出した。中に人の顔らしきものが見える。恐怖に震え、叫んでいる。その様子をみて楽しむように不気味ににんまり笑う。
…ごくり。
巨大蜘蛛は光の玉をひとのみで飲み込んだ。紫織はゾクッとした。寒気がするおぞましい気だった。黒猫の背後に感じた気と同じだった。おそらく、あの場所にいる魔物の正体だろう。紫織は厳しい表情で手の中のロザリオをじっと眺めて目を閉じた。
週末があけての月曜日、聖護が登校すると教室は朝から騒がしかった。昨夜、クラスメイトがあの場所で事故にあって重傷を負った話で騒然としていた。あの場所は呪われてるなどと口々に話している。事故にあったのはいつも聖護とともにグランドでボールを追いかける仲間の唐沢裕司だった。話によると祖父の家があの先にあるらしく、母親の運転で車に乗ってあの道に差し掛かったところ、猫が飛び出してきて、その猫をさけようとしてガードレールにつっこんだらしい。あやうくその先のがけには落ちずにすんだので、母親は打撲とすり傷で軽傷、裕司はぶつかった衝撃で体を強打されて、車の外に投げ出され、左足を複雑骨折したらしかった。聖護はその話をきいて、ひっかかった。あの場所で猫?もしかしてあの黒猫・・・、聖護はふと3日前。紫織をみつけて追いかけたあの場所で見た黒猫を思い出した。聖護は、昼休みに紫織を見つけると話しかけた。
「なあ、紫織、あの話聞いただろ?裕司の事故の話。裕司の母さんあの場所で猫をよけようとして事故にあったらしい。この間あそこにいた黒猫のことじゃないか?お前、なんか知ってるのか?」
「べつに。何も。」
紫織は聖護の顔をちらっと見てそっけなく応えてその場をさろうとした。
「ちょっと待てよ。紫織。」
聖護が紫織の腕をつかむと紫織はビクッとしてとっさに腕を振り払った。
「なんだってあの場所にいったんだ?黒猫はお前を案内してるみたいに見えたぜ。あそこに何かあるのかよ。」
「何も知らないって言っただろう。あそこに行ったのは偶然だ。猫を見つけたので興味があって行っただけだ。」
紫織は怒ったように言葉をぶつけると蒼い目で威嚇するように聖護をにらみつけた。
「本当か?」
聖護が鋭い目つきでつめよる。
「ああ。」
紫織は視線をそらし、すぐにきびすを返して後ろ向きのまま低い声で返事をした。
「君がそんなことにかかわる必要はないじゃないか。事故は警察で調べてるだろう?あそこに近づくな。聖護。」
そう言って歩き出そうとした。
「なんでだ?」
紫織は、はっとして足をとめる。
「・・・。べつに。悪い噂を聞いたから。みんな言ってるだろう?呪われた場所だって。そんなところに関わらない方がいいって言っただけだ。」
そっけなくいうと紫織はまた歩き出して聖護の前から姿を消した。
午後の授業中も聖護は裕司の怪我のことと紫織のことが気になった。裕司は寂しがりで学校に来るのが何よりも楽しみな人懐っこい性格だった。いつも誰かにかまってもらいたいタイプでなかなかかわい気のある少年だった。見た目も目がくりっと大きく体も小柄なのであどけない子犬のような感じさえする。そんな裕司が、しばらく入院で学校に来れないとなるとひどく気にして寂しがるのが目に見えていた。みんなでにぎやかく見舞いにでもいかないとなと思い、
「しかたない、ノートぐらいとってやるか。」
聖護はぶつぶつ独り言を言って顔を上げると、目の前に先生が立っていた。聖護はびっくりして冷や汗物で笑った。
「ほう、仕方なくノートをとるのか、君は。いい根性してるねえ。よほどできるんだねえ。」
「いや、そういう意味じゃなくて…。あ、裕司に…。」
と言いかけたところ先生にさえぎられた。
「言い訳はいいぞ、須崎。この問題解いてみろ。もちろん正確にな。」
先生はにんまり笑っている。周りからはくすくすと笑いがもれてくる。聖護は大きくため息をついた。黒板の前にいって書かれている数式を前にして頭を抱えた。それまでの話をまったく聞いてなかったので、結局答えられず散々あとからしぼられたのだった。それでもその後の授業も結局集中出来ずじまいで、いろいろなことに思いをめぐらせていた。
ふと、聖護は紫織に目をやった。紫織は真ん中より後ろの窓際に座っている。聖護は中央の一番後ろの席にいるので紫織の様子がよく見えた。紫織は授業をきいているというより、窓の外を眺めて何か考え事をしているように見えた。聖護は、その様子を見ていて、さっきの紫織の言葉を思い出していた。本当に何も知らないのか?聖護は紫織が何か知っているような気がしてならなかった。やはり周りで噂されるみたいな見えない何かがあそこにあるのだろうか。しかもあの時、紫織の目が紫に光った。あれはなんなのか。紫水晶のように透明で不思議に引き込まれる瞳だった。蒼い瞳のときとはまた雰囲気が違う。あいつが人を遠ざけるのとなにか関係があるのだろうか。
―あそこに近づくな、聖護―
紫織のその言葉が妙に引っかかった。しかし、その時はたと聖護は紫織が自分のことを須崎ではなく、聖護と呼んだことに気がついた。紫織は用事があるときにしか話しかけないが、クラス全員を苗字でしか呼んでない。そう思うと少しうれしさが沸いてきた。少しは紫織に近づいているのかもしれない。普段ほとんど話をしない紫織が、聖護が聞いたこと以外に言葉を返してきた。とすると、やはり意味がありそうな気がした。
聖護はいつもは少しグランドで汗を流してから帰るところを仲間の誘いを断り、放課後は早々に学校をあとにして、まっすぐこの学校の付属病院の敷地へと足を伸ばした。病院へ着くと、入院病棟のロビーで唐沢裕司の名前を告げ、部屋番号を聞くとまっすぐその部屋に向かった。聖護はこの病院は慣れている。ここに聖護の母は長年入院していた。聖護は母の見舞いに週3回は通ってきているので、ここの看護士や医師と顔なじみだった。
「あら、聖護くん、今日はどうしたの?面会は明日のはずじゃなかった?」
看護士の戸倉志奈子が声をかける。明るく元気で陽気なまだ病院に勤めて浅い若い看護士で聖護と気が合う。聖護より背が小さいので聖護でもかわいい感じがして親近感もあった。聖護は足を止めずにあわてて振り返りながら笑顔で応えた。
「ああ、志奈子さん、こんにちは。友達が昨日入院しちゃって、今から顔見に行くところなんだ。あとで母さんとこにも顔だすよ。」
「ああ、唐沢くん?ああ、そっか、お友達なのね。残念だけど、今日は会えないわ。意識が戻らないのよ。」
「え?足を骨折しただけじゃないの?」
聖護は一瞬立ち止まる。
「それがね、検査もしてみたんだけど、頭も打ってないのに、昏睡状態のままなのよ。」
志奈子は少々難しい顔をしてため息をついた。
「おかあさんも、心配してるわ。自分が運転してたでしょ?責任感じちゃって・・・。とにかく、今日は会えないから、残念だけど出直してくれる?」
「え?ああ…。そうか。意識が…。わかったよ。また出直すよ。」
聖護の顔がふっと曇る。それでもすぐに気を取り直し志奈子には笑顔を向けた。
「あ、でも、せっかくだから母さんとこには寄っていくよ。」
「そうね、それがいいわ。」
志奈子はほっとした表情で応えると、すぐそばの病室に消えた。聖護はしばらくじっと考えていたが、母の病室に向かって歩きだした。