第5話 追憶
今朝は春らしくさわやかな晴天に恵まれていたが、いつのまにか厚い灰色の雲に覆われて今にも雨が降りそうな重くどろんとした空気に生暖かい風が吹きはじめていた。時折、その風に最後の桜が舞い散って表情のないアスファルトにはりつく。
冬木総真は運転しながら後部座席の紫織をルームミラー越しに、時折様子を伺っていた。いつも寡黙ではあるが、今日は様子がおかしい。寒気がするようなひんやりした圧迫感のある空気が車内に広がっている。嫌な空気だ。時折、紫織といると感じる。今日は光陵学院の中等部の入学式で午前中いっぱいかかるはずで、あらかじめ正午に迎えにいく予定だった。しかし、紫織を学校に送り届けてほどなく紫織は低く押し殺したような声で迎えに来いと電話してきたのだった。それっきり、今まで口を聞かない。明らかに何かがあったのだ。それでも総真は何も聞けなかった。
父、間宮祐一郎を亡くした後、紫織は決して心の内を明かすことはなかった。熱にうなされて意識が戻ってから、紫織はすべてを自分で抱え込むようになってしまった。以来、誰にも心を開かない。傷ついて弱っている紫織に手を差し伸べようとしようものなら、紫織は警戒心いっぱいに噛み付いて、さらにそんな自分にまた傷つく。総真はなんとか手を差しのべて傷を治してやりたいと思うのだが、そばに居て見守ること以外、何も出来ないのがもどかしい。苦しそうに窓の外を見つめる紫織の横顔を見ながら、心の中で自分の無力さを嘆いた。この一年あまり、紫織は特に近づいてくるものすべてに警戒して怖がるように威嚇する。そのたびに深く暗い心の闇に沈んでいくような気さえしていた。
総真は祐一郎の遺言から間宮家の資産管理と紫織の後見人として常に支えてきた。祐一郎が亡くなった時、このような人生を当然のように受け入れていた。それが自分を育ててくれた祐一郎に対しての恩返しでもあると同時に、父としてもあってくれた祐一郎の意志を継ぐことでもあると思っていたからだった。
総真の父は間宮家に長年仕えた顧問弁護士だった。総真の母が病気で亡くなった時、祐一郎の勧めもあって総真は父とともに間宮家に移り住んだ。その父も総真が13歳の時に病気で亡くなった。他に身寄りがない総真を自分の息子のように愛情をかけてくれた。総真はそんな祐一郎に報いたいとの思いもあって父と同じように間宮家を支えるべくさまざまな勉強をした。祐一郎はそんなことで自分を縛りつけるな、自分の人生は自分で自由に決めなさいと常々言ってくれたが、総真の強い意志と理解するとそんな総真に応えてさまざまな援助をしてくれた。総真は祐一郎を自分のもう一人の父として尊敬し、敬愛するとともにたくさんの感謝の気持ちを持っていた。だからこそ、総真にとっては、祐一郎の意志を継ぐのが自然なことだった。でも、それだけではなかった。それ以上に、あの祐一郎の葬儀の日、目の前に立つもろく今にも消え入りそうな紫織を想い、このひどくおびえた迷える子を守ってやりたい、支えられるのは自分しかいないと強く感じたのである。それから3年、形としては紫織のすべてを支えているかのように見えるが、一番支えてやりたい心は目の前にあっても掴むことが出来ずにいた。容易に掴もうとすれば紫織は怖がり、拒絶しては、自らも傷つく。総真は目の前で深い心の闇におぼれかけている紫織を見ながらどうするすべもなく立ちすくむしかなかった。そんな紫織を見るたびに、歯がゆさと悔しさだけが、総真の心に刻み込まれる。総真は今回も届かない想いに心を煩わしながらハンドルを握っていた。
家に着くなり、紫織は食事もいらないから誰も声をかけるなと総真に告げると、すぐに自分の部屋に引きこもってしまった。総真は心配な面持ちで堅く閉じられた紫織の部屋の扉をしばらく眺めていた。
紫織は窓の外の樫の木をじっとみつめていた。そして目を閉じて深く息をすると、ポケットから深い青い数珠のついたロザリオを出した。しばらく手の中のロザリオをじっと眺めて強く握り締める。紫織は震えるように目を閉じてロザリオを胸に抱くと、窓の下のあの庭での幼い日を思いやった。
紫織は成長とともに自分の異質さを知らしめられていた。少しずつ尋常でない力がふつふつと沸いてきて開花していくのだ。はじめは気配や匂いだった。姿を見なくても父や総真、律がわかり、そのたびに驚かれた。紫織にとってはひどく当たり前のことだったが、大きくなるにつれて普通はほとんどわからないことで、たまに勘で当たるぐらいだということがわかって驚いた。さらに5歳の時、見えないはずのものが見えるようになった時は本当に怖くておびえた。
あの庭でいつものように一人で遊んでいた紫織は、それまで一度も屋敷の外には一人で出たことがなかった。だから父や総真が居ないときは、常に一人で過ごした。それでもあの日はめずらしく、父や総真が出かけていく時に、一人置いていかれることに寂しさや悲しさを感じていた。今となっては、なぜそういう思いを抱えていたのかは忘れてしまったが、そんな思いを抱えて門まで追いかけた記憶があるのだ。紫織はその後、いつものように庭へ出た。草花や木のもつ気が一番安心できたので一人でいるときはいつも庭で過ごした。ふと周りの気が乱れた。いつもは穏かでやさしい気がざわつきおびえる。紫織はだんだん見えない異変に不安になっていった。一瞬ゾクッと寒気がして気分が悪くなった。その瞬間、ぬめっと張り付くなんとも言えないような気の感触に戦慄した。もぞもぞと嫌な感触がしたので手元をみると黒くうごめく虫が手の上を這う。
「ひっ!」
びくっとしてとっさに手を引いた。顔は恐怖にゆがんだ。紫織はあまりの怖さに腰が抜けたように地面に崩れ落ちると、震える体を足を引きずるようにして地面を張ってあとずさる。ふと体を押し付けられるような圧迫感が襲ってきた。
「あ・・・あああ・・・。」
喉も締め付けられているせいで悲鳴は声にならない。心臓は壊れそうなくらい激しく鼓動し、呼吸の仕方も忘れたかのように息を吸い込むにも苦しく、うまく吐けずにまた苦しんだ。まるで発作のように震えている。目の前にはおびただしい鬼のような恐ろしい形相をした黒い羽をもつなんとも気持ち悪い生き物が虫のように飛び交い、蛇のようなトカゲのような生き物が口を大きく開けて赤い舌を出して紫織に向かって威嚇する。そのうち耳障りの悪いしゃがれたような笑い声が頭の中で響いた。紫織は恐怖で目を剥いている。何が起こっているのかまるでわからず混乱し、狂ったように頭をかきむしって声にならない声を発した。それでも紫織は声にならない声を無理やり搾り出すようにやっと叫んだ。
「・・・だ・・・誰か・・・誰か助けて!わああああああーっ!」
背後で動く音がした。一瞬、ビクッとしてその瞬間心臓が激しくうつ。紫織はおびえながらおそるおそる後ろを振り返った。
「どうしたの?なぜ泣いているの?」
現れたのは自分より少し年上に見える少年だった。少年はしゃがみこみ紫織の顔を覗きこんだ。少年の瞳はどこまでも黒く澄みきった黒曜石のように、まっすぐではっきりとした意志の強さを表わしていた。その少年の顔がふっと笑う。
「もう泣かないで。怖いものなんかないよ。」
そういっておびえる紫織を両手で抱きしめた。紫織は少年の強くそして暖かく自分を包み込むような今までに感じたことのない心地良い気に包まれた。恐怖におびえていた気持ちがすっと遠ざかり、いつのまにか安らぎと穏かさを取り戻していた。少年はもう一度紫織の目を見て優しく笑顔を向ける。
「君の目は宝石みたいだね。すごいや。」
少年がうれしそうに驚きの目で紫織の瞳を覗き込む。
「これをあげるよ。」
ポケットからロザリオを取り出した。
「君の瞳と同じ色の石だよ。きれいだろ?僕は怖いことや心配なことがあったらこれに祈ると強くなれるんだよ。正しい清い心を支えてくれるんだ。これを君にあげるよ。だからもう怖がらないで。君を怖がらせるものはもうないよ。大丈夫だから。」
少年はそう言って紫織の手にロザリオを握らせた。暖かい手だった。少年がいったことを後押しするかのように触れられた手に優しい暖かい気が流れ込んできて傷を癒すかのように広がっていく。紫織は少年の手から流れこむ気を自然に受け入れ、いつの間にか自分が穏かでやさしい暖かいものに包まれて夢を見ているような気分になっていた。少年が手を放すとはっと我にかえって自分の手に物の感触があるのに気付いた。手の中にはロザリオがあった。時折、父と出かける教会で見た十字架と同じものが小さくなって手の中にあった。
「これ、大事なものじゃ・・・。」
「大丈夫だよ。これがなくても僕は強いから。男だしね。大丈夫なんだ。」
少年はまぶしい笑顔を向ける。
「あ、僕もう行かなきゃ。また、会えるといいね。」
そういって去っていった。
気付くといつもの草花や木のやさしい穏かな気に包まれていた。しかし、それからも魔物たちはしょっちゅう現れ、紫織の心につけこむように容赦なく翻弄した。何度となく体験するうちに自分の心が弱ると魔物をひきつけることを知った。紫織は肌身離さずロザリオを持ち、何かあるたびに少年のことを思い出してはロザリオを握った。不思議と強くなれた。祈ると魔物はそのたびに消えていった。
紫織は祐一郎に何も話さなかったが、祐一郎は時折思いつめているのに何も言わない紫織の様子に、何かあると察して7歳になった日に真実を話してくれた。紫織は祐一郎の子ではなかった。祐一郎の子は死産で妻もまもなく亡くなった。その遺体が家に戻された日、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて家の前に倒れる女性を見つけた。医師である祐一郎はその女性を連れ帰り、自宅で手当てしたが、祐一郎が病院に連絡している間に赤ちゃんを置いていなくなってしまった。赤ちゃんのそばに走り書きのメモがあった。
『この子は神から授かった聖なる子。でも、中に魔が宿っています。恐ろしい悪魔が狙っているのです。お願いです。この子を助けて!つかまれば悪魔のおそろしい力が目覚めます。お願いです。この子を助けてください。』
すぐにその女性を探したが、結局、数日後、九州の海岸で水死体となって発見された。その夜、祐一郎は神の声を受けた。
『この者は我らが望みし聖なる者。双子のもう一人は悪魔の望みし者。悪魔の望みし者はやがて強大な力をもってこの世に君臨し、世界をゆるがす存在になるであろう。その者に大いなる力を持たせないため、我らはこの者に魔の力を分散させ、さらに我らの力を託した。やつは完全体になるためにこの者の宿す魔の力を取り戻そうとするであろう。この先、この者は茨の道をたどる。しかしこの者はまだ幼い。未成熟の心なればやつらはその不安定な弱さにつけこんでくるであろう。されば正しき心に導くこの者を助ける者が必要なのだ。汝がこの者を愛し、人の道を教え、正しき心を養ってはくれぬか。この子に正しき心と勇気が備われば魔に打ち勝ち、人を救う尊い存在になる。その時までこの者を護ってはくれぬか。』
目がさめてもはっきりとメッセージが頭に残った。間違いなく神の声だと信じた祐一郎は、この子を自分の子として育てることにした。この女の子に紫織と名づけ、死産だった男の子の代わりに間宮家に引き取った。そしてなるべく目をくらますつもりで念のため、男の子として届けた。
紫織はその時初めて自分がずっとこの屋敷で過ごしてきた理由を知るとともに普通の人にはないことが自分の身に起こっている理由を知った。そして自分の運命を呪った。父はさまざま紫織の身に起こっていることを察して真実を知らせて向き合っていくことを選択したのだ。その父の思いとあふれんばかりの愛情が次第に紫織に事実を受け入れさせていった。
「紫織、強くなるんだ。自分の運命には自分が向かっていくしかないんだ。逃げてはいけない。人はみな幸せになるために生まれてくる。しかし、つらいことを乗り越えるから幸せになれるのだ。これからもいろいろなことが起こるだろう。だが、ひとつひとつ乗り越えるとそこに生きる意味を見出すことができるのだ。紫織、強く生きなさい。本当の幸せは自分の大切な人達に幸せを与えられた時に得られるのだ。それを見つけるためにお前は生まれたのだ。お前は私の大切な子だ。人を愛し、幸せになってほしい。」
父の言葉が今も耳に残る。あの厳しくも優しかった父はその3年後に事故で逝ってしまった。もう二度と会えない。紫織はロザリオを握ったまま目を閉じた。今日、講堂での入学式が終わって教室に入ると紫織は懐かしい暖かい気を感じた。そこにはあの日の少年が成長した姿で同級生と談笑していた。紫織は思わぬ再会に驚いた。少年は紫織の視線に気づき目を合わせる。その目はあの時と同じ黒曜石のようにどこまでも澄んだ黒い瞳でまっすぐではっきりとした意志の強さを表わしていた。一瞬、気が遠くなる。はっと気付いて強引に自分の意識を引きずり戻した。心臓が高鳴る。目をそらさないと彼が気付いてしまう。紫織は断ち切るように視線をそらしてそのまま教室を出た。
新しい生命力を含んだ春の風が紫織の体をすり抜けて桜の花びらを散らしていく。いつもなら心地良いはずが、今日は身を切るように痛く感じた。近くで魔物がせせら笑う。黒い羽の魔物が紫織にまとわりついた。紫織はじっと魔物を睨んでいるだけだ。少年の気はどこかでずっと自分が求めていた自分のよりどころになるようなものだった。あの日、自分が安心していられる唯一の場所を見つけたように確かに感じたのだ。紫織はあの瞳に吸い寄せられるように一瞬我を忘れていた。こんな手を伸ばせばすぐに届くところにあれば無意識に望んでしまう。誰も巻き込まないと誓ったはず。体に魔を宿す自分は人に災いをもたらし、危険をはらむ。母も、育ててくれた父も死んだ。やつらはいつでも目を光らせている。誰も近づけてはならない。自分のために誰も傷つけてはならない。もう大切な人達を失いたくはない。そうして自分の中の魔を呪った。苦しそうにうつむいて紫織は自分の体を強く抱きしめる。それでも心の闇は深く根を下ろしていった。
その夜紫織はなかなか寝つけなかった。時折うとうと浅く眠りにつくと強い圧迫感と冷たさにすぐに現実に戻される。目を開けると魔物が取り巻いている。
『認めてしまえ!お前は我らと同じ。お前の血は穢れている。けっけっけっけっけ。』
しゃがれた声で嫌な笑いが頭に響く。
「違う!違う!違う!」
紫織は両手で頭をかきむしって首をふる。
『お前は化け物だ。我らと同じ。人じゃない。けっけっけっけっけ。』
「違う!僕は人間だ!」
魔物が笑いながら肩や背中にまとわりついてくる。
「さわるな!僕は人間だ!」
瞬間、紫織の蒼い目が紫に光った。その瞬間空気が凍りついたように魔物も動きが止まる。空気がうねりはじめた。嵐のように凄まじいエネルギーで魔物は引きちぎられてとばされて悲痛な叫びとともに消滅していく。あまりの衝撃に紫織は耳をふさいだ。何が起こったかわからない紫織はしばらく放心状態だった。妙な静けさが広がる。紫織がふと我に返ると、自分の中に何かのエネルギーを放出した後の脱力感を感じることに気付いて戦慄した。自分だ。あれは自分だ。魔物さえも引き裂いて消滅させるような力が目覚めたのだった。自分の未知の力の開花に紫織は恐怖を覚えた。
「まただ・・・。」
紫織はガクガク震えてきた。
「僕は化け物・・・?」
紫織は自分の体の震えを押さえようと自分の腕で体を強く押さえつけようとしても心のそこから恐怖が競りあがってくる。
「あ・・・あああ・・・わああああぁぁぁーっ!」
紫織の凄まじい叫び声が深夜の屋敷に響き渡った。総真が飛び起きて、ベッドサイドの引き出しを乱暴に開けて鍵束をわしづかみにすると紫織の部屋へと走った。階段を一気に駆け上がり、紫織の部屋の前まで駆けつけた。
「紫織さん!どうなさったんですか?紫織さん!」
扉を強く叩いて呼びかけても返事がない。総真は手にした鍵で紫織の部屋の扉を開けた。
「紫織さん!」
総真は驚いた。部屋の中が嵐にでもあったかのようにいろいろなものが散乱してバルコニーにつながる窓が開け放たれてガラスにはいくつも亀裂が入っていた。総真が部屋の奥に入っていくと、窓から入る月明かりに照らし出されるベッドの上で呆然として一点を見つめたまま人形のように動かない紫織を見つけて駆け寄った。
「紫織さん!何があったんですか!」
紫織は返事をしない。どこを見ているのか一点を見つめる瞳は焦点があってない。総真が紫織の肩をつかんで揺さぶるとはっと我に返る。紫織はまたぶるぶると体を震わせ
「あああ・・・わあああぁぁぁーーーっ!」
奇声をあげて叫び、涙を流しながら目を剥いて頭を両手でかきむしる。
「紫織さんっ!紫織さんっ!」
総真は狂ったように泣き叫ぶ紫織の頭を強引に自分の胸に押し付け、体を引き寄せ強く抱きしめた。
「大丈夫。紫織さん。大丈夫ですよ。」
総真は紫織の耳元で声をかける。しばらく発作のように暴れて振りほどこうとしていたが、総真が強く紫織を押さえつけたので諦めたように静かになって肩で息を何度かした後動きもとまった。総真は強く抱いていたその手を弱めて、自分の胸にうずもれている紫織の顔を覗きこんだ。月明かりの当たる青白い肌に冷たく威嚇するようなするどい視線が目に飛び込んできて総真は凍りついた。紫織の瞳は紫の光を帯びていた。
「・・・なせ・・・。総真・・・離せ。僕に触れるな。」
紫織は低い声を搾り出すように言った。総真はしばらく動かなかったが、紫織の刺すような紫の瞳は何者でもひれ伏すようなそんな威厳をも放っている。総真はこの瞳に逆らえないのだ。総真は紫織の目を見ながらゆっくりと手を離してその場に立ち尽くす。
「紫織さん・・・。」
総真がつぶやくようにいうと紫織はビクッとして我に返る。そして力のない目で総真を見上げた。
「ごめん・・・総真・・・。もう大丈夫だから・・・。お願いだからひとりにして・・・。」
さっきの目とは違う弱々しい蒼い瞳が請願する。しばらくその瞳をじっと見つめて沈黙が続く。
「わかりました。何かございましたらすぐに参ります。では・・・。」
総真は無表情に淡々と答えるとゆっくりきびすを返し、扉に向かって歩いた。扉の前まで来ると、もう一度総真は振り返った。紫織はベッドの上で座り込んだまま窓の外の満月を見上げていた。総真には紫織がまるで月の光で体を清めているかのように思えて、その姿に目を奪われた。それは神秘的で荘厳な美しい女神のようにすら感じた。総真はしばらく立ち尽くしていたが、はっと我に返ってゆっくりと扉を開けて出て行った。外ではいつもは笑顔で元気な家政婦の律が心配そうに立っていた。
「大丈夫ですよ。もう・・・。紫織さんはお休みになりました。悪い夢でもみたのでしょう。」
総真は無理に笑って力なく律に説明すると、律は眉間にしわを寄せ、納得しないまま頷いて、諦めたように階段を降りて自分の部屋に戻っていった。総真は紫織のそばに居ながら何もできない無力さに唇をかみ締め、手をぐっと握り締めて目を閉じた。