第49話 再会
ドドドドドド…
地鳴りがして大地の奥深いところからの震動が続く。大きく横揺れをしているわけではないが、今にも何かが地底から現れそうなほど大地が大きく震えて、人々の不安はピークに達していた。紫水湖の湖面は地上の高さより異様に盛り上がって、まるで湖が生き物であるかのように体内に妖しく真紅に光る卵を孕んでいるように見える。時々、その赤い光は生き物が呼吸をするかのごとく、湖面を上下させて不気味な表情を見せていた。
聖護は厳しい顔つきで黙々と歩いている。何かに憑かれたかのように彩華達を乗せた白龍丸を引っ張って歩く。道を知らないはずなのに、迷う様子もなく突き進んでいく聖護を彩華は馬上から何か言いた気な重い表情でじっと見つめていた。佐久也はといえば二人のただならぬ雰囲気と緊迫した辺りの様子に敏感に反応しているらしく、その表情は固く、手にはべっとりといやな汗を握っていた。しばらく起伏のある山道を歩いて行くと、だんだん辺りが騒々しくなり、人の掛け声や叫びに混じって悲鳴や馬の嘶き等が入り乱れた音が耳に入り、聖護がはっとして立ち止まる。
「はじまったか!」
聖護は鋭く一点を見つめてそう叫ぶと、白龍丸の手綱を離して走りだした。
「聖護!」
彩華が聖護の背中に叫んだが、自分達の歩いてきた道のすぐ脇の勾配を凄い勢いで昇りだした聖護には聞こえている様子はなく、返事もないままに一気に丘の上に昇りつめた。
「佐久也、しっかりつかまってて。白龍丸!行くわよ!」
そう言って彩華は白龍丸の体に鞭を打つ。白龍丸はそれに応えるように勇ましく前足を上げて天を仰ぐように嘶くと一気に勾配を駆け上がった。
「聖護!」
彩華は聖護が立っている傍まで来て、もう一度聖護に声をかけたが、その瞬間、眼前に広がる光景に目を奪われた。彩華たちの眼下では凄まじい血の惨状が今まさに繰り広げられていた。
「佐久也、降りて!」
彩華は目を剥いて余裕のない青い表情で叫んだ。佐久也が驚いて慌てて降りようとすると、聖護が白龍丸の前に立ちはだかり彩華を見上げて制止した。
「待て!」
「待てないわ!早くやめさせないと!」
聖護の制止を振り払って前に出ようとするのを、更に聖護が白龍丸の手綱を引っ張って止めた。
「今は待て!一人で行ってもどうにもならない。落ち着け!」
「待てなっ…」
彩華は咄嗟に聖護を見下ろしてはっと息を呑んだ。聖護の瞳が白く光を帯びて眼光鋭く、彩華を睨みつけていた。
「俺が行く。白龍丸を」
聖護は彩華をじっと見つめて今度は静かに低い声で言った。彩華は聖護の放つ凄まじい威圧感に何も言い返せず、黙って佐久也を降ろして、続いて自分も降りた。彩華が白龍丸の手綱を自ら聖護に差し出すと、聖護は馬には乗れないはずなのに、慣れた動きで軽々と体を馬上に乗り上げ、白龍丸をいとも簡単に操って走り出した。それはまるで戦場を勇ましく駆ける戦士のようで、まさに猛々しい武将の威厳と風格を備えていた。
「佐久也とここにいてくれ!」
そう言い残して聖護は彩華と佐久也の目の前から消えた。
雅成が3千の騎馬兵を率いてそれぞれの陣屋の中間地点の山の中腹からそれぞれの大将に向かって叫んだ。
「静まれ!我は諏佐国王、諏佐原雅成是親である!無益な戦いをするでない!静まれ!」
その声に彩華と佐久也は眼下の山の中腹に目をやる。聖護もその声が気になったのか、白龍丸を声のするほうへ走らせ、見通しの良い高台になっているところを見つけると場所を見つけて、声のする方を確認するように視線を走らせた。途端に聖護がはっとして目を見開いた。聖護の位置から、比較的近いところにその声の主が、騎馬兵を率いて眼下に戦場を望んでいた。その声の主は馬上で紫織を腕に抱いていたのである。
「紫織!?」
聖護が叫ぶとその馬上の主にしがみつくようにしていた紫織がはっとして一瞬顔を上げた。その声の主はその時、一瞬、紫織を気遣う様子を見せたが、後ろに控える男に声をかけると紫織を抱き上げてその男に預けた。そして向き直ると、急に険しい表情で刀を天に掲げて勇ましい声を上げた。
「戦を止めるぞ!誰も殺してはならん!よいか!この無益の争いを止めるのだ!」
「うおーっ!」
そう叫ぶと、その男の後ろに控える兵達はいっせいに勇ましい声を上げて応えた。
どうやら、加陀と田津の兵には雅成の声は届かなかったようだった。兵を率いる指揮官にもそれぞれの隊長にもその声が耳に入っている様子は見られない。既に命が途絶えて血だらけでぼろ布のように横たわる死体がいくつも見える。二つの山を分かつように流れる清流の色はもはや真っ赤な血の川と化していた。辺りは生臭い血の匂いが立ち込め、異様な空気で包まれて、兵達は何かに憑かれて狂ったように刀を振り回して、諏佐国軍の眼前で血で血を洗う惨劇を繰り広げていた。先陣を切って山の中腹から一気に馬で雅成が駆け下りる。それに続くように後ろから、たくさんの騎兵が土を蹴り上げ、舞い上がる土埃とともにその音で大地を振るわせた。
聖護は諏佐国軍勢が一気に山から下っていく光景を目の前にしても、紫織の姿から目が離せなかず、険しい形相でじっと紫織を見つめていた。聖護には今しがた見せられた、いかにも紫織は自分のものといわんばかりに抱き上げていた雅成の姿が脳裏に浮かんで、ふつふつと心の奥底から湧き上がる熱いマグマのような存在が聖護を揺さぶった。
紫織の方は馬上の男になにやら話しかけると、馬から下りて崖の上に立った。紫織は何か唱えると目を閉じて両手を広げて天を仰いだ。しばらくすると紫織の体の中からぼわんと紫の光がから発せられて、紫織の体全体を覆った。その光はゆらゆらと炎のように揺らめいたかと思うと、その瞬間、紫織はかっと目を見開いて、天に向けてそのエネルギーを放出した。その瞳は紫に鋭く光り、包まれた光の中でもまるでそこが光源かのように一層強く光を放っていた。一瞬で空が紫に変わる。そしてうねるように光が動いたかと思うとオーロラのように天から紫の光が振りそそいだ。紫の光は天から覆う被さるように静かに降り注ぎ、次々と人々の心に取り付いた魔物をを引き離していく。魔物が引き剥がされた人々は動きを止めて呆然とその場に立ち尽くした。
「うぎゃーっ!」
思わず、佐久也は魔物たちの悲痛な叫び声に耳を覆った。しかし、彩華は目の前で幻想的に繰り広げられる光景の中に浮かび上がる紫の光に包まれた紫織に魅入られるように、その姿に視線は釘付けだった。
突然、聖護は紫織の姿に向かって走り始めた。そして、紫織の後ろ姿を認めると、白龍丸から飛ぶように降りて、傍に駆け寄った。そして聖護も目を閉じて両手を広げて天を仰いだ。すると聖護の体から白い光が現れて、それはやがて聖護の体全体を覆って、炎のように揺らめき始めた。聖護がかっと目を開けると白い光をその辺り一体に放出した。白い光は紫織の放つ紫の光と融合すると、やはりオーロラのように空から人々に降り注いだ。その瞬間、人々から引き剥がされて浮遊していた魔物たちが叫び声とともに引きちぎられるように消え失せていく。
「ぐぎゃーっ!」
紫織はその様子を目の前にしても顔色を変えず、すべてを自分の放つ光で抱きしめるように、その場に佇んで微動だにしない。しかし、紫織には聖護がすぐ傍に居ることは既にわかっていた。聖護が傍にいると暖かく、心が穏かになれる。心が弱い自分を柔らかく包み、後押ししてくれるようなそんな感覚がある。この感覚は他の誰でもない、自分がずっと求めていた、聖護に間違いなかった。紫織は聖護がそこにいるだけで、不思議と不安や恐れを感じなくなるのだ。紫織はこの世界に来てから、必死に自分自身を支え、なんとか保ってきてはいるが、それはガラスのように脆い張りぼてのようなものでしかなく、何かあれば崩れそうな程危うくギリギリの状態だった。そんな不安定だった聖護の存在を感じただけで心も穏かに落ち着いてくる。紫織は一瞬目を閉じて安堵したように深く息を吸うと、もう一度、目をしっかりと見開いて、深い紫水晶のような透明で透き通る瞳を眼下に向けた。
「静まりなさい!我は紫の神子である!無駄な殺生はこれ以上してはならない!これは魔物の仕業なのです。奴らは人の心の隙に取り入って内に潜む負の気持ちを引きずり出しては争いを起こし、人を不幸に導くのです。このままでは人の世は滅びてしまう。目の前の人を見なさい。同じ血の通った人間なのです。お互いの心の声に耳を済ませるのです。戦いは無益だ。何も解決は果たせない。後には今以上に悲しみや苦しみ、そして憎しみが残るだけです。心を強くもちなさい。魔物に隙を与えてはなりません。恐れを捨てて、愛を持ちなさい。そうすれば、また、平和な穏かな毎日を取り戻せるのです。戦うべきは人じゃない。真の敵は魔物である!目を覚ますのです!」
皆、紫の神子を静かに見つめた。しばらくすると、兵士の顔に人らしい感情が戻ってくる。そして誰からとはなく、声が発せられた。
「…紫の神子…我らを救ってくれる紫の神子…。」
「伝説の紫の神子だ!」
「紫の神子!」
「そうだ!我らはもっと強くあろう!紫の神子!」
血の戦場となっていたこの辺りの山一体は悲痛な叫び声が飛び交う血の世界から一斉に明るい光で包まれた清浄な世界へと変わって、紫の神子を賛美する声が途切れることなく山に木魂する。
雅成はその圧倒的な紫織の存在を目の当たりにしながらも王としての役割を果たさんと、自らを奮い立たせて動き出した。雅成はその場にいる兵士の戦気が失せたと認識し、速やかに加陀の陣営へ降りていって、退却するように自ら指揮をとった。彩華も紫織の存在に陶酔するように気を取られていたが、はっと我に帰ると佐久也をつれて、自らの足で田津の陣営に降りていき、退却するように田津の家臣達に言い渡した。紫の神子を名残惜しそうに振り返りながらみな、その場をのろのろと退却していく。その顔は先ほどの憎しみや怒りでゆがんだ形相ではなく、憑き物を落としたように人らしく情を持った顔をしていた。
一通り退却すると、その場には彩華と佐久也、そして離れたところに雅成とその家臣達が残った。雅成は彩華に視線を向けると彩華も気付き、しばらく二人は視線を交えた。そして、雅成が彩華の方に向き直ってゆっくりと馬を進めて近づいていく。雅成は彩華の傍まで来ると、優に180はある体を軽々と動かし、優雅ともいえる動きで馬から降りた。しかし、雅成は視線を逸らすことなく彩華をまっすぐじっと見つめて近づいてくる。彩華はこのとき既視感を覚えた。この感じどこかで…。やがて雅成は彩華の前にたつと、王らしい悠然とした態度で一礼した。
「私は諏佐国の王、諏佐原雅成是親と申す。そなたはもしや日文の…」
「雅成殿」
彩華が雅成がすべてを言う前に声を発し、その場で一歩踏み出してニッコリを微笑んで一礼する。その仕草には女王の風格と生来の上品さと優雅さがにじみ出ていた。
「そう、日文国の女王、日文埜彩華です。雅成殿、はじめてお目にかかります。」
そういって顔を上げて、雅成と再び視線を交える。
「若くて、美しい女王と伺ってはいたが、これほどとは…」
彩華はまっすぐ見つめてくる雅成にもう一度にっこり微笑むと右手を差し出した。雅成はその細く優美な手を受けるように取ると軽く手の甲を唇で触れて、敬愛の表現の挨拶をする。そして、手を離すとすぐに彩華に視線を戻した。
「彩華殿、我らは今こそ、この紫水の地を守るため、手を取り合うあうべきだ。話をする時間をもらえぬか」
彩華はたおやかな、でも、厳しさを含んでもう一度微笑んで頷いた。
「雅成殿。どうやらこの地はいつの間にか神ではなく、魔物に憑かれてしまった様子。我らが争えば魔物の思うツボ。我らは今こそ、手を取り合うべき時。私も同じ思いです。」
雅成も彩華が同じ思いでいることに安堵して、その勇ましい戦士の顔に微笑を乗せる。
「では、さっそく、使者をやろう。」
「ありがとうございます。雅成殿。私はこれより、田津の屋敷にてこの後始末をするのを見届けねばなりませんので、田津を尋ねてもらえると助かります。田津にはこの旨をきちんと伝えます故。」
「御意。では、私もしばらく加陀に留まることにしよう。彩華殿、また会おう。」
そう言ってもう一度笑うと、雅成はもう一度一礼してもと来た道を帰っていった。彩華はその後姿をしばらく眺めていたが、ふと、傍にいる佐久也に一緒に来てと促すように笑顔で頷いくと、すぐに田津の陣営の方に向かって歩き出した。