第46話 諏佐国
カタカタカタ…
紫織はちいさな揺れを身体に感じながら、ふと開け放たれた窓から空を見上げた。今朝目覚めてから何度となく小さな揺れが増えて来ている。しかし、紫水湖にいたときほど大きな揺れはない。紫織は足を庇うように立ち上がり、その窓に近づいくと諏佐の町を見下ろした。一見何事もない平穏でのどかな風景だが、紫織は心配そうな面持ちで町を眺めた。
「我が国の城下町だ。屋敷の中でもここからの眺めが特に美しい」
後ろから耳障りのいい男の声がかかる。紫織は振り向かずに黙って頷いた。
「美しいのどかな風景…。本当にそうならいい…。でも、町には邪気があふれている。小さな魔物が人間の心の闇を作り出し、翻弄する…」
雅成が紫織の背中に問いかける。
「魔物が?」
雅成は背後からゆっくり歩み寄ると紫織の横にならんで自分の城下を眺めた。
「確かに、一見穏かだが、ここ数日で治安は最悪に低下しているようだ。しかも、ほとんどが理由がない。突然、狂ったように襲い掛かったり、自決したり…。これも紫水の魔物のせいなのか…?」
雅成は今度は紫織の横顔に視線を移した。紫織は窓の外を見下ろしたまま、コクリと頷いた。
「町に邪気があふれている…。人の負の思いは増幅されて、町は既に取り込まれている。しかし…、そこには表立って紫水の魔物の動く気配はない。おそらく地下でエネルギーを溜め込んでいるのだろう。地中よりその存在感はますます増してきている。魔物はこの地で確実に力を蓄えているのか、そのエネルギーの余波で小者の魔物が触発されてはびこって来ているようだ。やつらは人間の心の闇につけこんで翻弄し、もて遊ぶ。そしていたぶりながら破滅させていく。悲しみや苦しみを背負った魂がやつらには極上の餌だ」
白く滑らかな肌は幾分青みをおびた白磁のようで、その美しい顔立ちに心を表わす兆しはない。
「紫織殿…」
しばらく雅成はその横顔を心配そうに眺める。
「紫織殿…、体の具合はもうよいのか」
「まだ、自分の体を支えるのがやっとだ。でも、大丈夫。なんとか立っていられる。心配かけたね」
紫織が雅成に振り返った途端、雅成ははっと息をのむ。
「雅成殿、私を町まで連れて行ってはくれないか」
紫の瞳は雅成の瞳をまっすぐに捉え、じっと見据えてくる。雅成はまたこの瞳に釘付けになる。まるで、自分の言うことを誰も拒むはずがないといわんばかりの迷いのない瞳。その瞳の前では雅成は身動きができない。目の前に立つ雅成の腕の中で弱々しく眠っていた紫織とは別の人のように、そのオーラは誰も寄せ付けない威厳を放ち、今は圧倒的な存在感で目の前に存在している。雅成が目を逸らせないほどに強くひきつけられるそのひんやりとした神秘的な双眸は、紫水晶のようにどこまでも深く透明でクリアだった。雅成は大きく息を吸い込み、自分の呼吸を整えるようにゆっくりと吐いた。
「御意。お連れしよう」
その時、雅成は紫織が薄っすら笑みを浮かべた気がした。
「お話中、失礼致します」
30半ばぐらいの長身の男が走り寄って雅成の傍に跪く。
「なんだ。直丞」
その知的でやや神経質そうな眉間にしわをよせ厳しい表情で雅成に告げた。
「今、日文国との国境の山間で加陀一族と日文の田津一族がにらみ合いを続けているとのことです」
「なんと?」
しばらく雅成が何か考える風にその形のよい顎に手をやったかと思うと、すぐに身体を直丞に向きなおした。
「ただちに兵をひけ!王の勅令であると伝えろ。それから、集められるだけ兵を集めるのだ。歩兵は要らぬ。すべて騎兵だ。揃い次第でかけるぞ。戦は起こしてはならぬ。なんとしてもとめる!」
そう廊下に響き渡る声で叫ぶと、場内はあわただしく走り抜ける人であふれかえった。普段はシンと静まりかえる城内にこんなに人がいたのかと驚くぐらい、あらゆるところから人が現れた。
「すまぬ。紫織殿。町は後だ。戦をとめねばならぬ。ここで待っていてくれ」
そう言ってその場を去ろうときびすを返した雅成を紫織は背中で呼び止めた。
「雅成殿!」
雅成が振り返る。
「私もつれていってくれないか。これはただの戦ではない」
雅成が何か言い返そうとするが、一瞬で紫の瞳につかまる。再び雅成は息を呑む。
「…御意。少し急ぐので丁重な扱いはできぬが…」
雅成はそれでも幾分戸惑いを見せた。
「かまわない。どうしても私は行かねばならないようだ」
紫織の言葉に雅成はこめかみをピクッと動かすと紫織の瞳をまっすぐに捉えた。
「何かわかるというのか?」
「いや、ただ…そんな気がしてやまないんだ…」
「そうか…」
雅成は独り言のようにつぶやくと一瞬目を閉じて、かっと目を見開いたかと思うと厳しい顔つきで叫んだ。
「佳澄!紫織殿が外出するぞ!」
「はい!」
佳澄が走り寄って跪く。
「戦場へ出向く」
「え?戦場でございますか。紫織様もですか?」
佳澄は驚いて顔を上げた。無理もなかった。普段は女子供は戦のときにはつれていかないの通例なのだ。
「ああ。すぐに仕度を」
雅成の勢いに圧倒されて、佳澄ははっとしてもう一度床に頭がつくくらいに頭を下げる。
「はい!かしこまりました!ただ今!」
佳澄がそういうと同時に雅成も足早にその場から立ち去った。佳澄は一旦奥へ引っ込むと着物を携えて再び現れた。
「紫織様、こちらにお召し替えを。」
そういって着替えるのを手伝いだす。紫織は驚くほど短い時間で真っ白な着物と袴姿に変わっていた。
そこへ、人の気配がした。
「青按だ。よいかな」
紫織はどきっとした。佳澄があわてて出迎えにいくと、青按がきびきびとした足取りで紫織に近づいてきた。
「お出かけですか。しかも戦場へ?」
紫織は青按の顔を見つめながらも黙って頷いた。
「そうですか…」
青按はそのまま持っていた薬箱に視線を落とすとしゃがみこんで薬を調合し始めた。
「足をお見せください」
紫織がその場にすわって足を差し出すと、青按はやはり何も言わずにくじいたところを診察して手当てを始めた。布をしっかりと巻きつけ足に負担がかからないように固定してくれた。いわゆるテーピングとおなじようなものだった。
「固定しておきましたが、なるべく使わないように努力してください。いいですね」
そういってじっと紫織の顔をみると一瞬ふっと寂しそうに目を細めた。
「では、お気をつけて」
そういって青按は調合につかった道具を片付け立ち上がった。
「あの…」
青按が振り返る。
「あなたは私の亡くなった父に似ている…」
青按はまたじっと紫織を眺めた。そしてやがてふっと笑みをこぼした。
「そうですか。光栄です。きっと貴方の成長を見れば喜ぶと思います。ずいぶん、顔つきがかわった」
青按は安心したような表情を見せると紫織は青按が小さな声でつぶやいたように感じた。
『人を愛しなさい。紫織』
紫織ははっとして顔を上げたときには、青按はもう一度きびすを返してと歩き出していた。