第37話 王気
紫織は雅成の目をじっと見据えていた。
雅成はなぜか、この紫の瞳に見つめられると心をぐっと掴まれたような気分になってどうしても目が逸らせない。
あの神秘的な独特の高貴でひんやりとした美しい瞳に見入られると、なぜか今の自分の姿をみているのではなく、魂の姿を見透かされているようで瞳をあわすのが怖い気さえする。なのに不思議とこの瞳に強く惹かれるのだ。
紫織は紫の瞳の時には独特のオーラに包まれていた。そのオーラが人の気持ちを強く捉えて離さない。
蒼い瞳の時には悲哀に満ちた刹那さのほうが強く感じられるが、紫の瞳の時には人を従えるような威厳や崇高さが加わる。
―この瞳は飾りじゃない。真の王の瞳だ―
雅成はふとそう思った。
そう気付くとそれまで心の中で棘のようにひっかかっていたことをすんなり受け入れられた。雅成は紫織と会った時から不思議な感覚に陥っていて、それがなんなのかわからず戸惑っていたのだ。
雅成はそれまで王となるべく教育を受けてきた。それだけに人に従う気持ちを持つというのはありえなかった。あの時、自国の危機を一心に背負ってまさに命を投げ出そうとするその時に紫織が目にはいった。そしてそんな時なのにもかかわらず、無性に追いかけないといけない気持ちにかられ、無心で追いかけたのだ。追いついてみれば、雅成はこの紫の瞳を見るなり、無意識に跪いて頭を下げた。今までかつて王だった父と神にしか跪いたことはなかったのに、とっさに極自然に行動したのだ。それが、雅成には解せず、心に引っかかっていた。
「水神は神じゃないと?」
雅成は紫織の言葉に疑問をもったが、水神を信じたいものの、この紫の瞳をみつめているとでたらめとは言いがたいものがあった。紫織が目を逸らさず雅成の言葉に頷くと、すかさず話を続けた。
「そう。あれは魔物。やつらの独特の感覚と匂いがある。あれは確かに魔物だ。神なんかじゃない」
「どういうことだ?我らは魔物を祭っていたとでも?」
雅成がわずかに声を荒げる。紫織は首を振った。
「いいえ、200年前までは本物の水神だったはず。その後、魔物が取って代わったのだと…」
雅成が信じられないという表情で紫織がまだ言い終わらないうちに問い返す。
「魔物がとって代わったと?では水神はどうしたのだ?」
「水神は…おそらく封じられている…。きっと…。魔物の影に別のものの感じがある。それがなんなのかまだはっきりとしていない。でも、おそらく水神と呼ばれるここの土地の主ではないかと思う」
紫織は湖があるはずの東の方に視線をやって何かを探るように頭をかしげて眉間にしわを寄せた。
「なんと!水神は生きてこの湖にいるというのか」
雅成は驚きの表情を隠せない。
「そう。魔物は力が勝れば神をも封じ込めることはできるが、消すことはできない。神のもつ力は魔物にとっては毒と一緒。唯一その存在を消すことができるとしたら魔王だけ」
「魔王?」
紫織が一瞬ピクッとするが、なにもなかったかのように平然を装い、頷いた。
「でも、ここに住んでいる水神を装った魔物は力は巨大だが魔王ではないから、水神は封じられているだけだと思う」
雅成はじっと考えるように黙り込んだ。紫織の話を信じるか信じないかを比較検討しているようだった。そして意を決したように顔をあげる。
「水神を助けることができるのか?」
紫織はもう一度雅成に向き直ると厳しい表情で黙って見つめた。そしてしばらく間があって、紫織が口を開いた。
「まだ事情がみえない。詳しく調べてみないとわからない。でも、様子によっては水神を救い出せるかもしれない。少し時間がほしい。それまであなたの命を私に預けてくれないか」
紫織が厳しい表情の中、紫の瞳が一瞬憂いを含んで寂しげな心を映し出す。
雅成はその瞳に瞬間囚われて、声を発することができない。雅成は紫織のささいな一挙一動に心を奪われる自分に今更ながら驚いていた。こんなことは未だかつてない。雅成は紫織にじっと見据えられるなか、なんとか自分を取り戻し、わずかに頭を振って頷いた。紫織はほっとしたような顔をみせるときびすを返し、馬に近づいてもう一度振り向いて顎をあげる。
「あなたの国に」
紫の瞳が戦いを覚悟したように鋭い光を放ったかと思うと、その瞬間、紫織の周りに漂う空気が変わった。その空気は酷く静かなのにずっしりと沈黙するような威厳を放ち、独特の厳かさが漂っていた。この空気は今まで感じたことがないほどに雅成の心を震わせる。これだ。雅成を自然に跪かせる王気。この者の王気は尋常じゃない。雅成は大きく呼吸するとその場に膝を折った。
「あなたは紛れもなく、紫の神子。私の命、神子に預けよう」
そうして二人は、もう一度馬に乗り、紫水湖の周りの道なき道を進んだ。この辺りはもともと人がむやみに立ち入らないせいか道らしい道もないようだった。その上、地震のせいか、地面が割れていたり、地すべりで崩れた土砂や大小の岩がゴロゴロしていて馬も歩きにくそうにしている。紫織を見ると先ほどの威厳は影を潜め、青白い顔をしながら周りの様子を伺っているようだった。紫織は馬に乗った経験はないので落ちないように雅成が懐に包むようにして抱えているのだが、ふれる皮膚からつたわるはずの体温は低くヒンヤリとしていた。
「神子、大丈夫か?疲れたのでは?」
紫織は雅也が耳のそばで優しく囁いたことにビクッとした。
「神子?」
一瞬、聖護の声が聞こえた気がした。とっさに紫織が振り向いたが、そこには聖護の姿はなく、ぼんやりともやがかかった向こうに薄っすらと紫水湖の影が見えるだけだった。
「えっ?ああ、なんでもない。気のせい」
「なにか聞こえたのか」
「・・・大切な人の声。・・・でも、気のせい。ここにいるはずもないから」
そういって寂しそうに笑う。雅也は一瞬心の奥をきゅっと締め付けられた。
「大切な人?」
紫織が頷く。
「そう、私のすべてを支えてくれる存在」
「神子のすべて・・・?」
「私は、弱い。彼がいなければ、自分すら投げてしまっていたかもしれない」
「神子が自分を投げる?」
紫織はもう一度寂しく笑うと雅成を見上げた。
「私は、いつも自分の宿命の大きさに押しつぶされそうになる。そのたびに彼の存在が私を支えてくれる。今でもそう。今のは自分の心がきっと彼を求めたことが聞かせた幻聴」
紫織は不思議だった。心の内を誰かに語ったことなどなかったのに、今、雅成の問いに自然に答えている。聖護を大切な人といい、素直に聖護の存在を求めている。紫織は離れて自分ひとりになったことで、聖護の存在が大きく支えになっていることを感じていた。異界でこの先どうなるのかもわからない状況の中で、落ち着いて自分を保っていられるのも聖護のおかげだった。聖護のことを思うと、なぜか安心して自分らしく強くいられる気がするのだ。目の前にいないはずなのにこちらにきてからもずっとすぐ近くにその存在を感じていた。紫織は深く息を吸う。ふと紫織を抱えるようにしていた雅成の腕に力がこめられる。
「羨ましい。いや、違う・・・、その男が妬ましい・・・」
雅成は少し寂しそうに目を細める。
「私は物心ついてから諏佐の王となるべく、育てられた。誰もが私に頭をさげ、跪く。父や母が生きているころはまだよかった。二人とも次々と病で亡くなって、即位してからはそれまで心の奥でくすぶっていた孤独感がやけに強く私の前に立ちはだかるようになったのだ。何万もの民の人生を背負うことの重さは計り知れないものだった。それでも、私は命をかけて民を守ろうと突っぱねてきた。神子、私は貴方に会って本物の王とはどんなものなのか知ったのだ。貴方こそ、真の王です。貴方は王という重責に振り回されてやっきになっている私の目の前に現れて、いとも簡単に命を捧げる決意を捨てさせてしまった。私は自分の命を投げ出すよりほかに民を守ることができないと思いこんでここまで突っ走ってきた。なのに貴方を見つけた途端、すべてを忘れた。王としての立場もかなぐりすてて貴方を追いかけずにはいられなかった。貴方はきっと私の運命を変える…。神子・・・、貴方は不思議な人だ。まだ会ったばかりなのに、私が王と言う立場を捨ててでも傅きたいと思わせるほど、私の心を震わせる。そして、民の命がかかっているというのに、貴方が言うことならできるかも知れぬと信じられる。それが、不安の中どちらかにかけるような賭けではなく、なぜか確信にも似た安心感がある。会った瞬間から貴方が王であると認め、貴方になら大切なものすべてをかけてもいいと思えるほどに、今、貴方は強烈に私の心を占めている。どうか、このまま私の傍にいてはくださらないか」
そういって紫織を大きな体で包むように抱きしめた。紫織は暖かくたくましい雅成の腕の中で、しばらく目を閉じてじっとしていた。ふと、はっとして目を開けると雅成に声をかけた。
「雅成殿。ちょっととめてくれないか」
紫織の様子が何かに気付いたようなそぶりだったので、雅成は抱きしめていた腕の力を弱め、手綱を引き寄せ馬を停めた。紫織がさらに紫水湖の方を見て何かを探るような表情をした。
「なにか、あるのか?」
「・・・今、わずかに何か感じた。魔物の影に潜むもうひとつの存在。か細く薄いけれど…。雅成殿、この傍にたとえば神を祭っているとか、神に関わるなにかがある?」
「神・・・」
雅成が記憶をたどる。そしてはっと気付いたように顔を上げた。
「ある。昔、神が現れたという場所が。そこには確か祠のようなものが建っているはず」
「案内してもらえないか」
紫織はまた再び大いなる威厳を放つ王気を纏って強い眼差しを雅成に向けた。