第34話 水神
雅成が馬に戻ると、先ほどから後ろを追いかけてきた者たちが雅成の馬を取り囲んで待っていた。そして雅成が紫織を抱いているのを見て一様に驚いた表情を浮かべた。
「雅成様?…その者は何者ですか?」
中でも年長者らしき男が雅成の前に一歩進み出て尋ねる。雅成はちらっとその男に目をやったがすぐに腕の中で眠る紫織に視線を落とした。
「直丞、我らは救われるかもしれない…。この者はおそらく…紫の神子…」
雅成が真顔で紫織を見つめたまま言った。
「なん…、まさか…!暗黒の世に現れると言う紫水の神の御子か?」
直丞はその冷淡で知的な顔ににあわない驚きの表情をうかべた。雅成は黙って頷いた。
「この者の瞳は私がかつて見た紫水湖とおなじ紫の透明な光を放っていた。それにこの辺りは我ら王族以外は立ち入ることができないところだ。こんなか細い女の身で忍び込んだとは到底考えられない。この見たこともない着物といい、この肌や髪の色といいこの諏佐や日文の人にはおらぬからな。神がこの世に現れたとしか思えぬ」
そう言って雅成は顔を上げて、自分よりも年上であろう従者たちの顔をじっと見つめた。威厳のある顔つきのその瞳には確信めいた自信を映し出す。周りがじっと雅成のその姿を息を呑んで黙って見つめた。沈黙を暗黙の了解ととった雅成は従者たちの輪を割って抜け、自分の馬へと近づいた。そして先に紫織を馬に乗せると自分も乗り上げ、自分の懐にしっかり抱えた。
「紫の神子、しばし辛抱してくれよ。一刻を争うのだ」
そう言うと紫織が雅成にしっかり捕まっているのを確認すると手綱を引いて走り出した。
程なく、地が鳴りはじめた。
ゴオオォ…
ドドドド…
「うわあーっ!地震じゃ!」
ヒヒーンッ!
馬が暴れだす。
「待て、落ち着け!慌てるでない!」
雅成の馬も驚いて前足を上げて、二人を振り落とさんばかりに体をひねる。雅成は腕に紫織を抱えながらも強引に馬をねじ伏せようするが、馬も本能的に危険を感じて気が動転しているせいか、おさめるのは容易じゃない。雅成は汗をほとばしらせながら、叫んだ。
「皆の者、落ち着け!馬を押さえろ!振り落とされるぞ!」
なんとか自分の馬をコントロールしながら、従者へ声をかける。
「雅成様!」
直丞が馬に振り回されながらも頭上を見て叫んだ。それに雅成が反応して頭上を見てはっとした。地すべりだ。危険を感じてとっさに紫織を抱えながら馬を強引にねじ伏せて森の奥へと逃げ込んだ。
ゴオオォ…
凄まじい轟音とともに雅成のすぐ頭上に土砂が降ってくる。
「わあーっ!」
雅成が土砂をまさにかぶろうとした瞬間、馬ごと紫の光に覆われた。
「えっ?」
雅成が馬を走らせながら懐に動く気配を感じて紫織に視線を落とした。そこには眠っていたはずの紫織が右手をかざして紫の光で防御壁を作っていた。白磁のような肌に透明で澄んだ紫水晶のような瞳がくっきり光を放っている。雅成は土砂が振ってくる中、馬を必死に走らせながらも、目の前で起こる不思議な現象に目を奪われていた。
「やはり…紫の神子…」
雅成は心の中でつぶやいて、轟音の中をひた走った。
雅成が振ってくる土砂の中を抜けきる同時にと大地の動きは止まった。雅成は手綱をひきよせ馬を停めて振り返る。しかし、従者達の姿は見えず、道はふさがれていた。辺りは不気味なほど静寂が広がっている。
「東へ」
ふと、紫織が何かを感じているようなそぶりで東の方向へ紫の瞳を向けた。
「東?東に何があるというのだ?」
「東に何か大きな存在を感じる。酷く近くに…」
「東には紫水湖がある。このすぐ傍だ…。何か大きな存在?紫水湖の水神様のことか?」
「水神?」
紫織の細い眉が片側ややつりあがる。
「ああ、ここには水神様が住んでいる。この地の神でもある」
土砂の中を抜けきった雅成がやや呼吸を乱しながら言った。
「神…?」
紫織は一瞬訝しげな顔をするとそのまま押し黙った。そんなはずはない。この感じ、この匂いは確かに魔物…。しかし、おかしな感覚だ。それだけではない存在も感じる。紫水湖に何があるというのか。
「東に何かがあるというのだな。とにかく先へ行こう。私も紫水湖に向かっていたのだ。直丞達が心配だが、この土砂では戻れはしない。一刻を争うのだ。前へ!」
そう言って馬の向きを変えて紫水湖に向かった。
紫水湖に近づくほど、圧迫するような独特の魔物の気が強くなっていった。しかし、その一方でもうひとつなにか感じるのだ。弱々しいが確かにもうひとつの存在がある。紫織は馬に揺られながらじっとその気を拾おうと目を閉じて神経を集中させていた。
「ついたぞ。ここからは馬がはいれない」
紫織がはっとして目を開けると、雅成は馬を停めて先に馬から下りて、紫織に手を差し伸べた。紫織はその手に応えて身体を預けると雅成はなんなく紫織を抱きかかえておろした。そして一歩さがって紫織の前に跪いた。
「紫の神子。数々の無礼をお許しを」
紫織に頭を垂れた。
「私はこの先に行かねばならない」
雅成は漆黒のような深く黒い瞳をまっすぐに向けて険しい顔で紫織を見つめた。
「紫の神子よ。この馬で私の国へ向かってくれないだろうか。この湖を回れば諏佐の国への入り口にたどり着ける。行き先はこの馬が知っている。皆が神子を心待ちにしているのだ。これより1人で不自由をさせるが、私はもう戻ることはかなわない。最後の願いと思って聞き届けてはくれぬか」
雅成は真顔で紫織をじっと見つめる。覚悟しているようなそんな悲しい瞳だった。
「どういうこと?」
紫織は雅成の様子がおかしいと訝しげに雅成を見返した。
「神子にもっと早く出逢いたかったものよ。私は今日、生贄としてこの湖に身を沈めるのだ。」
雅成はまだどこか少年風の若々しさを残した顔で寂しそうに目を細めると、紫水湖のある方を遠く見つめた。
「生贄?」
「ああ、そうだ。毎年1人の成人前の民を、そして60年に一度、その時この地を収める王は自らの身をこの紫水の神に捧げるのだ。それが今日なのだ。今のこの諏佐国の王は私だ」
「紫の神子って…?」
紫織が聞き返すと雅成は驚いて再び振り返った。
「そなたは紫の神子…ではないのか?」
紫織が残念そうな顔で首を振る。
「私は、異次元の世界から飛ばされてきた者。ただの人。神子では…」
「そんなはずはない。では、そなたのこの紫に光る瞳やあの不思議な光を帯びた力は…?」
雅成が必死に紫織に食い入るように迫った。
「あの力は…」
紫織は少し寂しそうな表情で視線を地面に落としてすぐに雅成の顔を見た。
「私にはこの世に生を受けた時に神より課せられた宿命がある。そのせいか、私はあのような力を持つことになってしまった…」
「何?神より課せられた宿命と?」
紫織が頷く。
「まこと、そなたは紫の神子。間違いない。神よりこの地に使わされたのだ」
雅成は紫織の目を見て大きく頷いた。紫織が紫の神子であると信じて疑わないようだ。
「そんな…私は決してそのようなものではない。ただの異界の者」
「いや、この夕刻までに身を捧げねば、この地に最も恐ろしい水神様の崇りがあるところ、先を急いでいたというのにそなたの存在に憑かれるように導かれた。体が自然に動いたのだ。そしてこの紫の瞳を見た。神が導いたに違いない」
「でも、神は…紫水の神は人の魂を取ろうとしているのに、なぜ、神子をあなたの元に送るのか?矛盾しているのではないか」
紫織が眉間にしわを寄せてやや厳しい顔をして雅成を問い詰めると雅成はしばらくの間押し黙っていたが、大きくため息をついてゆっくりと立ち上がった。
「その昔はこんなばかげた習慣はなかったのだ。毎年豊作を願い、春と秋に水神様を民とともに祭ることで平和で穏かな暮らしができたと聞いている。街は栄え、人口も増え、文化も向上した。隣国日文とも仲が良くて、今のように争うどころか王族同士が深い親交を持ち、人々も交流が深かったと聞いている。ところが今から200年程前、紫水がかわったのだ。もともと透き通った水の美しい湖で、諏佐と日文に多くの恵みをもたらしてくれた。しかし、ある時、紫水湖の水は紫に変化してしまった。その時から、諏佐と日文に災いがもたらされるようになったのだ」
「災い?」
「そうだ。来る日も来る日も雨が振り続けて農作物が全滅したり、ずっと日照りが続いて干ばつになったり、一年中うだるような暑さに見舞われたり、逆に一年中雪だったり…。おかげで農作物はわずかしか出来ず、飢えて死んでいくものや病気を患うものが絶えない。日文も同じでいつしか互いに反目してわずかな食料を求めて争うようになってしまった。さらに街には悪霊に憑かれたかのように狂う者もあとが絶えない。我らの先祖は、水神様の撥が当たったのだと水神様の怒りを納めるために生贄を差し出したのだ。そうするとその年は穏かな一年となった。それから毎年国の息災のため、生贄を捧げるようになったのだ。しかし、60年たった時、今のように大地震が起きて多くの人々が震災したのち、今度は大雨で大洪水に。
さらに多くの人の命が失われた。神官が神に問い合わせたところ、その国の王が生贄となれば静まるという神の言葉を聞いた。それから、60年目になるとかならずこのようなことが起きる。先ほどの地震は水神様の怒りなのだ。早く水神様の気を収めねば、私の国の民の尊い命が奪われる。それでは、紫の神子、諏佐の民を頼む」
雅成は地面についた手を力いっぱいぐっと握り締め、頭を垂れて紫織に請願する。紫織はその姿を悲しそうに眺めながら、大きく息をはくと、その場にかがんで雅成と目線を合わせて、低い声で吐き出すように言った。
「紫水の水神は神なんかじゃない」
雅成はその言葉に驚いて顔を上げた。
雅成の事情を知り、とうとう本当のことを明かした紫織。次回は残されたデュリンと七海の話です。しばらく3場面展開が続きます。よろしくお願いします。