第32話 亡者の世界
暖かくやわらかい風が肌をなでていく。まるで春のひだまりに抱かれているような気さえする。紫織は心地よさにぼうっとしていた。ふと、初夏に香る若草が放つ強い青臭い匂いが強烈に紫織の鼻を刺激した。その中にかすかにフレッシュでほのかに甘酸っぱい香りが鼻をかすめていくのに気付き、春の芽吹くみずみずしさの混ざるさわやかで澄んだ空気を思い切り深く吸い込む。鼻から入った空気は体にじわじわと染み込んでまるで体の中が浄化されていくようだ。紫織はうつろな意識の中で自分は夢の中にいると思いこんでいたが、やがてはっとして目が覚めた。
「うっ…」
その瞬間、太陽の光に不意うちされて、まぶしくてもう一度目を閉じる。そして今度はゆっくり目を細めながら少しずつ視界を取り戻していった。
何処…?紫織はぼんやりと見えてくる光景にやや目をしかめるようにして焦点をあわせていく。そこは見覚えのない景色だった。どうやら森の中らしい。紫織は体を起こすと、柔らかくひんやりとしたものに手が触れているのに気づいた。草だ。紫織は生い茂る草の上にいた。
まだ若い草は柔らかくしっとりしていて弾力もあって気持ちいい。紫織は改めて周りを見回す。森の奥深くなのか、人らしい気配は見つけられない。辺りは鳥がさえずり、時折バサバサっと木から飛び立つ羽の音がする。紫織は辺りの様子を確認しながら、とりあえず身の危険がないとわかるとぼんやりとした記憶をたどる。
確か…、聖護や七海たちと修二の様子を見に行って…、そうだ、修二の家に凄まじい数の亡霊たちがあつまってたので聖護と様子を見に家の中に入ったのだった。二階の奥の部屋が妙に気になって入ると、どうやらそこには骨董品や美術品が治められている部屋だった。その中にひときわ強烈な気を発する一見日本刀のような立派な鞘に収まった刀があった。波動はそれによって起こされている様で、その刀の周辺が波動の中心だった。紫織がその波動の中心部に近づいた途端、急に強い力に吸い込まれるように巻き込まれて、意識をかき消されるような感覚にかられたのだった。それから気づいたらここにいた。
いったいここは?紫織はもう一度あたりを確認して耳を澄ます。ふと、遠くから音がした。なにかがバタバタと駆けてくるように一定のリズムを刻み徐々に近づいてくる。紫織は恐る恐る音のする方へ近づこうと動きだす。少しかがんで姿が木に隠れるように警戒しながら進むと、地面がゆるく傾斜してくるのに気づいた。紫織は足元に注意しながら少しずつ前に進む。
何かが駆けてくるような音はさらに近づいてくる。どこかで聞いたことが…。馬?大地を蹴り上げてせまってくる感じ…。 そんな気がした。でも、まさか…。
紫織は先へ進んでいくと、急に目の前が開けた。紫織の足下は急傾斜になっていたのだ。そのままいくと転げ落ちそうな気がして、思わず立ち止まる。そしてそうっとその先を下に望んだ。
深い森だが、車が一台余裕で通れるぐらいの道が下のほうから蛇行して続いている。もちろん舗装されてはいない。その道に沿って多くの蹄のような音が近づいてくる。紫織は側の木に隠れるようにして確かめようと目をこらした。
「雅成様!お待ちくださいませ!危険でございます!」
大きな声がとぶ。 するとものすごい早馬で猛突進してくる人影が視界に入ってきた。
「お待ちくださいませ!今ひととき!雅成様!」
「うるさい!かまうな!このままじっとしてなどおれぬ!」
森の中を荒々しく叫ぶ声が響き渡る。紫織はじっと息を潜めて見つめた。そして馬に乗っている男達の容貌に驚いた。武者風で兜こそつけていないが、鎧のようなものを纏い、長い髪は後ろで束ねている。
「まさか…!」
紫織は緊迫して血の気が引いていった。その姿は修二の家を巣食っていた亡霊たちと似ている…。あせって紫織はもう一度辺りを見回す。周りの木も土も草も確かにそこに存在する。そこから発せられる気はいつも森の中に入ると感じる気となんら変わらない。確かに森すべてが息をしている。空を仰いで見た。深い木々の隙間から覗く眩しいほどの青い空は、確かにこれまで見てきた空となんら変わりはなかった。さらに自分の体に触れてみる。腕も肩も確かに感覚がある。ここは現実…。
早馬の男達がさらに近づいてくる。紫織の立っているところから100メートルぐらい下に差し掛かって、はっとして近くの木の影にさらに身を隠くそうとした。その一瞬、前を走る馬に乗った男と目が合ったような気がした。男は急に走らせていた馬の手綱を引っ張った。馬は急に引っ張られたためか、前足を高く上げて荒々しく雄たけびを上げると前へ前へとかけられていた負荷を散らすように体を振ってなんとか止まり、ぶるぶるっと音をたてて頭を振りながら鼻から息を荒々しく吐き出した。すると、武者風の男はすぐに馬からとび下りて紫織のほうに向かって急斜面を駆け上がってくる。紫織は、驚いてその場から逃げ出した。心臓が破裂せんばかりに激しく胸を叩く。走っているのに全身から体温が奪われていくかのように首の後ろから背中へとひんやりとした空気が張り付いてくる。体が思うように動かない。それでもとにかく、道じゃない道を紫織は夢中で走った。しかし、背後から武者風の男が徐々に近づいてくる。
「待て!待たぬか!」
後ろから濃くて通るハリのある声が後ろから紫織の追い詰められた気持ちを更に煽る。紫織はどこをどう走っているのか、自分の体がどう動いているのかすらわからないほど、夢中で逃げた。息は切れ切れで、呼吸すら出来ないほどに苦して胸が痛い。男は息遣いがわかるほどにすぐ傍まで迫っていた。紫織はさらに緊迫して手足は思うように動かず、だんだんふらついて躓きそうになる。それでも、酸素不足で動きが鈍く重くなる体に鞭打って無理やり走り続けていた。しかし、ついに足元を這う蔦に引っ掛けて思いっきり地面に突っ伏した。
「ああっ!…っつ…」
それでも、必死で立ち上がろうとしたがその時足に鋭い痛みが走った。
「うっ!」
男がすぐに追いついてきたので、それが視界に入ると驚いて細く白い手で体を引きずるようにして強引に立ち上がろうとしたところを、肩をつかまれた。
「待て!待てというのにわからぬか!」
紫織が反射的に振り向いて目が合う。
「え…?そなた…?紫?…紫の神子…か?」
男はよく日焼けした肌に負けないぐらいくっきりとした眼は鋭く真っ黒だった。野生的で荒々しい風貌なのに、端正でどこか品格のある顔立ちに驚きの表情を浮かべている。しばらくあっけに取られた風に紫織を凝視していたが、紫織の震えながら怯えるそぶりにはっとしてすぐに肩をつかんだ手を離した。紫織はとっさに男から離れて体を小さく丸めて男から顔を伏せる。男はすぐに居住まいを正して、跪きうやうやしく頭をたれた。
「これは失礼を!その紫の瞳…。そなたは真に伝説の紫の神子なのか?暗黒の時代に現れるという紫水湖の神の御子なのか?」
紫織は驚いて男の顔をもう一度振り返る。紫の神子…、そう言えば修二の家で見つけたあの家の主に憑いた亡霊が紫織を見て縋るように見つめて言った言葉だ。どうやら、本当にあの亡霊たちの世界に取り込まれてしまったらしい。紫織はそれを理解すると、厳しい顔で男の顔を見据えた。鼻梁が高くハッキリした顔立ちは引き締まって研ぎ澄まされた野性味を強調していた。真っ黒で臆することなく紫織を見つめてくる感じは聖護によく似ている。自分よりもいくつか年上に見えたが、成人した男には見えなかった。人を従えることを知っている風の尊大な印象は受けるが、まだ少年っぽく若々しさがあふれている。紫織がじっと睨むように男の顔を見つめて黙っていたが男は話を続けた。
「私はこの地を治める諏佐原雅成是親と申す。そなたは名はなんと申す?」
そう自分を名乗る男の目には敵意はなく、慈愛を感じるような優しさが垣間見られた。紫織は少し警戒を解いて男に向き直った。
「私は紫織」
「紫織殿か」
男は嬉しそうな表情で紫織に屈託のない笑顔を向ける。あのまっすぐ見つめてくる瞳だけではなくこんなところまで聖護に似ている。だからなのか、得体の知れない男につかまえられて、本当なら不安と緊張で振るえが止まらないはずなのに、なぜか、この男は安心できる気がした。そうだ、日頃何を言うわけでもなく、聖護がいるとなぜか安心できるのだ。聖護の漆黒のような瞳は仮面の下に隠された奥に潜む紫織の本当の姿を常に見ている、そんな気がするのだ。思いのほか、聖護が自分の中で支えになっていることにこんな時に気付かされる。
「紫織殿、足…。脅かしてしまったようだな」
そういって男は申し訳なさそうにそのやや堀の深い美しい形をおりなすまぶたを伏せ眼がちにしてその瞳は紫織の細い足にむけられた。制服のズボンの下から伸びる足首は白いソックス越しに赤く血がにじんでいる。紫織は今の今までその事実には全く気付かなかった。言われてはじめて自分の足に眼をやる。先ほどの鋭い痛みはこの所為だった。
「紫織殿、申し訳ないが、取り急ぎ今は大事な用事がある。とりあえず、私と来てもらえないか」
そういうと有無を言わさず、紫織に近づいてそのがっちりとした大きな体で紫織を抱きかかえた。
「なっ…?」
「心配などいらぬぞ。取って食うわけではないからな。くじいたその足ではどこへも行けぬだろう。手当てしてやりたいが、いかんせん時間がない。聞きたい話もたくさんあるのだが、今は先を急ぐのでな。一緒に来てもらうぞ」
男は少し笑って紫織が男の行動に驚いて面食らっているのに気付いて声をかけてくる。男の胸に抱かれてその口から紡ぎ出される言葉は荒っぽいが、なぜか耳障りがよく響きが心地よかった。それでも、立ち止まらずに軽々と紫織を抱きかかえたまま元来た道を戻っていった。紫織ははじめは困惑した表情で男の顔を見つめていたが、やがて諦めたように男の体に身をゆだねた。極度に緊張して未だかつてないくらいに山道を夢中で走ったため、男の呼吸の音や歩く度にゆれる振動とそのたくましい体に纏う鎧の擦れる音が規則正しく繰り返されると、紫織はぼうっとしてきて意識が薄れてきた。紫織はいつの間にかまどろむ意識の中で、夏の合宿の時のことを思い出していた。あの時、傍で感じた聖護の温もりと息遣い…。傍にいるだけでこんなにも安心をもらえる。聖護…。どこにいる?そうつぶやくと紫織はふっと意識を手放した。
亡者の世界に取り込まれてしまった紫織。聖護は?次回は聖護のその後です。