第28話 不思議な妖精
それから一週間が過ぎた。紫織ははじめに和沙の様子を知ろうと2日は学校を休んでずっと傍にいた。しかし、知れば知るほど紫織は和沙の様子に疑問が湧いてくる。彼は物を知らなさ過ぎるのだ。記憶がないのか?それにしても、不可思議なことが多い。赤子のようにまるで何もしらない。3ヶ月の間に修一郎に教えられたこと以外は見るものすべてが初めてで、何か見るたびにあれはなんだとたずねてくる。本当にまっさらなのだ。これでは社会生活どころか、1人で外へ出すことすらできない。
さらに和沙は言葉を話さないので会話ができない。もっぱら精神感応によるコミュニケーションしかできず、今のところ紫織しか話ができない。声がでないのかと思ったら、時折、転んだり、ぶつけたりととっさの時に声を発したりする様子から、どうやら言葉そのものと言葉の発し方をしらないだけらしかった。正常な子供なら親の見よう見まねでいつの間にか話すようになっているものだが、記憶喪失でも話すことぐらい出来そうなものなのに、和沙の場合、健康状態に異常はないはずなのに話すこと自体できない。
まだまだ和沙の異質さは他にもあった。人間と体の構造は同じはずなのに食事をほとんどしないのだ。食卓では周りを見て少しは手をつけるのだが、口に入れて不思議そうな顔をする。そしてしばらくは周りにあわせているのだが、満腹になった子供のように飽きると食べるのをやめてしまう。それからしばらくは興味があると少し口にいれるのだが、興味がないと何も食べない。こんな様子だから和沙の体を心配したりもしたが、食べるどころか、トイレに行く様子もない。和沙は人間の生理的な欲求である食事や排泄といった行為をしないのに、こちらに来てから、日に日に顔色もよくなり元気になって行った。
また、和沙は明るい時間はよく外に出たがった。朝起きると庭に出てゆっくりと過ごす。紫織も朝は早くからよく庭にでるので部屋に呼びに行かなくても自然に出会う。そして午後も庭で過ごすことが多かった。和沙の姿が見えないときは庭に行けば必ずといっていいほど見つけることが出来た。よっぽど外が好きらしかった。それ以外は、部屋の中で外をじっと眺めていて身動きひとつしない。紫織ははじめ、和沙が記憶喪失なのかと思っていたのだ。こんな風に一緒いて様子を探れば、何か和沙のことを知る手立てが見つかるかもしれないと思って預かったのだが、2日間一緒にいて、そんな次元の問題ではないことを悟った。和沙が、なぜこのような状態になっているのかは皆目検討もつかなかったが、何者であるにしろ、この世界で生きていくには、一般的な社会生活が出来るように物を教えなくてはいけないという思いに駆られた。
紫織はその次の日から、アビスとデュリンに和沙のことを頼んで昼間は学校へ行った。和沙は初めて会ったときに、紫織に笑いかける以外、常に無表情で総真や律にまったく興味をしめさず無反応だったので昼間1人にするのを心配していたのだが、アビスやデュリンにはどうやら違ったようで、笑顔こそみせないものの、アビスが近づいても拒む様子はなく、むしろ自分から手を出してアビスと交流しているようだった。そしてデュリンには、面白がってつついたり尻尾や耳を引っ張ったりと、いたずらするほど思いのほか興味を示した。ただ、デュリンは迷惑そうな顔をして戦々恐々としていたのだが…。
紫織は学校が終わるとすぐに帰ってきて、和沙の顔を見て異常がないと確認すると、今度はアビスとデュリンに一日の様子を聞いた。その後、食事の時間まで紫織は和沙に勉強を教えた。幼児にするように、絵本で生活のことや動物・植物・虫・車・建物などを教える傍ら、数や言葉も教えていった。
「和沙、君の名前だよ。声に出していってごらん」
『かずさ』
紫織の頭の中に和沙からの声が聞こえた。紫織は困ったような顔で赤子に話すようにたしなめた。
「和沙、それは僕には通じるけど、他の人には通じないんだよ。今僕がしているみたいに声を発してごらん。ほら、か・ず・さ。ここを震わせるんだよ」
そういって紫織は和沙の手をとって自分の喉に当てた。和沙はグリーンの目ときょとんと見ひらいて紫織を見つめる。
「ほら、まねしてごらん」
紫織が和沙を促すように蒼い目でやさしく見つめ返す。
「か・ず・さ…」
「そうだよ。和沙、よく出来たね。そうやって声と言うものを発して話すんだ。おじいさまにいろいろ言葉を教えてもらっただろう?こんどは僕の名前。僕は紫織。いいかい?し・お・る」
「し・お・る」
「そうだよ。上手だね」
紫織が笑顔で応えてやる。
和沙は記憶力がいい。スポンジみたいに紫織が教えることを吸収していって、1週間たつ頃には3歳児並に言葉を話すことが出来るようになっていた。他に紫織は字や計算も教えた。和沙は昼間は庭でアビスやデュリンと過ごし、夜になるとずっと紫織に教えられたことを熱心に勉強していた。そうして1ヶ月もすると、5、6歳児ぐらいの知識レベルで会話も可能になっていた。紫織は涼子を呼んだ。体のことに関してはいくら紫織でも教えられないからだ。それに特異な体でもあるだろうから、涼子に一度見てもらいたかったのだ。
「へえ。これが噂の和沙くん?綺麗な子ね。驚いたわ。なんか、すける感じっていうか、透明な…、うん可憐な花みたいな感じね。男の子ですって?見えないわね」
涼子が尋ねてきて和沙を一目見るなり目を丸くしている。和沙に近づいて顔を覗きこむとグラビアアイドル級の笑顔を向けた。
「こんばんは。和沙君。私は諏訪涼子っていうのよ。あなたの健康管理を任されたの」
「けんこうかんり?」
和沙はきょとんとして涼子が言った言葉を繰り返した。
「そうよ。健康管理。私は医者なのよ」
「いしゃ?」
涼子はニッコリ笑って頷いた。
「そう、お医者さん。涼子先生って呼んで頂戴ね」
和沙はコクリと頷いた。
「りょうこせんせい。」
「そうよ〜。よくできました♪」
涼子はまんまるに見開かれた和沙の目に見つめられて名前を呼ばれたので、酷く機嫌がよくなったのか、嬉しそうな顔をしてまた笑った。
「あなたの身体をみせてもらってもいいかしら?悪いところがないか調べたいの」
和沙はじっと涼子をみつめたままこくりと頷いた。
診察の後、和沙はアビスやデュリンと一緒に部屋に帰っていった。残った紫織と総真に涼子は自分の見解を伝えた。
「おかしいわね。何も食べないんでしょう?」
涼子はため息をついた。
「体の構造は他の男の子とどこも違わないわ。体調も悪そうなところはないし。体温だってやや低めではあるけど、正常だし。本当にどこも悪そうなところはなかったわ。血液も取ってみたから、明日研究所にいって調べてみるわね。あ、でも、注射は初めてだったんでしょ?大先生に聞いてきたんだけど、点滴はしたけど、注射はしてないといってたもの」
「それが何か?」
じっと話を聞いていた総真が聞き返した。
「うん、普通ね、注射がはじめての子は怖がるのよ。まあ、もちろん、初めてじゃなくても嫌がられるけどね。毎回泣く子供もいるもの。なのに、和沙君は、微動だにしなかったのよ。じっと注射針を見つめていて、針をさしたとたんいたそうな顔をしたの。珍しい反応だったわ。まるで針のようなものがささると痛いってしらないみたいなそんな反応だったわね。」
「そうなんだ。やっぱり…。電話で5、6歳児と話すつもりで接してほしいと話したと思うけど、実は和沙は本当に何もしらないんだ。というより赤子のように真っ白だったんだ。こっちに連れてきて1ヶ月であそこまで成長したんだ」
「え?そうなの?記憶喪失とかじゃなくて?」
「わからないけど、初めは僕もそうだと思った。でも、一緒に暮らすうち、本当に真っ白でなにも知らないってことがわかってきたんだ」
「そう…。知能が遅れてるってことは?」
「彼はすごい勉強熱心で吸収が早いんだ。驚くほどのスピードでいろいろなものを身につけていくんだ。だから、知能が遅れているということもないと思う。逆にものすごくいいかもしれない」
「そう…。その辺も調べる必要がありそうね」
紫織が涼子の言葉に頷いた。
「僕は今勉強を教えてるんだ。生活一般のことは律や総真が教えてくれてる。だから…」
「わかったわ。体に関することは私が教えろってことね」
そういって紫織にウインクして返す。紫織は頷いた。
「よろしくお願いします」
そういって紫織は頭を下げた。涼子はその様子に目を見張った。こんな紫織は見たことがなかったのだ。今までは、一応の礼は尽くしてきたが、なんだか今日はいつもと違う。気持ちが入っている。涼子はニッコリと笑って紫織に声をかけた。
「やあね、水臭いわ。私はあなたの主治医でもあるけど、お姉さんのつもりでもあるのよ。いつでも頼って頂戴」
紫織はその言葉に薄っすらと微笑んで返した。その晩は涼子も一緒に食事をしてしばらく総真と話しこんでいたが、調べ物があるからと早々に帰っていった。
和沙は何者なのか。
そんな彼らの前にまたもや事件が…。