<第4章 神の存在> 第27話 冬の妖精
11月も終わる頃、冬の影が少しずつその存在を示すように冷たい北風が秋の名残の暖かい空気を追いやるように、時折強く吹き荒れた。ここのところ何度か暖かい空気と南下してくる北風との争いで、初冬の嵐がいくつかやってきた。先程まで強い風と雨で激しくたたかれていた木々は紅葉を待つ前にその葉を散らし、痛々しい雰囲気をかもし出している。目の前に広がる光景はかすかに色づき始めた葉が濡れた地面に張り付き、幾分沈んだ雨上がりの風景を描写していた。
聖護は、下校の途中いつものように病院棟に向かっていた。雨上がりのやや湿気を含んだひんやりとした空気が心地よく、嵐の後の風景を見ながらのんびりゆったりとした気分になる。
ここのところ聖護は毎日気分が良かった。紫織が当たり前のように聖護の傍に居るようになったからだ。最近の紫織の変化は目覚しいものがあった。以前は厳しく無表情だったその顔に穏かに少し微笑む表情が頻繁に見られるようになっていた。七海も以前より、紫織に対してどこか構えて警戒するような態度がなくなり、気軽に話しかけるようになっていて、最近では時折、聖護がむっとするほど七海は紫織に随分心を開いていた。紫織もまんざらではなく、自然に受け入れているようだった。
周りの同級生も以前に比べると、紫織を敬遠するような態度はなくなり、時折話しかけているのを見かける。ちょっと前まで1人浮き上がっていた紫織に聖護は何かと気がかりだったが、ようやく紫織の方も少しずつではあるが、周りに心を開きだしているようで聖護は少しほっとしていた。
ただ、何よりも、嬉しい変化と言えば、最近紫織が聖護に自分から話しかけてくることだった。少し体調のことや、心に思っていることもぽつりぽつりと話してくれる。聖護は、夏の合宿以来、どことなくまた紫織が心を閉ざしかけて不安に感じていたが、最近は、以前にも増して、紫織を近くに感じるようになっていた。紫織にとって一番近くにいるのが自分だと思うと聖護は酷く満たされて、気分は爽快だった。
病院の敷地にはいって、聖護は気分がいいのでまわり道をしようとロビーのある建物の裏手を回り、林を横切って母がいる病室へ向かおうと足を進めた。林の中に入ると周りの木々に目を奪われる。黄色く色づきかけた銀杏が大量の葉を広げて並々と立ち並ぶ中に、少しずつ赤らんできている楓がちらほら目に入ってくる。もう少しするとここの景色は目にも鮮やかな色とりどりの紅葉の競演がみられるだろう。
紫織にも見せてやりたいと思い、ふとその先へ目をやった。聖護は思わずその場に立ち止まって息を呑んだ。そこには、車椅子に乗った自分より少し年下に見える少女が何かを集めているかのように周りの木々に手を伸ばし、恍惚としたなんともいえない美しい微笑を浮かべていた。その様子はまるで背中に羽が生えているかのように妖精のごとく今にもとふわっと飛び上がりそうな雰囲気だった。
聖護はその様子に釘付けになった。なぜか、ふつうの人間ではないと瞬間思った。それはまるで周りの木々と抱き合っているかのように見えたのだ。辺りの雰囲気もなんだか高揚感が漂っている。聖護はあまりに感じたことのない感覚に戸惑い、薄く透き通るようで消え入りそうなのになぜか強烈な印象で存在する少女を目の前に呆然と立ち尽くしていた。
ふと、少女が聖護に気付いてまっすぐ聖護を見据えてきた。その瞳はエメラルドよりやや深いグリーンで癒しを与えるように穏かで包み込むような優しさがにじむ。まだ子供のようにあどけない顔立ちは妖精のように儚く透き通る清廉な美しさだった。髪は明るくふわっとしていてアッシュブラウンにやや青みがかっている。肌はひんやりとしてすけるように青白く、唇もあまり赤みはない。その様子からか、人の息遣いやエネルギーを発する生命感が感じられない。でも、どこか穏かで心地よい雰囲気をかもし出しているのだ。しばらくその少女と聖護はじっと視線を交わしていた。少女は無表情でじっと聖護を見つめていたが、急に屈託のない笑顔を向けてきて、聖護ははっとした。そのうち人の声がして、少女の顔がふっともとの無表情な顔つきになる。後方から看護士さんが駆けよってきた。
「和沙さん、もう、1人でどこかへ出かけてはいけませんって何度もいいましたでしょう?」
少し困ったような表情でにその少女に近づいてくる看護士はやや息が荒い。見た目はいかにも頭がよさそうで知的な感じの30歳前後だろうベテランの看護士のようだった。その看護士は和沙と呼ばれた少女の車椅子の背を捕まえると回転させて、連れ帰ろうとした。その時、聖護の存在に気付いて、ニッコリ笑って会釈をすると、少女に話しかけながら林の奥に消えていった。
聖護は、ふとその方向が病棟の方ではなく、院長の住まい敷地の方だったのに気付いて、やや頭をかしげた。聖護はまだここに来るようになって間もない頃、一度、院長の家に招かれたことがあるのだ。父と院長は大学の先輩と後輩で父も渡米前はこの病院に勤めていた。いわば院長と聖護の父は旧知の仲で、意識の戻らない母を預けるほどの信頼を寄せていた。聖護はしばらくその少女の消えた方をじっと見ていたが、暗くならないうちにと母のところへと急いだ。
紫織は院長の家の玄関に立っていた。昨日、総真に電話があり、紫織の祖父修一郎が用事があるから食事がてら会いに来るようにとのことだった。修一郎は祐一郎をこよなく愛し、紫織にも深い愛情を注いでくれた。父、祐一郎が亡くなったときも、自分のもとに来ないかといってくれた。しかし、紫織は祐一郎と住んでいたあの家を離れたくなかった上、聖護と初めて会ったあの庭から離れるのはどうしても耐えがたかった。総真が紫織が家を離れたがらないのを見て、自分が面倒見ますからと修一郎に申し出て、紫織はあの家にとどまることになったのだ。祐一郎がなくなってから、すぐに体調を悪くして、父の兄の京一郎が病院の院長を継ぎ、修一郎は自宅で療養しながら悠々自適に過ごしている。とはいえ、病院への影響力は強い。なにかあると京一郎ばかりではなく、いろいろな関係者たちの訪問が未だ耐えない。
紫織は総真とともに院長の屋敷にはいると祖父修一郎の待つ部屋へと進んだ。修一郎の住まいは院長の住まいの奥の離れにあった。日本庭園の中に存在する茶室のように、庭を通って三連打ちになった飛び石をたどっていくと縦格子の数奇屋門がある。そこを開けて進むと左には池があり、色とりどりの錦鯉が優雅に泳いでいる。コケがついた景石が所どころに配置され、傍に山茶花や枝垂れ梅など比較的低い背丈の木々が絶妙に配置されて点在していた。辺りの景色を見ながら格子の引き戸の前に立つ。総真がゆっくり引き戸をあけて声をかけると奥から声が響いてきた。
「おお、待っていたぞ。はやくはいりなさい」
そういって修一郎自らが玄関まで出迎えてくれた。修一郎は引退してから、いつも和装で今日は単着物に袖なしの羽織のいでたちで、いかにもご隠居といった風情だ。その修一郎に導かれるまま、二人はその奥座敷へと進んでいった。3人がそれぞれの場所に落ち着いて座ると、修一郎は上品に微笑んで紫織の様子に目を向けた。
「紫織、ちょっと見ないうちに随分大人びたようだな。綺麗になった」
修一郎は目を細める。
修一郎は70歳とは言え、実際はもっと若く見える。体調を崩して引退したものの、その後は調子も戻り、肌の色艶もいい。黒く並々とあった髪は色が抜けて透けるような美しい銀髪となり、もともと端正で上品な顔立ちだったのが、さらにその所為で魅力を増していた。目の下には年なりの深い皺はきざまれているもののまだまだ目の光は強く、エネルギーに満ち溢れていた。
「学校はその後どうだ?」
「はい、なんとか慣れてきました」
紫織は少し笑みをこぼして言うとその表情に修一郎は紫織の変化を悟った。
「いい表情になった。いい友達に恵まれたのだな。私はおまえが心配でならなかった。もちろんここにいる総真もだ。祐一郎との約束でなにも言わずに見守ってきているが、本当にそれでいいのかいつも迷うのだ。人に言えない特別な事情を抱えているとは言え、おまえは一応女の子だからな。まだ、今はいい。しかし、この先大人になればなるほど、体の違いが出てくるからな。心配なんだよ」
そういうと修一郎は心配そうな表情をする。紫織はそんな修一郎の気持ちを汲みとってか、薄っすら微笑むと修一郎の顔をまっすぐに見据えた。
「大丈夫です。僕は一人ではありません。多くの人が支えてくれています。ここにいる総真や涼子先生、そしておじい様。それから、大切な友人達…。僕はそんな人たちにいつも守られてます。強くなってその人たちを僕は守っていかねばなりません。少しずつ覚悟はしているつもりです」
修一郎はいつもどこか悲しげに寡黙に頷いているだけの紫織とは違って、覚悟を決めて腰をすえたのか、はっきりと修一郎の目に訴えかける随分大人びた紫織に目を剥いた。横にいる総真も同様に驚いた表情を隠し切れない様子で紫織をじっと見つめた。いつの間にこんなに大人になったのか、このところの変化に二人とも心底驚いた。修一郎は愁眉を開き、にこやかに笑った。
「祐一郎もいい子に育てたな。ああ、総真もちろんおまえもな」
そういって柔らかな表情で総真を見やる。
「いえ、めっそうもありません。私は祐一郎さんに本当によくしていただきましたから。自分を本当の息子のように愛情をかけてくださいました。ですから、それと同じです。紫織さんは家族も同然です。これからもしっかり支えてまいります」
そういって丁重に頭を下げた。
「総真、そうかしこまらんでもいい」
総真は少しぎこちなくはあと頷くと、修一郎は屈託のない顔で笑った。
「それで、本日は何か御用だったのでは?」
紫織がそう切り出すと修一郎の顔がわずかにこわばった。
「そう、おまえに頼みがある」
「頼み…ですか?」
修一郎はゆっくり頷くと立ち上がって障子をあけて廊下に立った。その廊下からは美しい庭が一望できる。外の庭はまもなくやって来る冬を迎えようともみじが赤く染まり、周りの木々も少しずつ色づいて、その景色は華やかに彩られてまるで絵葉書のような光景だった。外からはひんやりとした空気が入り込んでくる。
「おまえに会わせたい者がいる」
修一郎はじっと庭の一転を見つめる。その視線の先を紫織が見るとそこに華奢で小柄な少女が立っていた。紫織ははっと息を呑んだ。
「あれだ」
紫織は黙ってじっとその少女を見つめる。少女は庭でじっと一点を見つめている。その表情は無表情で意識がここにないかのようにも見えた。その存在は薄くはかなげでいて、人とは明らかに違っていた。しかし、その姿は透明で透き通る感じなのに強く印象に残るのだ。妖精?でも、少し違う?紫織はその目の前の存在が何者なのかを自分の記憶の中から探そうとした。
「どうだ、なにか感じるか?」
「え?」
不意をつくように修一郎は紫織に声をかけた。
紫織は一瞬戸惑った。紫織の特別な力に対してあまりに当たり前のことのように話してきたことに驚いたのだ。修一郎は人とは違う力があることは知っているはずだが、詳しくそれについて話をしたことはなかったのだ。しかし、紫織はすぐに答えを返した。
「いえ、それが初めての感覚なのでよくわかりません」
「そうか。おまえでもわからんか」
修一郎は少しがっかりしたようでややため息をつくと紫織の傍に戻ってきた。
「あれに初めて会ったのは3ヶ月前だ。夏に避暑に出かけた折、森の中でうずくまっていた。気分が悪くなって倒れているのだと思って別荘に連れ帰って手当てをしてやったのだが、どこも悪くないようだったので、少し休ませて帰そうと話を聞こうとすると、どうやら話ができないらしかった。字を書いてみたが、これも読めないようだった。目がグリーンだしな、異国の血をひいていると思って、調べればどこの子かすぐにわかるかと思ったのだが、一向にわからず今に至るのだ。ただ、ずっと接していてなんとなく、普通の子供と違う気がしてならんのだよ。何かが違う。こんなことは自分でも変なのだが、科学的根拠は何もない。ただ、自分の勘がそういわせるんだ。紫織ならわかるのではないかと思ってな」
「いえ、残念ながら何者なのかはわかりません。ですが、人ではないことは確かのようです。オーラが違いすぎる。でも、邪気はありませんから悪いものではありません」
「そうか…、やはり人ではないか」
修一郎は再び庭にいる少女に視線を向けて深いため息をついた。紫織はその様子に一瞬目を遣ったが、すぐに立ち上がってその少女に近づいていった。
少女は近づいてくる気配にふと顔を上げた。紫織と目が合う。大きなグリーンの透き通るような目が紫織に向けられた。紫織がその瞳を覗き込むと、どこか懐かしいような穏かな気分になった。どこかでこの感覚…。そう思いながらじっと少女を見つめた。少女は、しばらく紫織を見つめると急にふっと微笑んだ。その表情は妖精のように清らかで透き通る柔らかな微笑だった。紫織はその表情にはっとした。なんとも心地のいい清らかさだろう。今まで人には感じたことのない感覚だった。紫織はその少女に近づいてみた。
「君は名前はなんていうの?」
紫織は優しく微笑むと穏かに話しかけた。
『…かずさ…』
紫織ははっとした。少女は声を発したのではなかった。紫織の頭の中に少女の声が聞こえたのだ。紫織はじっと少女を見つめて少女に頭の中で問いかけた。
『かずさ?そう、かずさっていうんだ。僕は紫織。あのおじいさんの孫なんだ。よろしく。』
そういって紫織は少女の手をとり握手する。しかし、その時紫織の顔が微妙に固くなった。紫織はすぐに微笑んで手を離した。
『君は何者なの?』
『わからない…。何者なの?』
かずさはきょとんとして答えてくる。
『君は山の中で倒れていたらしい。その前は何をしていたか思い出せる?』
和沙は首を振る。
『わからない。気付いたらあの人がいて、ここに連れてきてくれた』
『君は言葉がわかるのかい?』
『はじめはわからなかったけど、少しわかるようになった。あの人が教えてくれたから。』
そう言うとかずさはまた庭の方を向いてしまった。紫織はしばらくその様子を見ていたが、やがて修一郎たちのいる部屋に戻ってきた。
「おじい様、彼はかずさというんですか?」
「どうしてそれを?」
紫織の言葉に驚いて、顔を上げた。
「話してくれたんです」
「話ができるのか?」
修一郎は喰らいつくように紫織の蒼い目を見つめた。
「いえ、彼とは精神感応で会話したんです」
「精神感応?」
修一郎は驚いて目を見開いた。
「はい」
紫織は表情を変えずに返事をする。
「そうか。やはりおまえに話して正解だったな」
修一郎はそうつぶやくように言うと、少し安堵したような表情を見せた。
「和沙と言う名前は私がつけたのだ。私の亡くなった娘の名前だ。おまえの父が生まれる前の話だからな、祐一郎もほとんど知らないはずだ。生まれてすぐに亡くなってるしな。あれはああ見えても男の子なんだが、なんだか、あれを見ていたら、和沙を思い出してな。それで和沙と名づけたんだ。和沙はその他は何か言っていたか?」
紫織は首を横に振って淡々と事実を語った。
「いえ、言葉はおじい様から教わったから、少しずつわかるようになったと言っただけで、自分が何者なのかはわからない様子でした」
「そうか。自分でもわからぬのか…」
ふっと床に視線を落としてしばらくだまって考え込む修一郎に紫織が今度は自ら口を開いた。
「上総の体調はその後いかがですか?」
はっと我に帰って修一郎が紫織をもう一度見返した。
「ああ、少し弱っていたのだが、何も食べないので点滴を定期的にしている。しかし、不思議なんだ。いくら点滴をしてるといっても、はじめは起き上がれないくらいに衰弱していたのに最近ではみるみる元気になってああして動き回ってるんだ。しかし、食べ物を与えてもほとんど食べないのだ。人ではないのなら、納得もいかないこともないが、いったいどういうことなのだろうか」
修一郎は再び深いため息をついた。その様子に紫織は決心したように修一郎に向き直った。
「あの…、よろしければ、和沙をしばらく僕に預けていただけませんか。彼のことをもう少し知る必要がありますし、僕しか今のところ話ができないようなので…」
修一郎は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふっと笑みをこぼした。
「いいのか?私は和沙が娘のような気がしてな。なんとかしてやりたいのだ。力になってくれるか?」
紫織はじっと見つめてくる修一郎の目に憂いがあるように感じてしばらく黙っていたが、ゆっくりと頷いて、そして庭にいる和沙の姿に視線を遣った。彼はいったい何者なのか。人の心をこうまで惹きつける彼はなんのためにここへ来たのだろう。紫織は和沙の正体はまだ知れないが、なんとなく和沙が自分の運命に関係があるような気がしてならなかった。なんにせよ、しばらく様子をみるしかない。紫織はそう思うとやや軽くため息をついた。
和沙をあずかった紫織は一緒に生活し始めますが、そんな紫織たちの前にまた事件が起こります。