第26話 踏み出す勇気
その翌日の授業後、一旦下校した紫織は斉藤を連れて再び学校に戻ってきた。校庭の奥の森に行くと、笠井の姿はまだなかった。辺りは人の気配はなく、時々吹いてくる秋の気配を含んだ風の所為で枝や葉がこすれあう音がやけに大きく響いてくる。紫織と斉藤が歩いていくと、急に鳥がバタバタと羽音を立てて勢いよく飛び去っていく。普段でもこの辺りは人の気配がなく、まるで学校の敷地の中にあるとは思えないほどに静かな場所である。紫織は人目を避けてよくこの辺りにくるのだが、たまに、聖護が探しに来る以外は誰ともここで出会ったことはない。紫織にとっては1人になれる格好の場所だが、他の者にとっては、人気がなく寂しい場所だった。
先ほどから、傍にいる斉藤はあたりを見回しながらも随分緊張しているのがその表情やびくつく様子で見て取れる。
斉藤は笠井に会うと言ったものの、どうしてもあの、爬虫類が獲物を見つけたかのような目を思い出されて、背筋が寒くなるのだ。身体は自然とこわばり、斉藤の顔から血の気が引いていった。紫織はそんな斉藤の様子に気付いていたが、今何か言えば、必死に堪えている斉藤が怖気づいて逃げ帰ってしまいそうな気がしたので黙ってやり過ごしていた。
ほどなくして、聖護と七海が笠井を連れてやってくる姿が見えてきた。斉藤はその姿を捉えた途端、心臓がバクバクして息が止まりそうなぐらいに緊張がピークに達していった。そして体はさらに硬直し、斉藤はその場に立っているのがやっとのようで、今にも倒れそうなくらい不安げな顔をして、その視線は近づいてくる姿に目が釘付けになっていた。
笠井はと言えば、聖護と七海の後ろに隠れながら伏せ目がちで二人のあとをおずおずとついてくる。そして斉藤の前に立つと怯えるように上目遣いで弱々しく斉藤の顔を見あげた。
斉藤はその姿を捉えて驚いた。そこに現れた笠井は、今までとは全くの別人だった。あの、冷ややかで軽蔑するような視線や高慢で威圧的な態度は全く陰を潜め、目の前には怯えるような悲しく寂しい目をした少年が立っていた。あの目には覚えがあった。自分だ。瞬間、斉藤は思った。笠井は自分と同じ目をしている…。心に闇を背負い、まわりを拒み、心を閉ざしていた自分と同じ…。斉藤は呆然と目を見開いて笠井を見つめていた。
一方の笠井は驚いたような目で見つめてくる斉藤の視線が痛かった。自分には記憶がなくても、斉藤には自分にいじめられていたという記憶がある。笠井は記憶こそないが斉藤の気持ちを考えるといたたまれず、どんな顔をしていいのかわからないといった困惑した様子で、ただただ、小さくなってすまなそうに上目遣いで斉藤を見上げている。
紫織は呆然として笠井を見つめている斉藤を前に押し出すように背中を軽く押すと、斉藤はふらつきながら一歩笠井に近づいた。思いもよらない紫織の行動に斉藤は、はっと我に返って紫織を振り返った。紫織は斉藤を見て薄っすら微笑んで頷く。斉藤も紫織の蒼い瞳をじっと見て、緊張した面持ちでぎこちなく頷いてそれに応えた。そしてもう一度笠井に視線を遣ると、息をゴクリと飲み込んだ。
「笠井くん…。」
笠井はビクッとして瞬間目を伏せる。そしてその場にしゃがみこんで地面に手をついた。
「ごめんなさい!斉藤君!僕が…僕が君を…。ごめんなさい!」
そういって笠井がうなだれて頭を下げて泣き崩れた。斉藤は驚いてとっさにその場にしゃがんで笠井の手をとった。
「笠井くん…。頭を上げて…。君じゃないんでしょ?話は全部間宮君から聞いたよ。僕はもう大丈夫だから…。だから泣かないで…。」
そういって斉藤は笠井の手をしっかりと握った。笠井ははっとして頭を上げて斉藤を涙に濡れた目で見上げた。斉藤の心はいつしか、緊張がとけ、穏かで慈愛に満ちた気持ちで一杯になっていた。
「君も僕と同じだったんだね…。」
斉藤がおだやかに笠井を見つめてくる。笠井はその顔を見て呆然としている。
「僕達は弱い心を魔物に利用されてしまったんだ。たまたま、僕がいじめられる側で、君がいじめる側だっただけ。もしかしたら、逆だったかもしれないんだし…。だからもう謝らないで…。」
「斉藤くん…。」
斉藤は微笑んで笠井に頷く。
「もう、済んだことだよ。それより、僕達はこれから前を見なきゃ。強くなろうよ…。」
笠井はじっと斉藤を覗き込む。時折目が合うと怯えるように小さくなって目を伏せていた斉藤とは違い、しっかりとした意志をもってまっすぐに笠井の目を見つめてくる。
「僕は周りすべてが自分を拒んでいて、自分だけが不幸だと思い込んでたんだ。周りが思い通りにならないからって、何もせずに甘えていただけだった…。それを間宮君に教わったんだ。目の前の現実から逃げるなって…。僕は、なにもかもから逃げて、前に進まない現状を嘆いてるばかりだったんだ。結局、周りを拒んで変わろうとしなかったのは僕だった。すべては自分の甘えから起きたことだったってやっと今になってわかったよ。でも、もう僕は逃げない。少しの勇気をもって一歩前に出るだけで、違う世界が広がることがわかったんだ。だけど、まだ、今日だって、君の顔を見るのが怖くてさっきまで心臓がバクバクして足もガクガクしてて…。なんども引き返そうと思った。さっきのさっきまで逃げたい思いで一杯だったよ。でも、目の前に君が現れて、君の顔を見たら、そんな怖さも吹き飛んだ。昨日までの自分と同じ目をした君がそこにいたから。そしたら、僕は君に対して、怖くて震え上がるような思いから、いつの間にか同じ思いを持つものとしての親近感にかわってた…。」
「斉藤くん…?僕を許してくれるの?」
笠井は訴えるような目で斉藤に縋ってくる。
「笠井くん、許すも許さないも…。僕達は同じ思いを共有できる仲間だよ。今日から新しい僕達をはじめようよ。君と一緒ならできる気がする。いつまでも弱い自分に振り回されてるんじゃだめだよね。でも、まだ僕は未熟だから、きっと弱音をはくかもしれない。明日になったら、逃げようとするかも知れない。でも、僕はこの現実から絶対逃げたくないんだ。絶対乗り越えて違う自分になりたいんだ。」
斉藤は真顔で熱っぽく笠井に語りかける。そして、恥ずかしそうに照れながら笑った。
「でも…、まだまだ弱い僕だから…。笠井君…これから、お互いに支えあって今までのこと乗り越えようよ。」
笠井は驚いたような表情で斉藤の顔に魅入られている。七海が傍にきてしゃがんで笠井の顔を覗きこんだ。
「瞬…。」
七海が笠井の肩に手を置いて微笑んだ。笠井は七海の顔をじっと見ると、すぐに斉藤の目を見返した。
「斉藤くん…。こんな僕でもいいの…?」
笠井は疑うように恐る恐る聞き返してくる。斉藤は優しく微笑んで頷いた。
「君だから、きっと僕の気持ちを一番わかってくれるんじゃないかって思うんだ。僕は改めて君と友達になりたい…。だめ…かな?」
斉藤は少し遠慮がちに笠井に申し出た。すると笠井はさらに驚いたような顔をして、目に涙を一杯にすると声にならない声で返事をしながら嬉しそうに大きく何度も何度も頷いた。斉藤もつられるように目頭が熱くなってきて涙が頬を伝った。七海ももう片方の手を斉藤の肩にポンと置いてほっとした顔をして大きく頷いた。
聖護はその様子を目を細めて眺めている。ふと、紫織と目があった。聖護が紫織を見て微笑みながらやれやれという表情で深く息をはくと紫織も安堵したような表情で頷いた。七海が立ち上がって、紫織と聖護に笑顔で合図すると、斉藤は笠井を立ち上がらせた。ふと自分の後ろに振り返るといつの間にか斉藤の傍に黒猫が座っていて、そのまんまるの金色の目を見開いて、じっと見つめていた。
「おまえ…。どこから…?」
そういって傍に近づこうとすると、
「にゃー。」
そう嬉しそうに一声鳴くと、ぱっと走り出す。そして、紫織の傍によると紫織に飛びついた。紫織はなんなく黒猫を腕に抱きとめる。
「アビス…。」
そう言って、黒猫に呼びかけ、頭をなでた。斉藤はその様子を見て、一瞬呆然としたが、次の瞬間ニッコリ笑った。
「その黒猫…。君のなんだ…。」
紫織は薄っすら微笑んで、首を振った。
「アビスは誰のものでもないよ。彼は自分を必要としている人のところに自分の意志で出かける。今回も、そう…。君の家の庭で彼を見つけたとき、僕のほうが驚いたんだ。」
「そうか…。僕は君だけじゃなくて、アビスにも助けられたんだね。ほんと、気付くとどうしようもなくいろんな人に支えられてるんだね…。」
斉藤はそういって笑うと紫織に近づいてアビスの頭をなでた。
「ありがとう、アビス。僕、もっと強くなるからね。」
そう言って、斉藤はいい表情で笑った。その様子を全員が微笑ましく見守った。
帰り道、待たせていた車に向かっていた紫織を聖護が追いかけてきた。
「紫織!」
紫織がその声に振り返る。走って近づいてきた聖護が最上級の笑顔で笑いかけた。その表情につられてか紫織はめずらしく照れくさそうな表情を見せた。聖護ははじめてみる表情に急に心臓がドキドキしてくる。しばらく言葉が出てこない…。
「紫織。」
「聖護。」
同時に互いの名を呼び合ってしまった。
「あ、いや…、なに…?」
聖護が焦って紫織にたずねた。
「えっ?いや…別に。用事がないなら、もう、いくよ。」
そう言ってぷいっときびすを返した。
「や、あの…、おまえ、最近、優しい顔つきになったな…。なんか、角がとれたっていうか…。いい顔してるぞ。」
「えっ…。」
思いもよらない聖護の言葉に紫織が一瞬かたまった。心臓は破裂しそうなぐらいに紫織の胸を打ち付けていた。
「…。」
紫織が無言で立ち尽くしていると、その背中に聖護はさらに言葉を投げかけた。
「紫織…、おまえってやつは本当に無謀なぐらい優しいやつだな。やっぱりはじめに思った通りいいやつだな、おまえ…。」
紫織は最高潮にドキドキして体の奥からかあっと体が熱くほてってくる。それでも、なんとか無表情を装うと、淡々とした口調で言った。
「そう…。それはきっと君のせいだよ。」
聖護は思っても見ない言葉が返ってきて驚いた。
「…ありがとう…。いつも、支えてくれて…。」
そういうと紫織はそのまま振り向かず、歩いて車に乗っていってしまった。聖護は、何を言われたのか、一瞬わからずに呆然とその場に立ち尽くしていたが、やがてじわっと嬉しさがこみ上げてきた。今回のことでまた一歩紫織に近づいたように思った。自分がたとえ、天目であっても、友人としてどんなことがあっても紫織を支え続けてやりたいと聖護は改めて心に誓った。
斎藤と笠井が心を通わし、前を向いて歩きだした。紫織の心にも変化が…。聖護の想いに少し勇気をもって前に踏み出そうとする紫織。次回はそんな二人の前にまたあらたな事件が起こります。