<第3章 魔性の目覚め> 第12話 心の闇
『こんな、世界なんかいらない!』
10歳ぐらいだろう、少年たちが一人の小柄な少年を取り囲んでいる。小柄で華奢な少年は回りの少年たちに嘲笑されながら、小突かれたり、蹴られたりしている。少年は無抵抗でなすがままだ。そのうち、無気力で反応のない少年は体を強く地面に叩きつけられ、同じ年頃の少し体格のいい少年たちに頭を靴で踏みつけられている。少年はそれでも抗ったりしない。唇を噛んで目を閉じてじっと耐えていた。少年にとっては、肉体的な痛みよりも、人の憎しみやどうにもならない怒りなんかの吹き溜まりのような思いをこういう形で投げつけられることのほうがたまらなくつらかった。殴られた傷はやがて消えるが、心にたまっていく思いはやがて重くのしかかり、いつしか心の中で混沌とした闇となってその存在感を増していった。
物心ついたときから少年は人の温かみや優しさに触れることはほとんどなく、言葉や態度、力の暴力をだまってこの小さな心や体で受けてきた。まわりの大人や親すらも怒りや憎しみの捌け口として、少年にさまざまな暴力を振るった。もう限界だった。
『僕はどうして生まれたんだ?こんな命なら要らない!』
小柄な少年は腹や背中を蹴られながら砂を吸い咳き込んだ。無気力に地面にただ転がるだけで少年たちに抵抗するような気配はまるでない。一通り吐き出して気がすんだのか、彼らは笑いながら去っていった。ただ、去っていく少年たちの後ろ姿をそれまでの少年とは別の顔がギラギラとした鋭い視線でじっと睨みつけていた。
『絶対許さない。みんな死ねばいい!』
そうして少年はふっと意識を失った。
9月は初秋といってもまだ真夏と同じで日中の気温が32度と高く、残暑が夏の疲れを一層長引かせているようだった。それでも、真夏に比べれば光が色あせていくように青空でさえどこか黄味を帯び、辺りを微妙にノスタルジックな景色へとかえつつある。長かった夏休みが終わり、日焼けしてすっかり変貌した少年たちが終わっていく夏を惜しみながら、いつもの学生生活に戻ってきた。
「紫織、おはよう。」
校門の傍で後ろから聖護が声をかける。
「おはよう。」
やや無表情だが、以前とあきらかに違う紫織の様子に聖護は安堵する。さりげなく近づき紫織の横を歩く。以前なら、近づくことすら紫織は拒んでいた。今は何も言わず、受け入れている。あの合宿以来、紫織は変わった。雰囲気も神経を張り詰めたげとげしさや危うさが影を潜め、幾分穏かな雰囲気をかもし出すようになった。
「また、背が伸びた。」
紫織が横目でちらっと隣を歩く聖護を見上げて声をかける。こんなことすらも今までにありえない光景だった。
「ああ。毎日膝が痛い。」
聖護は紫織の横顔をちらっと見て苦笑する。この夏に170を超え、合宿のあとにはさらに伸びて175cmになっていた。紫織を15cm見下ろす。紫織は前を向いたままだが、聖護の返事に少し口元で笑う。こんな少しの変化も聖護は見逃さない。前と違う紫織との距離感を穏かに心地よく感じていた。
「よお、お二人さん、おはよう。」
後ろから軽快に声をかけてきたのは七海である。あの合宿以来、七海は聖護と前より近い友達になり、一緒にいる紫織にも普通に話しかけるようになった。といっても、紫織に話しかけることができるのは、聖護の他には未だに七海ぐらいなものだが。
「おはよう。」
七海の方へ身体をむけて、二人が声を揃える。
「七海、おまえも背がのびたんじぇねえの?」
「おお、172cmになった♪」
七海が胸をはって得意げに応えると聖護はさらにニンマリ笑って七海を流し目で見やる。
「ふふん、俺は175cmだ。まだまだだな。」
そういってニヤニヤしながら見下ろすようなそぶりをする。七海がむっとして怪訝そうな顔して聖護を睨み返す。
「ちぇ、絶対今度は抜いたと思ったのに。聖護おまえ、でかくなりすぎだぞ。」
七海は少し口を尖らせる。
「いいじゃないの、女にはお前のほうがモテルんだから。」
聖護は鼻で笑う。
「そうだよな、おまえ、男にモテモテだもんな。そういや、この間、先輩方の絡みをのしたって聞いたぞ。」
七海がにやにや笑いながら肘で聖護をつついた。
「俺は何にもしてないぞ。指一本ふれてない。」
「ばーか、おまえ怒らすとマジこえんだよ。先輩じゃなくたってびびるって。」
「よくいうよ。そんなこと言ったらおまえだって相等なもんだぜ。俺をおまえ呼ばわりするの、おまえだけだぞ。」
そう言って、聖護は暖かい視線で七海を見やる。七海はその視線を受け取ってふんと鼻で笑った。聖護に担がれて悪い気がしないらしい。それでも口は減らない。
「そんな男相手におまえに勝ちたくないね。俺はおまえより女にもてたほうがいい。」
「相変わらずだな!言ってろ!」
そういってふたりは笑う。紫織はその横でそのやり取りをうっすら微笑みを浮かべながら穏かに眺める。2学期になってから、時折見られる光景だ。3人が話をしながら教室の傍までくると、紫織は用事があるからと教室に寄らずに医務室に出かけていった。七海はその様子を黙って眺める。
「あいつ、変わったよな。雰囲気。前は近くにいるのも威圧感でいちいち緊張してたけど、そんな感じがなくなったもんな。」
七海はいつも歯に衣を着せずに言葉をストレートに投げてくる。そんな七海を聖護は意外と気に入っている。
「そうだな。」
聖護も紫織の後ろ姿を追いながら七海に頷く。
「やっぱり特別なんだな。あいつにとっておまえは。ほんとおまえって男にモテルやろうだな。どんなやつでもみんなおまえに惚れるんだ。不思議なやつ。」
七海が目を細めて楽しそうに笑う。
「っていうことはおまえも惚れてるってことだよな?。」
聖護はニヤニヤ笑いながら七海を見る。
「ばっ!」
七海は急にあせって顔を赤くする。
「ばかやろう!」
そういって顔を背ける。結構照れ屋らしい。
聖護はクスクス笑っている。七海は自分が直球を投げるクセして聖護に投げられると照れて怒る。そんな七海は同級生で唯一聖護が一目置きながらも自分が気楽に付き合えると思った友達だ。この夏は七海という親友ができたことも聖護にとっては紫織のことと同様、収穫だったと思っていた。
その頃、紫織は医務室に向かって中庭を歩いていた。ここはこじんまりしながらもイギリスのガーデン風で今は花をなくした野バラが壁のように続いている。春は花があふれ緑とのコントラストが非常に美しい。しかし、今はぽつりぽつりとある葉や棘もところどころ緑が赤茶けて幾分色あせているように見える。ふと何人かの声が紫織の耳に入ってくる。紫織は何気なく野ばらの棘の隙間から向こう側を覗いてみた。そこには背が高くて制服をルーズにだらっと来ている少年3人が小柄な少年を囲んでいた。
「斉藤君、いつもか弱い君を守ってあげてるんだから、少し気をきかせてくれないかなあ。僕達ね、ちょっと参考書なんぞ買いたいんだけど、お金がたらないんだよね。都合つけてくれないかなあ?」
どうやら、少年は斉藤というらしい。
3人の中で一番体が大きく、髪の毛を立てて固めている少年が嫌な目つきでニヤニヤしながら、斉藤という少年に詰め寄る。斉藤は目をそらして、下を見ながら青白い顔をしている。その体は小刻みに震えている。
「僕たちね、君に奉仕してるんだよ。初等部からのつきあいじゃないか。友達だろう?」
もうひとり、髪が肩につくぐらい伸ばしてピアスをしている少年が一歩前にでる。斉藤はあとずさりすると、木にぶつかって一瞬ふらついた。もう後がない。少年は弱々しくヨロヨロと腰が抜けたかのように、その小さな身体をその場に沈めていった。
「斉藤くん、僕たちがいなくなるとこまるでしょう?また、前みたいにみんなにいじめられるよ。これからもお友達でいてあげるからさ。」
前髪やサイドをヘアピンでとめている3人目がにらみながら斉藤を追い詰める。斉藤はおどおどしながら、振るえる手であわててポケットからお札を数枚だした。
「ちぇ、しけてんの。もう少し持ってないのかよ。」
ピアスが斉藤から札を取り上げて言った。
「僕たち3人いるんだよ。足りないよねえ。」
ヘアピンがねちっこい視線を向けて斉藤にねじり寄る。
「…ごめんなさい。…今日はこれしか持ってないんだ。」
斉藤は半べそをかきながら言った。
「明日まで待ってあげるよ。明日は必ず、僕たちを助けてくれる?」
「…。」
斉藤はおびえて縮こまった。
「何とか言ってよ、斉藤くん!」
体が大きな少年が小さな斉藤のシャツの襟をつかんでねじりあげる。
「…うわあ!…ひっく…ひっく…わかった…ひっく…ごめんなさい…許して…!」
斉藤がそう言うと体の大きな少年が斉藤のシャツから手を離した。その瞬間、斉藤はその場に崩れおちた。
「ものわかりがいいねえ。斉藤君。じゃあ、たのむよ。明日ね。」
そういってその場を立ち去ろうとすると少年たちの背後からもう一人やや小柄な少年が現れた。
「僕はおまえみたいなグズなやつ嫌いなんだよ。」
その声は冷ややかで悪意がこもる。紫織はその声にゾクっとして鳥肌がたった。
「笠井。」
少年たちがその声に後ろを向いて名前を呼んだ。その笠井と呼ばれた少年は無機質な薄いグレーの瞳をしていた。その見た目のあどけなさとは似つかわしくないような、どこか冷たく残虐な視線を地面に座り込んだ少年に向けていた。他の3人とはあきらかに雰囲気が違う。笠井は血のように真っ赤な唇を引き上げてニヤリと笑った。
「恥ずかしいやつだな。」
さらにさげすむように低い声で言い放つと斉藤に近づいて足で腹を蹴り上げる。
「汚いんだよ!目障りだ。おまえなんか消えてしまえばいい。どうせ、役にもたたないんだからな。」
「うっ!」
少年は蹴り上げられた瞬間ビクッとして体を動かしたが、何も言わず、うずくまっていた。そうして笠井はじろっと少年をさげすむような冷酷な目で見下ろしながら、斉藤のまわりを歩く。そしてふっと立ち止まったかと思うと無情にもその背中に足をかけると力いっぱい踏みつけてもう一度不気味にニヤリと笑った。紫織がぞくぞくっとして全身に鳥肌が立った。その瞬間、笠井の顔に魔物が重なって見えた。紫織の瞳が紫に反応する。魔物特有の嫌な圧迫感と刺すような空気がその場に広がっていく。紫織はそれを断ち切るように、わざと野ばらを握ってガサガサ音をさせた。その場にいた4人の少年は人の気配にはっとして、反対の方向にちりぢり消えていった。
紫織はその場に転がる斉藤に近づき、声をかけた。
「大丈夫か?」
斉藤は一瞬ビクッとして顔を上げると、紫織と目が合った。その瞬間驚いたような顔をしておびえるように顔を伏せるとあわてて立ち上がってその場から逃げていった。
結局、医務室に行く時間がなくなってしまったので、用事は昼からにして足早に教室にもどった。紫織が教室にもどると、聖護と七海が談笑していた。紫織が教室に戻ってきたことに気付いた聖護が近づいてくる。
「ああ、紫織、席替えみたいだぞ。お前の机動かしといた。席は窓側の後ろから2番目だ。俺はその斜め後ろ、七海はおまえの前だ。」
「ありがとう。」
そういって紫織は無表情で言うと、すっと席に行こうとして聖護をやり過ごそうとした。その時、聖護が振り向きざまに紫織の腕をとった。紫織はふいに腕をつかまれて心臓がはねる。紫織はやや顔を赤らめて聖護を見上げた。聖護は一瞬紫織の蒼い瞳の中にぼんやりと影が差すような気がした。
「おまえ、なんだか顔色が変だぞ。なんかあったのか。」
その時、聖護は紫織の手から血が出ているのを見つけた。
「どうしたんだ、この手は。」
紫織はそう言われて、自分の手からうっすら流れる血にはじめて気付いた。
「ああ、さっき中庭で躓きそうになって野ばらに手をかけたから、その時だろう。たいしたことない。」
紫織はこれまでのときと同じように無表情に淡々と答える。聖護は一瞬むっとする。
「医務室に行ってたんじゃないのか。」
急に前のような態度を見せる紫織の様子を不振に思い聖護が尋ねる。
「医務室はまだ誰も居なくて開いてなかったんだ。」
紫織は微妙に聖護から目を逸らし、淡々と答える。聖護は紫織の態度にため息をつく。
「手を見せてみろ。」
そういって手をとり、強引に手のひらを開かせてみる。
「棘はなさそうだな。」
一瞬ほっとしたように力を弱めた。その瞬間、紫織が、聖護の手を軽くはらって自分のほうへ戻した。紫織の顔が少し赤くなっている。しかし、聖護はそんな様子よりも、紫織のよそよそしい態度にむっとしているようだった。どこかピリピリして落ち着かない様子の紫織の蒼い瞳を聖護はまっすぐな黒い瞳で見据えた。
「俺に隠し事するな。おまえはごまかすときいつも無表情になってよそよそしくなる。なにかあったんじゃないのか?」
聖護は紫織をじっと見下ろす。漆黒のように真っ黒でまっすぐな視線に紫織は囚われるように動けない。それでもやっとの思いで言葉を口にする。
「隠してることなんてなにもない。」
紫織は一瞬、その目をじっと見返したかと思うと、ふっと目をそらして自分の席に行ってしまった。紫織は席に座ると少し考え事をしてから、七海に話しかけた。
「七海、笠井って知ってるか?」
七海は初等部からこの学校に通っている。七海だったら笠井を知っているかもしれない。紫織はどうしてもさっき、中庭で見た笠井の顔が脳裏に焼きついて離れない。あいつは尋常じゃない。あの気は…。七海は急に紫織から話しかけられて一瞬驚いたが、すぐに応えた。
「笠井?笠井瞬だろ?ああ、知ってるよ。初等部の頃おんなじクラスになったことがある。今はA組のやつだよ。」
「どんなやつだ?」
「へえ、珍しいな。おまえが人に興味をもつなんて。」
七海はニヤっと笑った。紫織は七海にからかわれても無表情のまま、だまって七海をじっと見据える。
「ちぇ、わかったよ。」
七海が少しため息をついた。七海はまだ、この蒼い瞳でじっと見つめられるのが苦手なのだ。
「笠井は小学校の低学年までいじめられっこだったんだ。弱くて地味なおとなしいやつだった。おれも一度助けてやったことがある。だけど、あいつ高学年になると豹変したんだ。あれだけ変わるやつもめずらしいよな。」
そして、七海はおもむろに嫌な顔をした。
「でも今の笠井は気に食わないけどな。あいつ人がかわったように、威圧的でえらそうなんだ。なんか、人を馬鹿にしてるっていうか…。ときどき、嫌な表情するぜ。俺は寒気がする。」
そう話したところで担任に柳が入ってきて、ホームルームが始まった。そのあと、何か考え事をしている紫織の姿を、聖護は時折、視界で捉えていた。
その日の帰り道、紫織はいつものように総真の運転する車の後部座席に座っていた。交差点で信号待ちをしていると交差点の角にある書店に斉藤がいるのが見えた。斉藤の様子がおかしい。書店のウインドウ越しに斉藤がおどおどしたり、キョロキョロしたりするのが見て取れた。紫織は書店にいくからと総真に車を近くに停めてもらった。
「ごめん、総真。少し寄ってくるから。あとで連絡する。」
紫織は総真にそう告げると足早に書店に向かった。紫織が店内で斉藤をみつけた時、斉藤は思いつめたように写真集を悲壮な顔してじっとみつめていた。斉藤は息があらく、汗をかいている。そして、大きく息を吸い込むと周りを見回してとっさに上着の中に本を隠そうとした。その瞬間、斉藤の手が誰かの手に押さえられた。斉藤はビクッとして体の動きを止めた。顔は蒼白である。
「戻せよ。」
斉藤は、強い口調にびくついてその手の主におそるおそる目をやる。同じ学校の生徒であることに、心臓が止まりそうなぐらい驚いて凍りついた。掴んだ手がみるみる温度をなくしていった。
「戻せ。」
紫織は斉藤をにらみつけながら、掴んだ手でそのまま斉藤に本をもと通りに返させた。斉藤は固まって動けそうにない。紫織はその手を掴んだまま、斉藤を書店の外に強引に連れ出した。斉藤は引っ張られるままにすぐそばの公園まで連れてこられた。紫織は噴水の前の芝生の上にくるとやっと斉藤の手を解放した。斉藤は力が抜けたようにその場に崩れ、座り込む。紫織はその様子を黙って見ていた。
「僕は…僕は…もうどうにもならない…、何もできない…、どうすれば…うっ…。」
斉藤が泣いてしゃくりあげている。紫織はため息をついて、何も言わず、斉藤のそばに座った。紫織は無言で噴水を眺めている。斉藤はないてすべてをだしたのか、しばらくすると泣き止み、落ち着きを取り戻した。
「このこと…誰かに言わないで欲し…。何でもするから…。ひっく…。」
斉藤は地面の芝生をうつろな目で見ていた。
「なにもする必要はない。そんなことに興味ない。」
噴水を眺めたまま紫織はそっけなく言った。斉藤は驚いて紫織をおそるおそる見上げた。見た顔だった。今朝中庭で自分に声をかけてきた人だと、ふと思い出した。斉藤は切羽詰っていたはずなのに、なぜか今はとなりに紫織がじっと座っているだけで、落ち着いておだやかな気分になるのだ。いつも感じる恐ろしい嫌な思いをまったく感じない。最近は人が近づくと怖くて不安になるのに不思議とこの人からはそんなものが何も感じられない。この蒼い瞳は、静かでどこまでも深く蒼い。その蒼は澄んで透明な宝石のように美しい。神秘的な瞳だ、こんな瞳は初めて見ると斉藤はぼんやり思った。
「はじめてなのか?」
紫織の言葉に斉藤はコクリとうなづく。
「今朝のあいつらか?」
斉藤はビクっとして目を逸らす。
「あの、笠井って…、何者?」
目の前でうなだれている少年は笠井という名前がでただけで、顔が青ざめる。ふと斉藤の手に目をやると、細く華奢な肩が小刻みに震えていた。紫織は少し小さなため息をついて立ち上がった。
「斉藤、立てるか?送っていくよ。」
斉藤は、紫織の言葉にビクビクしながらやっと頭を振って頷いた。
その頃、聖護は、母のもとにいた。いつものように母の手を握りながら母と話をする。聖護にとっては大切な時間だった。
「あいつ心開いたかと思うと、また、隠すんだ。俺が腕を掴むと払うようにすり抜けて、じっと見返すんだ。なんなんだろう?俺、自信なくすよ。」
聖護がめずらしくため息をついた。
「なあに?めずらしいわね、元気がないじゃない?聖護君。女の子にでもふられたの?」
「え?」
聖護は驚いて振り向く。そこには花瓶の水を抱えた、立川夏江がくったくのない笑顔で立っていた。
「べつに、そんなんじゃないよ。友達とうまく行かないって話。」
聖護はなぜか、顔を赤くしてあせって言い訳している自分が不思議だった。夏江はクスクスわらって窓際のテーブルに花瓶を静かにおく。
「そうなの?私は聖護君の話ぶりからてっきり、好きな女の子にでも振られたんだとおもっちゃったわ。」
「そんなんじゃ…。」
聖護が弁解しようともう一度口を開きかけると話をさえぎるように夏江が言葉を続けた。
「ごめんなさい、別にからかってるんじゃないのよ。聖護君もそういう年頃になったんだって思ったら、なんだかね、複雑な気分なのよ。だって、自分の子から聞かされてるみたいで。」
「夏江さん…。」
聖護ははっとした。夏江は5年前、息子を交通事故でなくしている。小学校4年生だった。その時そのせいで、夫婦仲も悪くなり、離婚もして現在一人で生活している。聖護はそのことを思い出した。夏江がその様子に気付いてふっと笑う。
「やあね、いいのよ。もう随分前のことだし。でも、ね、私は今幸せなのよ。こうして、聖護君に会えるから。まるで自分の子供が帰ってきたみたいな気がしてるの。あなたのお母さんと同様、私もあなたに会えるのがうれしいのよ。あなたの成長ぶりをみるのが楽しいの。あなたにとっても感謝しているのよ。」
「夏江さん…。」
聖護は夏江のうれしそうに向けて来る笑顔を見て言葉を失くした。
「だからね、気を使わないでいいのよ。もうひとりお母さんができたと思って甘えて頂戴。」
夏江は照れくさそうに笑う。聖護はもう、さっきの弁解がどうでもよくなって、同じく照れくさそうに笑って頷いた。
聖護は帰り際、病院のロビーに差し掛かったときに後ろから声をかけられた。聞きなれた耳ざわりのいい声だった。
「聖護くん、やっと捕まえたわ。」
聖護が振り返る。そこにはまるでグラビアアイドルが白衣を着ているかのような抜群のスタイルでスペシャルな笑顔を振りまいている涼子の姿があった。
「諏訪先生…。」
聖護が驚いたような顔をしている。ここの病院に勤めてるのは当然知っていたが、医務室でしか会ったことがなかったので、なんだか妙に驚いた。
「なに?お化けでも見るような顔して。そんなに驚いた?」
「いえ…、そんなことないです。」
聖護が苦笑いする。
「君、私は待ってたんだぞ。」
「え?」
聖護は涼子の言葉に驚く。
「合宿の話聞かせてねっていったでしょ?あれからちっとも来やしない。私って魅力ないのね。おねえさん、恋わずらいしちゃうわ。」
チラッと流し目でニヤニヤしている。
「え?」
聖護が真っ赤になる。一瞬返す言葉がない。
「はは!うっそよー。相変わらず、純情ね。いいわ。君♪」
涼子はうれしそうに笑う。聖護はふてくされたように顔を膨らます。
「からかうのやめてくださいよ!」
「ははは。許してね。あなた見るとつい、かまいたくなるのよ。ねえ、今、時間ある?」
「あ、はい。」
今日は稽古がない日だったので、このまま帰るだけだ。どうせ家に帰っても誰もいない。家政婦さんは聖護が帰り着く前に帰ってしまうので、いつも学校から帰ると聖護は一人だった。聖護の父は外科医なので、緊急オペやら、術後の様子見でしょっちゅう泊まりだ。すぐに帰らなければいけない理由もない。
「私も、これで今から帰るんだけど、送っていくから少し話聞かせてくれる?」
聖護は笑顔で頷いた。
「食事は?いつもどうしてるの?」
「ああ、家政婦さんが作ってくれてる。」
「一人で食べるの?」
聖護は何も言わずに頷いた。涼子は紫織のこともそうだが、目の前のいつも明るく振舞って自分の境遇を微塵も感じさせない聖護も本当は寂しくつらい思いを抱えているのだと改めて思った。彼らは若干13歳なのに大切な人を失った悲しみを痛いほど味わって、そして孤独感や寂しさを知りすぎている。だから、彼らは惹かれあうのかもしれない。
「ねえ、私がご馳走してあげるわ。うち、近くなの。寄っていかない?」
「え?でも…。」
聖護は涼子の申し出に戸惑っている。
「遠慮しないの。ああ、家に連絡しときなさい。必要なら、私が替わるわ。」
涼子は有無を言わせない感じでまくし立てる。
「先生にはかなわないな。」
聖護は軽くため息をつくとふっと笑った。
「いえ、大丈夫です。じゃ、連絡だけします。」
涼子は外に連れ出すのもいいと思ったが、紫織の話題はなるべく外でしたくなかった。それになんだか、聖護がかわいい弟みたいに思えて、いつも一人で食事してるなんて聞いたものだから、久しぶりに手料理を振舞ってやろうと思い立ったのだ。我ながら、おせっかいな女だと思いつつ、楽しくもあった。
「じゃ、いこっか。車回してくるわ。ここでまってて。ああ、途中、スーパー寄っていい?」
涼子は楽しそうに聖護に問いかける。
「あ、はい。」
聖護は少し照れながらもうれしそうにぎこちなく応えた。
聖護が病院のロビーで待っていると、涼子が再び現れた。ドアのところで聖護を手招きしている。聖護が、誘われるままに外に出ると涼子はもう、車に乗り込んでいた。濃紺のBMWだった。涼子は運転席から隣に乗るように手でシートを指差す。聖護は頷くと反対に回って乗り込んだ。車の中は静かにジャズが流れる。その静まりかえった大人な空間に聖護は緊張していた。それを運転しながら、涼子は横目でちらっと見て微笑んだ。
「ねえ、若者、何食べたい?ねえさんはおなかグーグーよ。」
車内の雰囲気とは違っていつものように明るくあっけらかんといつものように聖護に話しかける。聖護はちょっとほっとする。
「え?何がつくれるの?先生。」
「そうね、得意技は美しいオムライスかしら。」
聖護は噴出した。
「オムライス?」
「なによ。オムライスはね、奥が深いのよ。しかもね、美しく仕上げるにはテクニックいるんだから。」
涼子が子供のようにふくれっつらで応える。聖護はなんだか、ひどくおかしく感じて、クスクス笑った。涼子は医者で、大人なイメージがあったので、どうしてもどこか緊張してしまうのだが、こうして話していると自分の姉みたいな親近感がわいてくる。姉さんがいたらもしかしてこんな感じかな、と漠然と思った。
「じゃ、それ食べたい。」
聖護が笑顔で応えた。
涼子の住むマンションは病院から割合近く10分ぐらいのところだった。途中スーパーで買出しして、それから向かった。マンションに着くと、初めて女性の一人暮らしの部屋にはいる聖護はまた少し緊張した。そこは、一人で暮らしている割には広い家だった。自分が案内された、リビングとダイニングキッチンがつながっているところだけでも20畳ぐらいはありそうだった。床や柱などは浅いオークで出来ていて壁はアイボリーで全体には明るい暖かな雰囲気だった。所どころ観葉植物が置いてあって、色調は全体にアイボリー・淡いグリーン・ブラウンなどで上品でゆったりまとめられている。聖護にはなんだかいつも明るくて自然な香りがどことなくする涼子には合っているような気がした。
「ゆっくりしてて、すぐ用意するから。」
そういって涼子はキッチンに向かう。聖護はキッチンに続くリビングで部屋の中を見回した。リビングボードにさりげなく木のフレームに入った写真がおかれていた。涼子が真ん中で笑っている。その隣の男の人は見たことがある顔だった。それは、紫織を送り迎えしている長身の端正で無表情な顔をしたあの紳士だった。そしてその隣は40代ぐらいだろうか、見知らぬ紳士が映っていた。優しそうで知的な印象だった。聖護はその写真の入ったフレームを手にとるとじっと眺めた。キッチンで仕事をしていた涼子はふと振り向きざまに聖護の様子に気付いて声をかける。
「ああ、それ?紫織君のお父さんよ。で、反対の隣にいるのが、私の同級生の冬木総真。幼馴染なのよ。その写真は大学のときにとったものなんだけど。今は総真は紫織君の後見人よ。」
「後見人?」
「そう、紫織君はお父様が亡くなられたときまだ幼かったし、後見人が必要だったの。それで、総真が後見人になったの。といっても生まれてまもないときから一緒に住んでるけどね。もともと総真のお父さんがあの家の顧問弁護士で一緒に住んでいたのよ。」
「先生は、総真さんって言う人と幼馴染だったんですね。だから紫織のことよく知ってたんですね。」
「そうよ。だから、紫織君のこと他人事に思えなくて、つい、気にかけてしまうのよ。でも、あなたのこともなんだか、弟みたいでつい、おせっかいやいちゃうんだけどね。」
そういって笑って野菜を次々とまな板の上でやっつけていく。聖護はその姿を懐かしそうに後ろから眺めている。いつか、ニューヨークでの母の姿を思い出して涼子の姿に重ねていた。涼子はしばらく、フライパンと格闘したあと、お皿に盛り付けると、聖護を呼んだ。
「おまたせ。できたわよ。こっち座って。」
ダイニングのテーブルに薄いグリーンのクロスが、2枚広げられ、その上に美しく盛られたオムライスとオニオンスープ、それと鮮やかなブロッコリーがのったサラダが並べられていた。
「へえ、うまそうだ!」
聖護から笑顔がこぼれる。涼子はその様子に目を細める。
「背がぐんぐん伸びる成長期だからたくさん食べるのよ。ご飯は多めにしてあるから。遠慮せずにね。」
「はい。」
聖護は顔を赤らめて嬉しそうに頷いた。
涼子の作る料理は思いのほかおいしかった。シンプルなのになぜかなじんだ味で聖護にとっては、レストランで食べるものより、好きだと感じた。聖護がおいしそうに平らげると、涼子はうれしそうに笑った。
「気持ちのいいたべっぷりね。作ったほうもうれしいわ。」
「おいしいですよ。先生料理上手です。驚きました。」
「そう?うれしいわ。あなたがまたかわいく見えてきたわ。ふふふ。」
聖護がまた、困ったような顔して照れる。
「ははは。また照れてる。あなたをいじるの楽しくて、つい一言サービスしちゃうのよね♪」
そういって麦茶をグラスに足してくれた。
「ねえ、それで、どうだったの?合宿。」
涼子は聖護にやっと話を切り出した。
「あの子、あれから、また雰囲気変わったわ。医務室に来る回数減ったしね。この間見かけたんだけど、あなたとも自然に話しをするようになってたじゃない。あの子、少し微笑んでたわ。すごい変化よ!あんな表情見たことないもの。何したの?聖護くん。」
聖護は照れるようにしながらも、言葉を選んで涼子に話を始めた。
「あいつ、夢見ながら、泣いてたんだ。」
涼子ははっとした。
「俺、それ見たらなんだかほっとけなくて。おかしいかも知れないけど、俺に助けを求めるように伸ばしてきた手をずっと握ってやってたんだ。それだけです。2日間、眠っている時、紫織の傍にいただけです。」
さすがに魔物の話はできないので、聖護は言葉を選んで涼子に話をした。聖護は、ふとイサキが自分たちの魂は同じ響きで引き合っているという話をいていたのを思い出した。今までのことを何度思い返しても紫織との間には見えない何かかがある気がしていた。それにあの自分の中からわいてくる不思議な力。そう言えば、紫織が危険になるとその力を無意識に使っている。あれはなんだろう?きっと紫織との間にある見えない何かが関係してるのだろう。聖護はいつの間にかぼんやり考え事をしていた。どこか遠い目をしている聖護に気付いて涼子は二人に何かあったことを感じた。
「他に紫織君に変わったことはなかった?」
「ええ、あ・・・でも、行くときあいつ熱あって・・・。」
「熱?やっぱり?」
「なんだかひどくだるそうだった。様子見てあまり調子が悪いなら先生に電話しようかとも思ったんだけど、着いた日の午後にはよくなったみたいだったから、そのまま結局電話しなかったんです。」
「熱が引いた?」
涼子がいぶかしげな顔をした。
「はい・・・、なにか?」
聖護は涼子の様子に気付いて尋ねる。
「あの子、神経過敏だから、気に病むことがあるとすぐ高熱だすのよ、昔から。合宿前は頻繁だったわ。えらく総真が心配していたもの。あの日の朝、総真があまりに顔色が悪そうだったから休むようにしようかと聞いたら、紫織君大丈夫だからって言って出かけて行ったらしいの。やっぱり熱あったのね。」
少し、難しそうな顔して言ったかと思うと急にふっと笑った。
「でも、あなたね。彼の心の中の何かを癒したのね、きっと。もしかしたら、君に会いたかったのかもね。」
涼子は安堵するような顔して言った。
「うん、でも…。」
聖護は浮かない顔をする。
「あいつが時々わからないんだ。あの時確かに心を開いたはずなのに、すぐに心を隠すんだ。今日の朝は確かに近くに感じたのに、医務室から戻った後の紫織はまた、前みたいにすかして俺を遠ざけるんだ。」
「え?今日?紫織君医務室なんて来てないわよ。私は健康相談で面談があるから朝から居たもの。用事があるから待ってたんだけど、めずらしく現れなかったわ。」
「え?来てない?でも、紫織は医務室は開いてなかったって。」
聖護は、眉間にしわを寄せて少し不機嫌な顔をした。
「あいつ…。なんで嘘を…。」
聖護は紫織の傷だらけの手を思い出した。聖護たちと別れてから何かがあったのだ。何を隠している?紫織?聖護は難しい顔してじっとからっぽになったグラスを見ていた。
食事後、涼子は聖護を自宅まで送っていった。その帰り際に涼子が聖護に後ろから声をかける。
「聖護くん!紫織くんのことたのむわね。あの子、きっとあなたは特別だと思うの。なぜかはわからないけど。私たちにも見せないあの子の闇の部分を癒せるのはあなたしか居ないみたいだわ。もう少し待ってあげて。前にもいったけど、ずっと凍ってたんだもの。すぐには解けないわ。でも、あなたが今一番紫織君の近くにいると思うの。あの子は君を必要としている。」
涼子がまっすぐに聖護の瞳を捉えて低い声で静かにいう。聖護はしばらくじっと涼子の目を見返していたが、やがて黙って頷いた。そして、丁寧にお辞儀をするときびすを返して歩きだした。
「また、来なさいよ。いつでもごちそうするわ。弟君。」
涼子はその背中に今度は元気よくいつもの調子で笑顔で声をかける。聖護も笑顔で振り返って一度手を振るとすぐに家の中に入っていった。
紫織が何か隠していることを不信に思う聖護。聖護は紫織の態度が腑に落ちない。そして、斉藤の様子が気になる紫織。次回もどうぞ、お付き合いください。m(__)m