【侍女控室】朝の紅茶と、“歩く粛清”──控室には今日も小さな悲鳴が満ちている
王宮の朝は、静かで優雅──などという幻想を、控室で働く侍女たちはとっくに捨てています。
今日も“あの方”が動き出した、その瞬間から戦場は始まるのです。
アリシア様を支える侍女・セリナの、ちょっと切実で、ちょっと笑える朝の記録。
──翠月の朝。王城南翼の控室には、ほんのりとミントの香りが漂っていた。
けれど、空気はどこか重く、ぴんと張り詰めていた。
「……セリナさん、顔、真っ白よ?」
「えっ? そ、そんなことありませんわ」
ぎこちない笑みを浮かべながら、セリナはそっと手に持ったティーカップをテーブルに戻した。
その仕草は、まるで戦場帰りの兵士のように慎重だった。
「その動き、どう見ても“無事生還しました”のテンプレですわよ……」
「……何があったのよ。朝からそのテンションって、何事?」
控室にいた侍女たちが、視線を交わしながら問いかける。
セリナは一度、深く、深く息を吸い──
「来たんですのよ。“あの方”が」
ぴたり、と控室の空気が止まった。
全員の動きが静止する。
「まさか、また……?」
「王太子殿下」
静かな声で呟かれたその名に、誰かがスプーンを取り落とした。
「え、また来たの!? 朝から!?」
「アリシア様のお部屋に、ご挨拶と称して、突撃訪問でございます……」
「ひえっ……お覚悟完了案件じゃない……!」
セリナは両手を膝に置き、遠い目をして語る。
「わたくし……何もしておりませんの。ただ、そこに“いただけ”ですのに」
「……その時点で、アウトですわよ」
「目が合ってしまって、もう、息が止まりかけて……!
謝って、深々と頭を下げて、逃げるように下がって──でも、
足が震えて動きませんでしたのよぉぉ……!」
「“歩く粛清”、朝から全開ですわね……」
「昨日なんて、リリィさんが廊下で一礼しただけで三日寝込みましたわよ」
「今朝の彼女、声出てませんでしたわね。魂、抜けてた」
誰かが呟く。
「でも……アリシア様は?」
セリナは、ほんの少しだけ顔を上げて──
「まったく、動じることなく紅茶をお淹れになりましたの」
「マジで……?」
「やっぱり、姫様は格が違いますわね……」
「王女の器、ってやつね……」
けれど、セリナはそっと言葉を継ぐ。
「……違いますの。あれは“平然に見せているだけ”ですわ」
全員が息を呑む。
「お茶をお出しになりながらも、手がかすかに震えておられましたの。
たぶん、心臓は……わたくし以上に、ばくばくしていたはずですわ」
しんと静まり返る控室。
それは、気高さという名の仮面を、妹がどれほど美しく保っているかを物語っていた。
「姫様も、毎朝が命懸けなんですのね……」
「王太子殿下って……無言でも“圧”がすごすぎて……」
「ていうか、あの沈黙、空間が歪みますわよね?」
「視線が鋭すぎて、光の屈折が起きてるんじゃ……?」
「控室じゃ“歩く粛清”だけど、本館のほうでは“沈黙の地獄”って言われてるらしいですわよ」
その時、別の侍女がぽつりと漏らした。
「でも、姫様には……あの圧が、届いていないようにも見えますの」
セリナは静かに目を閉じ、かすかに微笑した。
「いいえ、届いていますわ。きっと、誰よりも強く……」
「じゃあ、なんで平気なんでしょうね……」
「……“慣れ”か、“覚悟”か、もしくは……“信頼”かもしれませんわね」
沈黙が、ふたたび控室を包んだ。
──そして、セリナはゆっくりと椅子に沈み、静かに紅茶を飲み干す。
「……それにしても、朝からあれは、きついですわ……」
「ええ、誰か倒れるわね、確実に……」
「いまのところの筆頭候補、あなたですけれど?」
「ええ。自覚してますの……」
セリナは苦笑し、そっとつぶやいた。
「……どこか、静かな山奥に隠居したいですわ……」
控室には、茶菓子の香りと共に、
王太子の“圧”に耐える女たちの小さな祈りが、今日もそっと漂っていた。