この日を待ち望んでいました
寝台からすぐに降り、よろよろと礼をする。
「イレイェンと申します、フェーリーン公爵令嬢の……。あの、あの、申し訳ございません、あの……」
どう考えてもとんでもない失態に、震え上がる。縁談相手をおばけと間違えた挙句、その相手の目の前で気絶するなど。
実母が生きていたら逆に気絶させられるほど殴られる事態だったろう。
逆に、よかったではないか。縁談は破談になりそうだ。大公殿下に恥をかかせずに。
「……イレイェン殿。存じております……」
アルヴィッド殿下はふんわりと微笑んだ。穏和そうな人柄だ。
「……別に謝罪する必要などありません。僕もやるかもしれませんし……」
そういいながらはにかんでうつむく姿はまだあどけなく、私より七つ年下なのがよくわかる。
「あの……」
また謝罪しようとすると、アルヴィッド殿下の目がすっと細められた。
「……二人っきりにさせていただけませんか?」
そういえばそういうお話だったなあ。
お父様とロヴィーサお母様は顔を見合す。殿下は無垢で柔らかいあどけない表情を二人にむけた。
「イレイェン殿と、ゆっくりお話ししたいなあって……。……いけませんか?」
お母様のほうが顔を真っ赤にして、「まあ、愛らしいお方」とうつむいた。
「そうね! そうだわ。そういうお話でしたし、あとはお若いお二人に。イレイェンはしっかりしているし、大丈夫よ……!」
年下の妻に甘い父はうなずいた。
「そうだな」
そうして二人は出て行く。
一人残された私は緊張の上に緊張を重ねていた。
——何のお叱りかしら!? やめてえええ!!!
どうしよう……。まずい。私は震え上がる。震えながらアルヴィッド殿下を見ると、その泉の底のごとき翠の瞳がまたもや細められた。
——まあ、でも、私も、自分が殿下よりはるかに年上であるというお話はしやす……。いや、顔見ればわかるわよね?
ああ、と気づいた。ひょっとして、彼は父たちに話しづらいことをするのかもしれない。フェーリーン公爵を敵に回したくないような話を。二人っきりで話せばことは穏便に済むと思っているのかも。
殿下と別れ、別室に案内される。衣装を整え、化粧を直す。
アルヴィッド殿下のいたところへ戻ると、彼は窓辺で庭を見ていた。私が戻ったことに気づくと、近くに寄ってきた。
そっと肩を掴まれ、引かれた。彼の首筋のあたりに顔を押し当てられる。
な、なにするのよ!
「……あ、あの」
「……愛しています、イレイェン。この日を待ち望んでいました」
耳元に唇を押し当てられ、ささやかれた。ちょっと待てぃ!
「……あの、私は随分と殿下より年上ですわ。殿下は何か勘違いされ——」
くすり、と彼が笑う。
「僕の顔、覚えていませんか……?」
「……え」
降り積もった山奥の雪より白い肌。
輝く鳶色の巻き髪。
泉の水底を思わす切れ長の翠の瞳。
——みたこと、あったかしら。
記憶の大海原を泳いでいく。すると、ひとつ、優しくはかない時間があったのを思い出した。小さい子供に、迷子を助けてもらった記憶。
その子供は、目の前の青年とよく似ていた。
——え? あ、あぁ、あれ、あぁぁ、あ?
「あ、の、そのう」
「何でしょう?」
きらびやかに、殿下が首を傾げる。
「あのときの、ぼく?」
「はい。その節はお助けいただき、ありがとうございました」
「助けられたのは私の方で……、ありがとうございます」
「いえ。僕が救われました。血を拭ってくれて、手当てまでしてくれて、医者の心配までしてくれて。不安な時に一緒にいてくれて。お優しいお姉さまだなと思いました。最初はそれで済んだのですけれど、十四歳を過ぎるあたりから、どんどん感情が止まらなくなって——」
「……か、感情が?」
しっかりと腕のなかに閉じ込められる。
「あなたのものになりたいという感情が。こうして、あなたを抱きしめていたいという気持ちが。まったく止まらず……どんどん濃縮されて」
「濃縮……?」
「あなたのことなら全て知っているつもりでいました。でも、おばけが苦手なのを知らなかったので……、僕は恋人失格です。お許しください」
殿下はさらにきつく私を抱きしめ、うなじに顔を埋めてきた。
や、め、なさい、たかが十八の子供のくせに!
しかも、なんだか……。
「知らないのは当然だと思いますよ……、うっ」
「そんな……、許してくださるのですか、僕の女神?」
「私こそ、無礼ばかり働いて申し訳ございません……く、」
苦しい。アルヴィッド殿下がきつく抱きしめてくるのが苦しい。
——背骨と肋骨を、粉砕される……!
私はまたもや泡を吹いて失神した。殿下は「ああっ」と顔を青ざめさせる。
そんなわけで、縁談がまとまってしまった。