二日酔い
翌日は、地面を突き刺すようなひどい雨の音で目が覚めた。頭がぼんやりと重く、私はうめく。
「あぁ、頭痛、二日酔いだあ……」
自分って酒量の調整がまったくできないんだな、と別の意味でも頭を抱えていると、腰のあたりに温かい締め付けを感じた。耳には優しい吐息を感じる。ぴったりと、自分の身体に何かがくっついている。
こんなときにおばけなの、と震えるが、足が二本ちゃんとあるのを感じた。
振り向く。
アルヴィッドが自分を抱きしめて寝息を立てていた。
カーテンの隙間から漏れ出る朝日に反射して、青年は美しかった。雪を思わす白い肌は輝いていた。白い枕の上の鳶色の巻き髪も艶やかで、眼は水晶を秘め隠しているようにきらめく長い睫毛に縁取られている。
彼を見てぼんやりしていると、彼の大きな手がもぞもぞ動いた。
よりきつく抱きしめられる。
「ぎゃああああああああ!!! アルヴィッド殿下ぁぁぁぁ!!! 肋骨折れるぅぅ!!」
叫ぶと、アルヴィッドが目を覚ます。
「おはよう、イレイェン。……こういう私的な場では殿下などと言わなくてもいいのに。アルヴィッドでいいのに。アルとか」
私は恥ずかしくなって顔を背けた。そうしていながら、ちらりとアルヴィッドを見る。
「……」
「どうしたの?」
「あの……私たち、その」
婚前に過ちをおかしてしまったのではあるまいか。酔っ払った勢いで。
アルヴィッドはその様子を見て、にやりと笑う。
「何かあったと思ってるの?」
この、なんか腹がたつなあ。
「イレイェンは僕が好きなんだ。僕たちはまだキスもそこそこなのに……僕は理性を総動員させて眠ったのに……」
「……」
「……いい加減、しておく?」
仰向けになった私の上に覆いかぶさり、アルヴィッドは私の唇に自分の唇を重ねた。お互いの目を見交わすと、激しく貪られた。
朝から何って、なんって口づけを!!
唇が離されると、今度は首筋に口づけを落とされた。その唇は、首筋から鎖骨までを探検していく。
思わず首をのけぞらせる。アルヴィッドは、目をうっすら細めながら、喉に噛みつくようにくちづけた。独占の証を刻み込まれる。
「イレイェンは、僕のものですから」
昨日のことを思いだす。寝て忘れてくれればよかったのに。
——まったく、なんっていう婚約者なんだ。
起き上がり、その鳶色の頭を撫でる。母を早くに亡くし、母代わりの乳母に苛まれた彼の頭を。
彼は私の胸の中に顔をうずめた。彼の頭を撫でながら囁く。
「わかりましたから。私はあなたのものです。だから派手なやきもちはやめてください」
「やめない」
「あんまり派手にやきもちを焼くと、私は疲れて逃げますよ」
アルヴィッドがしわくちゃな顔になって何もかもをこらえている。
「……うん、そんな顔するんだったらいいですよ……もう、多少のやきもちは。でも」
私は彼の頬に指をやり、青年の唇をそっと奪った。
「お仕事の都合があったとはいえど、マデリエネ様を巻き込んだことはよくありません。謝りにまいりましょう」
「……あれに?」
アルヴィッドはとろんとしていた翠の瞳を不機嫌そうに逸らした。困った子だぁ。
「どんなお方でも、です。自分のお気持ちが少しお強い乙女。まだうぶな少女でございましょう。アルヴィッド様は女心を弄んでしまわれたかと」
「……」
私としては、少々面倒な娘なのでマデリエネを遠巻きに見ていたい。だが、このまま放置して魔術だなんだと言われてこれ以上大事にされても困る。
だが、と外を見れば景色が見えないほどのひどい雨だった。ざあざあと降って、ここから外へ動くことは出来なさそうだった。
アルヴィッドが抱きしめてくる。
「今日一日は僕と過ごそう?」
イレイェンは、おばあさまのお家なんだけれど、胸に伸びてくる手を握りしめた。
「そうですね。迷惑をかけたおばあさまやロヴィーサお母様や周りの方々に謝りたいので、一緒に朝食を頂きに食堂にまいりましょうか」
「……僕のものだという証に、一日中ベッドの上でなまめかしいことをしよう」
「そういうのはあと五年くらい先。十八歳は元気に朝ごはんを食べましょう」
「やっぱりそういうものいいができるってことはさ、イレイェンって兄上の寵愛をかなりうけてたでしょ」
「お話しした通りです。逃げました」
アルヴィッドはしわくちゃな顔をしてうつむいた。
◆
朝は烈しかった雨が突如止んだのは夕方のことだった。
カルネウス侯爵令嬢マデリエネは、豪奢なソファに横たわり、爪を噛んでいた。
「また殿下が魔女に魔術を掛けられてしまった……」
魔女は恐ろしいものだ。
アルヴィッドを取り戻し、正気に戻らせたかと思った音楽鑑賞会。少し、兄が人をよく殴っているかどうかとかそういうことを聞かれたが、よくわからなかったので曖昧に返答したのは覚えている。
だが、その場に魔女がいた。魔女は魔女の家族と結託し、アルヴィッドを魔女と一つの部屋に閉じこめて、また魔術をかけた。
正気を奪われたアルヴィッドはもう魔女に夢中になってしまっている。
「わたくしは殿下を心配しているのに……」
思いに耽っていると、ガタンという音が聞こえた。
カルネウス侯爵がずぶ濡れのドロドロになっていた。
「お兄様~!! 聞いてくださいませ!!!」
マデリエネはそれにかまわず、彼のほうへ向かう。
「は!? なんだよマデリエネ! 俺はあのけち臭い商人と交渉してきて疲れてるんだ!」
「まあ! ひどい物言い。魔女を見たのよ! 魔女なの」
「何が魔女だ……?」
「フェーリーン公爵令嬢は魔女なの。昨日、アルヴィッド殿下の御心を取り戻せたの。でもね、魔女に会った途端、魔女の家族が殿下を取り込んで、殿下を操って私から引き離したのよ!」
その妹の金切り声に、カルネウス侯爵は呆れた顔をしながら上着を脱いだ。
「それは、その、フェーリーン公爵令嬢とミュルバリ大公殿下が、くだらない痴話喧嘩でもしてたんじゃないのか? それで、じゃあ、ってムカついた殿下は、令嬢に見せつけるためにお前と一緒に音楽鑑賞会に行って、それでフェーリーン公爵令嬢の家族が殿下と令嬢を仲直りさせただけでは?」
「そんなことない! 魔女なのよ!!」
「どこが魔女なんだよ。痴話喧嘩なんて、幸せそうでうらやましい限りで——あ」
どろどろの衣服をすべて脱ぎ、ほぼ全裸の状態でカルネウス侯爵は思いを巡らす。
「使えるな。フェーリーン公爵に少し傷をつけてやろうか」
国家権力の強化と法制度の発展により、異端や魔女を本心から信じる人間はほとんどいない。治安を乱す人間は国家が管理する。そこに思想や経歴や普段の行いは関係なく、魔女と言われようとも法的に問題ない女性は無実の女性として救われていた。
そんなことが続くと、魔女とは言葉遊びの一種に成り下がる。
それに薬草の調合に通じ、未来を占ってくれる魔女を、庶民は慕っていた歴史もある。
しかし、この国には、魔女を狩り、異端を迫害する、異端審問という旧弊な制度がいまだに一応存在するのである。
訴えればフェーリーン公爵令嬢は無事ではいられないだろう。令嬢を壊された公爵は今のように精力的に行動できるはずがない。しかも匿名で訴えられる。
カルネウス侯爵は湯につかって泥を落とすと、異端審問官の名前を調べさせ、妹の名前で密告の手紙を書いた。




