人助け
その日、わたしは初めて王宮に参じた。
わたしは十五歳。まだ右も左もわからない年だったけれども、父が国王への挨拶のために王宮へひっぱってきた。
そのせいか。
「ここはどこかしら……」
王宮は国王の暗殺を避けるために迷宮さながら。大理石の回廊が延々と続いており、何度女官から道を説明されても、理解できない。
とうとうわたしは、案内役の女官ともはぐれた。ただただ幾何学模様を描く大理石の廊下が延び、列柱と大窓が続く空間をさまよい歩いている。
「迷ってしまった……」
一瞬だけ、ここでずっと迷っていたほうがいいかも、と思ってしまった。帰っても、いいことなど一つもない。薄氷の上を歩くような日々が続いている。
だが、帰らなければ父が心配するだろう。仕事の忙しい父に迷惑を掛けたくはない。記憶をたどり、足を進める。
そんななか、人のすすり泣く声が聞こえた。
――何?
どきりとする。周囲を窺うが、誰一人としていない。
つまり、出た、のだろうか。
王宮は、その、そこで処刑された人も多いとかいう。出やすい、とも聞く。
――やだやだやだやだ。
よろよろしながら、ふだん真面目に祈りもしない神に祈りを捧げ、早足で歩く。
心臓がバクバクと叫んでいるのを感じながら、ともかく場を離れようと適当な道を行く。
瞬間、足が動かなくなった。
列柱の影に人がいるのを見たからだ。
――やっぱり!! あぁぁぁぁぁぁ!!!
手で口を覆って震えてしまう。しかし、その人影が小さいことに気づく。ん?
――子供? 迷子?
どこかの貴族の子供だろうか。しかし、それにしては砕けた格好をしている。
ひどく美しい子供だった。降り積もった山奥の雪より白い肌。窓からの陽光を跳ね返して輝く鳶色の巻き髪に、泉の水底を思わす翠の大きな瞳。美しく聡明そうな少年は、その瞳に涙をためて、しゃくりあげていた。
「どうしました?」
「ははうえだ! やっぱりここにいればあえるんだ! ゆーれいに」
母親に間違われてしまった。しかも、本当に、出る空間にいるらしい。
少年は、大はしゃぎしながらわたしに抱き着いてきた。
「ははうえ、ははうえがいなくなってから、ぼく、乳母に殴られるのです……!!」
見れば、少年の左腕が恐ろしいほど血まみれだった。誰かに間違われた気もするが、この際どうでもいい。
「大丈夫ですかっ!?」
「あれ? 母上ではない? 足がある? お姉さまはどなたですか? まいご?」
間違って恥ずかしいのは向こうのはずなのに、迷子と言われてこちらにひどい羞恥心が湧いた。なんとなく。
「……イレイェンと申します。フェーリーン公爵令嬢です」
「……いれいぇん、どの……」
少年が頬をそめてうつむいた。その仕草から、本来は内気で穏やかな少年であるらしいとわかった。
おもわず、わたしは、一度も使っていないハンカチを渡していた。
「使ってください! 早くお医者様を呼びましょう」
そういってわたしはハンカチで腕を拭く少年の小さな手を引いて一歩進んだが、そうだったそうだった迷子なのだった。
少年は、「あっち」と回廊の先を指差した。
彼はこの迷宮の迷路をするりと解いてしまった。わたしたちは外に出られた。暑くて緑生い茂る夏の庭に出る。庭の奥に清らかな湧き水があった。
湧き水で少年の腕を洗う。
「ひんやりしてる……」
少年がそういうと、わたしはまるで彼の姉にでもなったような気分になった。
「やはりお医者様を呼びましょう」
そういって少年の左腕に先ほどのハンカチをきつく結ぶと、袖を引かれた。
「おおごとにしたくありません。父上や兄上がおいそがしいのに」
「……そんな、しかし」
「お願いします……! おおごとにされたらまた乳母になぐられる!」
少年の瞳に涙が浮かぶ。わたしは引き下がるほかなかった。
どういうこと、なのだろう。
この迷宮で迷わないということはこの王宮に普段住んでいるということ。こんなに砕けた格好をしているということはたぶん王子の誰か。
王子の誰かが極端に乳母を恐れている?
お父様に相談する? したほうがいいわよね?
そして、結局その子の招きで迷宮から出られたわたしは、帰りの馬車でお父様にそれとなく、小さい王子が乳母に殴られて怪我をしたのを見た、と言った。
それから十年の月日が経過する。