そよ風のライトモティーフ
これは「白いしっぽのキャティ」というお話の導入部です、こども向けっぽい部分なので切り出して童話として投稿します。作中に出てくる色は花の色、服の色は青系統、髪の毛、顔色は赤系統です。少し濃い青とか明るい赤とか書いているとわけがわからなくなったのでそれらしい色名を当てはめました。細かいことは気にしないで、同系色でも少しずつ違うんだなというくらいに考えてください。
「キャティーっ、待ちなさぁーい」
森の中に声が響きました。森の中にはぽっかりと空いた広場があってそには春のお日様の光がやさしく降り注いでいます。一匹の真っ白な獣が森からいきなり飛び出したかと思うと、稲妻のように一直線にその広場を駆け抜けました。広場は端から端まで30メートルくらいしかありませんから、あっという間に横切って反対側の端っこにたどりついたそれはそう真っ白な一匹の子猫でした。子猫はそのまま反対側の森へ飛び込むことはなく広場の端で止まると今走って来た方を振り返りました。子猫はいたずらっぽく小首をかしげて泉のように薄く澄んだ白藍色の瞳をこらしてたった今自分が駆けて来た方を見やりました。まるで待ち人がなかなか現れずに焦れたように体をくねらせて体を入れ替えると元来た方へ前足を出そうとしました。その時です、子猫が飛び出してきたところから追いかけて来た小さな女の子が広場に駆け込んで来ました。その瞬間お日さまを遮っていた雲が途切れて広場を照らす陽光が一瞬明るく輝きました。それは広場一面に咲く花々を照らし辺りは水縹色に色彩が満ちあふれました。薄暗い森から突然光あふれる広場に出たため驚いてしまったのかその子は森から飛び出した所に立ちすくんでしまっています。森の奥から女の子を追いかけて来たそよ風がそっと背中を押しました。彼女の乙女色の髪が美しく風になびきました。彼女は風に誘われるように恐る恐る広場の真ん中まで出ました。降り注いだお日さまの光が彼女を包み込みまるで彼女自身が光り輝いているように見えました。光に飲み込まれそうになり不安になった彼女は来た方を振り返りました。彼女の歩いた跡は花々が踏み倒されて森の出口からここまで一筋の道を作っていました。広場は全面お花畑になっており、水縹色のお花におおわれていたのです。彼女はお花に少し申し訳ない気持ちになりました。視界の端で小さな白いものが動きました。そちらへ目を遣るとそれは花を蹴散らしながらまっしぐらに近づいてきます。そうそれはさっきの子猫でした。
「まあ、キャティ、おいたが過ぎますよ」
足下にじゃれつく子猫をやさしく抱き上げると、彼女は子猫を追いかけて走ってきたためほんのりと朱鷺色に上気した小さな頬で頬ずりしました。そしてその桜色の小さな唇で勝手に逃げ出した子猫に小言を言うのでした。子猫はお小言なんか聞いてられないとばかりに身をよじって少女の腕を逃れました。
「あんまり遠くへ行ってはいけませんよ」
子猫がさほど遠くないところで遊び始めたので少女は好きにさせようと思い、自分もその場に座って乱れた息を整えました。彼女はあくまで年長者らしく振る舞い幼い子猫を導いているつもりでしたが、彼女自身まだ十にも満たない子供でした。
彼女の着る月白色の粗末な服は一面の花に色を失って埋もれてしまいました。水縹色に満たされたお花畑に彼女の乙女色髪と子猫の真っ白な毛並みだけが美しく浮かび上がっていました。
「ずいぶん遠くまで来ちゃったわ」
木々の間を透かして向こうに草原が見え隠れしていました。彼女は森人と呼ばれる森に住む一族の一員でした。その森から出るとそこは果てしなく続く草原でした。彼女の今いる広場は森の端っこにあるようです。残りわずかな木々を抜けるとそこはもう森の外、今日は随分遠くまで冒険してきました。お父さんに連れられて初めて森を出て草原に立ったときのことを彼女は思い出しました。
「ああ、お空があんなに広いだなんて思いもしなかったわ。それに吹く風の強さったら」
でもその時お父さんが言ったことは覚えていたのでしょうか、
「森の外は危険が多い、危険な生き物がちょっとした草むらに潜んでいる、そして身を隠す木々のない草原では見つかったら最後どこまでも追い詰められて逃げとおすことは難しいんだ。だから、決して森から出るんじゃないよ、ティナ」
まだ生まれて間もない森から出たことのない子猫にティナは語りかけました。森の外が危険なこと、決して森から出てはいけないことをお父さんから言い聞かされていたことを思い出しながら。彼女たちは森のずっと奥の方に住んでいるのです。
「ねえ、キャティ。もう帰りましょう。森から出ても面白いことなんてないわ。それに・・・お父さまからもきつく止められているもの」
最後の方は自信なさげに小さな声で言いました。
キャティはお話に退屈したのか花に埋もれて気持ちよさそうに背伸びをしてから寝返りを打ちました。
「まぁ、キャティったら。そうね、森から出なければいいんだわ。ここで少し休んでゆきましょう」
昼下がりのお日さまが広場に光のヴェールをやさしくおろしました。お日さまの光はまばゆいばかりでしたが、ちょっとお昼寝するにはとても気持ちのよい午後でした。彼女も子猫に習って仰向けに寝転びました。
「ああ、生きているって本当に楽しいわ。ねぇ、キャティ」
そんなことを言いはしましたが、本当は自分の言った言葉の意味など理解していませんでした、村の大人が言っていたかっこいい言葉をまねただけなのです。
キャティの耳が鋭く動き一瞬の間を置かず戦闘態勢を整えました。白くきゃしゃなしっぽは今は普段の3倍程にもふくらんでいました。細くなったキャティの瞳は狙撃手よりも正確に標的を捉えていました。キャティの小さな頭脳が精密にその方位と距離を測量して全身に正確に指令を出しました。深く前傾姿勢をとり高く突き上げられた子猫のしっぽは白く光ったあと3度ばかり左に修正されました。もはや獲物の命運は風前の灯でした。
「まぁ、およしなさい、キャティ」
彼女が制止する間もなく、攻撃は遂行されました。キャティの鋭い爪と牙で無残にも引き裂かれた花びらはかすかな芳香を残して草海に沈んでゆきました。
「キャティ、なんてことをするの。お花をけ散らすなんて。獣のすることだわ」
と言った本人も獣を見たこともないし、どのようなものかも知らないのでした。そんなことはお構いなしとばかりに、獲物を見事に仕留めたキャティは、戻ってくるとティナのひざの上でふんぞり返りました。
『ご覧の通り敵は殲滅いたしました。当方の損害は微々たるものです」
そう報告するようにティナを見上げるキャティは毛なみこそ少し乱れてはいましたが花片一つついておらず、戦闘が一方的勝利に終わったことを裏付けていました。
「あなたはいつからそんな乱暴者になったの、本当に。レディーは」
と自分の古い言葉遣いに幾分酔いしれるように言いました。
「常におしとやかにしていなければならないのよ。美しいお花はやさしくいたわってあげるものよ」
自分にできる最大限に難しい言葉を並べて言いました。
そんなお説教にはお構いなしに、あくまでマイペースなキャティは無心に毛づくろいを始めました。ティナはティナで、キャティのことなど忘れてしまって今言った自分の言葉に有頂天になっていました。
「わたしには、この子を正しく導いてあげる義務があるのよ」
と彼女はわざわざ難しい言葉を選びました。それぞれが自分勝手にしている二人はお互いの心は離れ離れなのに奇妙な一体感がありました。
「まあ、今度は何しているの」
ティナが想像の世界から返ってくるとおかしなことになっていました。キャティが蝶々をとらまえようと時に立ち上がって二足歩行になりながらあっちへよろよろ、こっちへよたよたとしていたのです。蝶々はキャティの爪があとほんの少しで届くかというところで右に左に巧みに身をかわすのでした。透き通るように鮮やかな瑠璃色の翅にきらめくような唐紅の模様を散らした蝶々は、しかし飛んで行ってしまうこともせず、まるでキャティをからかうように花から花へひらひらと飛び渡っています。いかな狩猟の名手キャティもこれには手も足も出ませんでした。とらまえようとして後ろ足で立ち上がって伸びあがり、前足を空へ伸ばすのですがすぐにバランスを失って花の中にダイブしてしまいます。
「キャティ、ようく狙うのよ」
キャティの踊りがあんまりおもしろいのでティナはきゃっきゃっと笑いながらアドバイスをしました。
「でも、蝶々さんを傷つけてはだめよ。美しいものをいじめるのはいけないことだわ」
やがてキャティは戦術を変えたのか、身体を伏せて花の中に沈みました。そのまま身じろぎもしないでじっとしておりましたが、目だけはせわしなく自由に飛び回る蝶々を追っていました。きわめて小さいながらもとても優秀な頭脳は常に敵の位置と速度を計算し数秒後の位置を予測し続けています。そして、狙いを定めるとその白く光るしっぽをゆらしてバランスをとり蝶々に飛びかかろうとするのですが、そのたびにひらりひらりと予測しなかった方へ蝶々が飛んでゆくものですから結局飛び出すことができません、ただ白いしっぽだけが右に左に蝶々の動きに呼応してゆらゆらと揺れているだけでした。
「今度ばかりはあなたの負けね、キャティ」
その様子をながめていたティナはとうとう噴き出してしまいました。キャティのしっぽ踊りにも飽きてしまったティナは今度は自分の座っている周りのお花を摘み始めました。それはティナの大好きなティトリーの花で、こんなに群生している場所は他知りません。大好きなお花に囲まれてティナはとても幸せを感じていました。摘んだ花々を束ねて今度は熱心に編み始めました、水縹色の花は彼女の小さな指の間をとても器用に往ったり来たりしています。
「こんなにティトリーのお花が咲いているなんて。ここはわたしとキャティだけの秘密の場所にしておきましょう」
ティトリーは森の主ティトリーナが愛している花でした。ティトリーナは何よりも美しく、いつも七色の森の妖精を従えていてその姿は水縹色に輝いているとされていましたが、ティナの知るだれもその姿を見た者はおりません。ティトリーは普段は水縹色の特に目立つところもない平凡なお花でしたが、お日さまの光を透かして見ると、まるで違った花になったように、その色を微妙に変化させます。風の吹き具合、光線のちょっとした揺らぎを受けてその色は様々に変わり一瞬たりとも同じ色を留めることはありません。
とうとう小さな花冠が出来上がりました。さっそくそれを頭に載せるとくるくると踊り出しました。
「見て、キャティ」
とうに蝶々をあきらめていたキャティは、すっかり疲れてしまったという態で花に埋もれて体を伸ばして寝転がっていましたが、ティナに呼びかけられるとものうげに頭を少しだけもたげてくるくる回る彼女の姿を見ました。お日さまを受けてティトリー頭上の花冠からは七色の光がこぼれ、月白色の衣装をまとったティナの姿をまるで森の主ティトリーナのように見せました。
「ねっ、とっても素敵でしょ」
その時でした、お日さまがちょうど頭上に来ました。広場一帯に光は満ちあふれ一面のティトリーが一斉に輝き出しました。ティナの口は言葉を忘れ、その耳は音を忘れ、その目は形を忘れて千にも万にも変化する多彩の色彩にただうっとりとしてその光景に魅入りました。
『これがお父さまがおっしゃっていらした楽園なんだわ。そうに違いないわ』
その思いは心の中に留まって言葉に出ることはありませんでした。
雲が流れお日さまの光は翳りました。ティトリーはほんの一瞬、広場を光と色の園に変えただけですぐに元の淡く地味な花に戻ったのでした。でもティナはうっとりとしたままさっきの光景にまだ酔いしれていました。頭上の花冠は最後の陽光を受けてまだ光を放っておりました。
「そうだわ、もっとティトリーを編みましょう。腕輪や首飾りも作りましょう。体中をティトリーでいっぱい飾るのよ。さあ、あなたにも作ってあげましょう」
そうキャティに声を掛けるとティナは再びせっせせっせと知っている限りの方法で花を編み始めました。その掌からはさまざまな花飾りぴょこんぴょこんとまるで魔法のように次々と飛び出しました。キャティもティナもすぐにティトリーの花飾りに埋もれてしまいました。
「さあ、これであなたもわたしもティトリーの妖精よ」
すっかり妖精気取りのティナはキャティを従えて広場を行進し始めました。目はまっ直ぐに前をみて、背筋をぴんと伸ばして、ティナはなるだけ模範的な妖精になりきるように努めました。花飾りをまとった一人と一匹はティトリーの花園にすっかり溶け込んでしまっておりました。
その時です、森の切れ目から一羽の野兎がひょっこりと飛び出してきたのです。暗い森から明るい広場へ突然飛び出して目がくらんでしまったのか野兎はその場で戸惑っているようでした。そしてティナを見つけると一歩二歩後退りしました。ティナは自分を見ておびえる動物を初めて見ました。森に住む人は決して動物たちを傷つけることはありませんでしたので、森の動物が人を見て怯えるということがなかったからです。
「どうしたの、野兎さん。さあいらっしゃい」
ティナが手を差し伸べると、野兎は驚いてパニック状態に陥りました。しかし、それでも今出て来た森へ逃げ込む様子はありません。森を背に行く手をティナに阻まれて野兎は恐怖に全身総毛立っていました。
「なぁんにもしやしないわよ、ねぇ、キャティ」
どうしていいのかわからずティナも少なからずうろたえて言いました。しかしキャティはその背後、森の木々の向こうに猛スピードでやって来る何者かの気配を感じ取っていました。すぐにティナの目にも森の向こうからやって来る白いものが映りました。
「キャティーっ」
ティナはその得体の知れないものから目を離すことができませんでした。キャティはすでに回避運動を始めています。
「あ、あれは犬よ。危ないわ、キャティ、早く逃げて」
ティナにもやっとそれが危険極まりない犬だということがわかりました。でもキャティは回避運動を続けながらゆっくりと犬の進路の側面に回り込みました。キャティは恐怖がティナの足を凍り付かせていることをよく知っていました。さらにその背後にある犬よりももっと恐ろしい存在をも感じている子猫でした。ティナは動くこともままならず立ちすくんでいます、恐ろしい雄たけびと共に広場へ飛び出してくる犬をその瞳は捉えました。それはそのまま全速力でこちらへ向かって駆けてきます。その時です、「シャーッ」とキャティが犬を威嚇しました。思いもよらない方向から威嚇されて犬は一瞬止まり、キャティの方に向き直りました。このときティナの呪縛は溶けました。動けるようになったティナはすぐにキャティを助けに行こうとしましたが、今度はキャティの放つものすごい気迫に押されてそちらへ足を運ぶことができません。「早く逃げて」ティナはキャティがそう伝えようとしていることが分かった気がしました。キャティは囮となって犬の注意をティナから逸らしてくれていたのです。ぐずぐずしていると今度はキャティが危ない、そう考えるティナの瞳にその犬を追って広場へ飛び出したもっと危険なものが映りました。それは少年の姿をしていたのですがティナには恐ろしい化物に見えました。恐怖で体がすくむ間もなくティナは踵を返して一目散に広場の反対側へ向かって駆けだしました。それを見るとキャティは犬を威嚇しつつ自分もティナの後を追いました。凶暴な犬はワンワンと激しくほえたてながら彼女たちを追いかけます。必死で逃げるティナの背後からは身につけていた花飾りが次々とこぼれ落ちてゆきました。それはまるで残像のようにその青い光となってティナの姿を晦ませ犬の追跡を鈍らせました。こうして一人と一匹は辛くも犬口を逃れてあっという間に森に消えたのでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どんどん離れてゆく子犬をむなしく目で追いながらルバオは自分の足の遅さをこれほど腹立たしく思ったことがありませんでした。その彼の目の前で突然森がなくなりました。
「まて、ヴァンサ。うかつな」
野兎を追いかけるのに夢中で不用意にも森の中から広場に飛び出そうとする自分の子犬を止めようと必死に叫びました。
『これはまずいぞ、森人がいるかも知れないのに。よしいないとしても見通しの利く広場に出てしまったら森の中からでも見つけられてしまうかもしれない。』
まだ躾の十分にできていない子犬のヴァンサが野兎を追いかけて森へ飛び込んでしまったのです。森の恐ろしさをまだ小さな子犬のヴァンサには教えていませんでした。草原の民であるルバオは自分が今いるのが森人の領域であることを痛感していました。それでも彼がヴァンサを追って広場に飛び出す決心をするのにほんの半歩もかかりませんでした。
「ヴァっ・・」
広場に飛び出しながらヴァンサを呼び止めるルバオの叫びはのどから全て出てしまう前に飲み込まれてしまいました。と同時にルバオの足もぴたりと止まりました。広場の中央にティトリーの妖精が淡い青の光をまとって立っていたのです。
『俺はどこに迷い込んでしまったのだ。俺の魂はまだ俺の身体の中にあるのだろうか』
ルバオの視界からは妖精のまとう水縹色以外の色彩が消えてしまいました、そして胸の中が空っぽになってしまったような錯覚を彼は覚えました。生まれて初めて真実の美をルバオは見たのです。思わず知らずのうちに彼は跪いていました。命ある人の身が見ることを許されていないのに自らの姿を見てしまった者を戒めるように露草色の瞳を怒らせて妖精は彼をにらんでいます。森を抜けて来たそよ風がやさしく妖精の髪を揺らし乙女色のきらめきを散らしました。彼女の内にあるあふれるばかりの慈しみの心が全世界を照らしたのを彼は感じました。ルバオの唇は震え目には自ずと涙が浮かびました。一瞬の後妖精は振り返ると水縹色の幻影を残しながら走り去ってゆきました。優れた狩人であるルバオは恐れ多くも妖精を追跡しようとしましたが、森へ深く入る危険を悟り足を止めました。
「ヴァンサ」
鋭く叫んで、妖精を追いかけて無謀にも森に飛び込もうとする愛犬を呼び戻し、そのまま今来た方へ踵を返すと急いで広場を去りました。森を出たルバオはまっ直ぐ仲間のいる草原の営地に戻りました。そこで森の偵察をしてきた仲間の報告を聞いた彼はあの妖精が森の民の長の娘のティナであることを知りました。
『森の民は食料を得るのに作物を育て、高い志を持ち、決して殺生をしないという。あの美しい民を俺たちは敵にしようというのか』
焚火の番でゆらめくオレンジ色の炎をぼんやりと見ながらルバオはさっき聞いた報告について考えていました。昼間に見た水縹色の光を残して走り去った美しい妖精の姿がルバオの心を占めていました。
「何を考え込んでいるのだ、ルバオ。お前らしくもない。頭より先に手足を動かせ。考えても獲物は獲れんぞ」
兄のルバシが隣に座って言いました。ルバオ達草原の民は獲物を追って草原を移動する狩猟の民でした。
少し時を戻しましょう、ルバオが森から走り去るときのこと、彼は暗い影のようなものとすれ違いました。それは暗くて木々の陰に馴染んでよく見えませんでしたのでルバオはそれとすれ違ったことに気づきませんでした。ものすごいスピードで走り去るルバオをあっけにとられたように見送るとその影はさっきまでティナとルバオのいた広場の方へ向かって歩き出しました。よく見るとそれは人の姿をしています。山高帽を被り白シャツに燕尾服を羽織りボーダーのパンツをサスペンダーで吊っているといういで立ちをしていました。手には白手袋をはめ、ひどいがに股の足には彼にはちょっと大きすぎるどた靴を不格好に履いています。彼は手に持ったステッキをくるくると器用にまわしながら体を左右に揺らし手足をばたばたさせながらへこたんへこたんと不器用そうに歩いてゆきました。そう、まるでペンギンが歩いているように、あるいは映画俳優のチャーリーチャップリンの脚がとても短くなったらこんな歩き方をするに違いありません。
草原から森に入ってすぐのところで彼は一体の偶像を見つけました。物珍しそうにそれを見上げる顔は山高帽を目深にかぶり大きなマスクで覆われていて表情は読み取れませんでしたが、わずかに見える目元の皺は相当の年配を思わせますし、罪のないかのようにつぶらな瞳はまだ若者なのかもしれないと思わせました。像をじっと見つめる眼差しは思慮深く賢明な様子ですが時折浮かぶいたずらっぽく目を細める様子からはちょっと間の抜けたおっちょこちょいといった印象を受けます。
「ふぅむ、こいつは珍しいわい。こんな辺境の地でサタンの像を拝めようとは思いもよらなかったわい。」
彼はそうつぶやくともう興味が失せたのか、サタンの像を見捨てて森の奥に入ってゆきました。少し進むとさっきティナとルバオが対峙していた広場へ出ました。そこでは一面のティトリーの水縹色の花が広場を美しく埋め尽くして今起こった出来事の痕跡を覆い隠していました。その美しさに広場へ踏み出そうとした足を彼は思わず止めました。木々を渡って来たそよ風がお花畑をやさしく吹き抜けました。風に揺れる花びらが広場に差し込むお日さまの光を乱反射させ水縹色の光の氾濫が広場を満遍なく満たしました。さすがの彼もその美しい光景には畏怖の念を抱かざる負えません。彼はそこで進退窮まったのでした。
木々を渡るのは
はるかな海の向こうより
春の訪れを告げるために
はるばると旅をしてきた風
木々はいっせいに芽ぶき
草花はいっせいに萌え
古い樹脂の香りを
あたらしい緑の香りを
そよ風に溶け込ませる
小鳥たちのさえずりや
小動物たちのかすかな足音
まだ眠そうなリスは高い木の上であくびをひとつ
野うさぎたちはてんでばらばらに果てなし競走
木々の若芽の香りはりすのしっぽで鬼ごっこ
草の萌え立つ香りは野兎の耳を回ってワルツを踊る
ひばりはまだ巣の中で大きなあくびをし
春告鳥は歌のおさらいに余念がない
去年の腐った落ち葉の下から
虫たちが這いだして
背伸びをひとつ
空へ向かって飛び出した
土の中のいも虫も
これはこれでぱっちりと目を覚まし
せっせと土を喰べだした
みんなが元気なのを見届けると
満足そうにそよ風は旅立った
まだ春遅い
遠い雪国へ
そよ風が花園を吹き去るとやっと動けるようになって彼は今夜のねぐらを求めて広場へ踏み入ることが出来たのでした。
<おしまい>
作中に登場したのは後の呼び名で森と光の美少女花ティナと草原の勇者ルバオそしてどこかで見たような怪人物、この人は「とんでもないペンギン」のぺんちゃんのなれの果ての姿です。三人の運命がこのおはなしで交わりました。続きのおはなしは童話ではありませんがいつかお披露目できたらなあと思っております。