2001年9月10日(5)
それから、アキヒロはおもむろに席を立って、彼に別れを告げた。
「仕事が終わり次第、このコーヒーショップで待ってます」
彼は、そう言い残して去っていくアキヒロを、ただ目で追うことしか出来なかった。
支払いを済ませ、店の入口のドアノブを掴んだところで、アキヒロは漸く彼の方を振り返った。
「信じてますよ」
これが、彼らの交わした最後の言葉となった。
彼は、アキヒロが去った後も、暫くの間その場に居座った。アキヒロの言葉一つ一つを、丁寧に、思い出す為に。
しかし、彼が記憶を辿れど、思い出せるのは、最後の「報復」についての話だけだった。
「私も貴方も、いや、家族も、ユダヤ人に報復されて死ぬでしょう」
アキヒロのこの話を聞いて、彼は正直、情報を渡したくなくなっていた。彼にとって、家族という、唯一残された幸せを奪われることは、文字通り、死んでも嫌なことだったのだ。
そうして時刻は九時を回り、彼は結局アキヒロの話を上手く呑み込めないまま、とりあえずで動き出した。
店員に紙とペンを持ってきてもらうと、彼は丁寧に数字を走らせていった。
9、1、2。
そして彼は、その紙を四つ折りにして、カウンターまで歩いていくと、店員に向かってこう言った。
「日本人の知り合いが来たら、この紙を渡してくれ」
若い女性の店員は、にこやかに了承し、その上で、冗談交じりに書いてある内容が何なのかを彼に聞いた。
「ちなみに、何書いてあるの? 晩御飯の材料とか?」
「ははっ、まあそんなところだ」
「え、本当!?」
「ああ」
「なんていうか……家族思いなんですね」
彼はそう言われて、とても嬉しくなった。
「ありがとう」
その勢いで、彼は彼女に二十ドルのチップを渡して、その場を離れた。
彼は去り際に「じゃあ、よろしく頼んだよ」言って、ドアを押した。
カランカラン――
鈴が軽快な音を鳴らした。
その日、彼は職場にて、自分が嘘をついていること、アキヒロを騙そうとしていることを、なんとか自分自身の中で正当化した。
「まだ、テロが起こるって決まってるわけじゃない」
「メールはスパムかもしれない」
「アキヒロの杞憂に過ぎない」
確かに、どれもこれも、間違ってはいなかった。彼が受け取ったメールも、ツインタワーが九月十一日に崩壊する、と書いてあっただけで、テロが起こる等は一言も書かれていなかった。
けれども、論理的に正しいかと言われたら、そうでは無いということも、彼は薄々勘づいていた。ただ、彼は勘づいたこと全てを見て見ぬふりして、その上で自分の行動が正義であると言い聞かせることで、自分自身を洗脳することに成功したのだった。
仕事が終わって、彼は、こっそりとコーヒーショップを覗き見することにした。
店の直ぐ側まで来ると、彼はバレないように、向かいのビルの柱の影に隠れた。少し離れていたが、店は異様なほど光り輝いていたので、彼が中の様子を確認するのは造作も無いことだった。
アキヒロは、いつものテーブル席に座って、そして、両の肘を机に乗せて何かを読んでいた。
「あっ」
俺のメモだ。
彼は直感的に、そう思った。
自分の書いたメモが無事に届いたことを知って、彼は安堵した。
と同時に、彼の中で少し引っかかることがあった。たかが十時間前の出来事だったはずなのに、彼は何故か、鮮明に思い出すことが出来なかったのだ。
あのメモは……912は……
あのメモは、九月十二日にテロが起こると嘘をついて、テロの失敗を防ぐ為のもの。912という数字は、彼がアキヒロの話をあまり理解出来ずに、とりあえずで家族の身の安全の為に残した、偽の暗号…………
「ん?」
あれ。
このままでは、アキヒロが死んでしまうのではないか?
彼はそのことに気づくなり、勢い良く柱の影から飛び出して、コーヒーショップの入口へと駆け出した。
が。
数歩走った所で、彼の足は、動くのを止めてしまった。
「……はぁ…………はぁ…………」
彼は、その時、漸く気づいたのだ。
彼が、自分の家族と、これから起こるテロの被害者達、どちらかしか救えないということに。