2001年9月10日(2)
彼とアキヒロの出会いは、運命的だった。
彼は、一月ほど前から特に理由も無く、毎朝職場裏のコーヒーショップに通い詰めていた。ある日、列に並んでいる時に偶然居合わせたアキヒロと、家族の話で意気投合して、それから、彼らは毎朝顔を合わせるようになったのだった。
彼は、アキヒロに少しだけ、憧れていた。
いや、憧れと呼ぶには、距離が近すぎたのだろう。特にここ数日、彼はアキヒロに嫉妬し始めていた。
彼の職場には、彼より圧倒的に賢い人間が多く居たから、アキヒロが、頭が良く、ユーモアのセンスがあるだけの人間だったのなら、まだ、良かったのかもしれない。
彼の嫉妬の原因は、アキヒロに、日常風景を人とは違う視点で分析する能力があったこと。
例えば、彼らがコーヒーショップで列に並んでいた時、彼は自分の会議の時間を気にして、腕時計とにらめっこしていたが、アキヒロはそんな彼の隣で、
「午後から雨なので、お店にとってこの行列は有り難いですよね」
と軽やかに言った。
このように、何気なく吐く言葉一つ取っても、アキヒロの言葉は自身の鋭い着眼点を強調し、説明を請う彼の言葉は、彼の平凡さをより際立たせていた。そして、彼は表面上、アキヒロの優秀さを尊敬しつつも、内心でそのことに微々たる不快感を覚えてしまうのだった。
そもそも、日本人でありながら、英語をネイティブと遜色無く話し、そして、何より、あの「ワールドトレードセンター」で働いているのだと言うのだから、嫉妬しない方がおかしな話だっただろう。
だからといって、思い切ってアキヒロのことを嫌いになってしまうことも、彼には出来なかった。
嫌いになってしまえば、彼の中の劣等感も、醜い嫉妬も、彼を苛ましていた決断すらも、綺麗さっぱり解決すると分かっていた。しかし、彼にとってアキヒロは、嫌われるには良い人過ぎた。
一言で言えば、それは「素直さ」だった。妻の容姿を褒められてニヤニヤしながら喜んだのも、落ち込んでいた人を反射的に慰めようとしたのも、偏に純粋無垢なアキヒロ自身の性格によるものだった。
そんな人間を、私利私欲の為と割り切って嫌悪できるほど、彼の心は廃れていなかった。
もしもこれらがアキヒロの自演だったとしても、他人を疑うこと、他人を裏切ることなど、彼には到底出来なかっただろう。それほど、ユダヤ教徒の家族愛、コミュニティ愛は、無意識下まで浸透したものだったのだ。
ともかく、ここ数日の彼の心境は、言わずもがな、絡まった毛のように複雑で、そして、その毛玉は無視出来ない程大きくなっていた。それは、心の微小なノイズを悟られないように平常を装つことすら、彼が自責の念に駆られてしまう原因に成るほどだった。
ただ、彼の頭痛の原因は、これだけじゃなかった。寧ろ、こっちがメインだったと言っても過言では無かった。
きっかけは、一通のメール。
イスラエルのメッセージサービスで、一週間程前から届いていたそのメールを、彼はスパムだと思い込んで読んでいなかった。だが、この日の明朝、偶然連絡先を整理していた彼は、確認の為にその中身を見たのだ。
いや、見てしまった、と言うべきだろう。
内容は、ワールドトレードセンター、もとい「ツインタワー」の崩壊を予言するものだった。しかも、それが、9月11日という日付が指定されていることから、「崩壊させる予定だ」とも読み取れるものだった。
彼は読み終わってから、冷静に、職場で噂になっていたのはこれのことか、と辻褄を合わせていた。
そして、嘲笑うように、鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
彼は、アキヒロのような優秀さを持ち合わせていなかったが、流石に、噂をそのまま鵜呑みにするほどの阿呆ではなかった。
彼はその連絡先をブロックすると、妻の元に寄ってキスをした後に家を出た。
時計の針は、6時11分を指していた。