中年友情ルーティーン
「お前は何か勘違いしてないか?」
椅子に座った痩せ気味の男が言った。
この痩せ気味の男は高橋という。神経質が街を歩いていると言われるくらい細かい気質を持っている。職場の机にある道具の位置をミリ単位で調節するような男だ。その細かさゆえに、あまり友人ができない。ネクタイの形はもちろんのこと、脱いだ靴の置き方、果ては食事のときの箸置きの有無にまで拘る。
これには大抵の人が閉口してしまう。指摘されることを人は特に嫌がる。彼の癖によって細かいところまで突かれるとうんざりされてしまい、大抵の人はだんだんと近づかなくなってしまう。
しかしそれは彼の他人に対する思いやる心のせいだ。高橋自身、それを愛と呼んで憚らない。厳しい指摘をしようとも、根はやさしさで溢れている。
映画などでは主人公の活躍よりも、脇役の奮闘に静かに涙する。
アクション映画でよくいる主人公を助ける役。大抵は情けなかったり悪い人間だったりするのだが、改心し勇気を振り絞って主人公の援護をする。主人公を叱咤したり、武器をベストタイミングで投げて寄こしたり、肝心なところで応援したりする。
特に、言葉や身体を張って主人公を善の道へ踏みとどまらせるようなものが彼の大いに好むキャラクターだ。そんな彼らに憧れたりもする。入場者にランダムで与えられるキャラクターグッズも、主人公が当たっても、外れの脇役でがっかりしている人と交換したりする。脇役への想いはひっそりと隠して。もちろん、鑑賞後は映画の欠点を同行した人間に躊躇せずに口にする。愛ゆえにだ。
高橋が人の欠点や失敗を指摘するのは、改善こそがその人の人生をより良くする最良の方法だと信じて疑っていないからだ。もちろん、そこには嘲りや嫉妬といった負の気持ちが0ミリに調節されていることは言うまでもない。
それによって人が離れようとも、縁がなかったと、少しの寂しさとともに諦める一種のさわやかさのようなものも持ち合わせている。
そういう男が高橋という人間だった。
そんな彼にも面倒な性格を理解する数少ない友人がいる。
それが向かい合って座った太り気味の男だ。
「そんなことはない。僕は君からもらった手紙持参して、君に会いに来ただけなんだ。ただ、それだけなんだ」
彼の名を森住と言う。
森住は高橋とは正反対のような性格をしている。見た目の通りに、あまり細かいところは拘らない。食欲を始めとした欲望以外に無頓着なところと、見た目の柔和さと、万年肉厚ボディのため、園児のころから悪口を言われ続けてきた。デブはもちろん木偶の坊やウドの大木など、おおよそ思いつくものを想像してもらって構わない。
だが、鈍いと人には思われているが、そんなことは決してない。頭の回転は元々良い。成績も高橋と比べるべくもないが、平均よりはるか上を走っていた。
誰が見ても凡庸な見た目だが、その実、悪口に対して自分の利点のようにしてしまう図太さと狡猾さを兼ね備えている。太った容姿を自覚し、ぼんやりと見られるのをわかっているからこそ、それを利用して相手を油断させ警戒を解いたりすることなど朝飯前だ。
森住は腹芸を自在に使いこなせる。天賦の才と呼んでもいい。加えて、他人の悪意を浴び続け、処世術を獲得してきた森住の人を見る目は確かなものになってゆく。
それゆえに他人を見る目は平等にもなった。醒めた目で自分と周りを見る癖のためだ。
そうしてコミュニケーションモンスターとなった森住は、小学生の時分にはすでに学年すべての人間が友人になっていた。
だが、深いところまでつながる友人はあまりいなかった。そんな中、森住の腹黒さにあっさり気づき、真正面から指摘し、使いどころを注意してきたのは高橋だけだった。容姿の指摘も決して馬鹿にするものではなく、改善を必ず差し挟んできた。
高橋の善意は、冷静な目を持つ森住には見えたのだ。
世間との付き合い方に長けた森住は、目の前に座っている馬鹿正直に口を滑らせてしまう不器用な友人に、ひそかに憧れとわずかな庇護欲を、その時から感じている。
高橋の細かさを森住は寛容さとともに受け止め、森住の鷹揚さとある種のいい加減さを高橋は認めている。そんな不思議で確かな友情が二人の間にはある。
要するに、二人は気心の知れた仲だ。たまに飲みに行ったりもする。いつも森住が誘い、高橋が都合を作る流れが常だった。
だが、その日は勝手が違った。高橋が誘い、森住に都合を作らせるという珍しい流れになったのだ。今日は特に、高橋の機嫌が悪かった。弄ぶペンが、彼の心を表すように苛立たし気味に指の上を跳ねまわっている。
「手紙、ね。ならばその手紙を、まず読むべきだったんだ。それから、きちんとここへアポイントメント取って来るべきだったんだよ。俺が呼び出すまでもなかったんだ。わかるか――」
続きを言おうとした高橋を、森住は首を振って制した。
「いや、読むべきだなんて、とんでもない。なぜならば、直接、本人のところへ来てしまえば内容を聞くことができるからだ。それならば読まなくても問題ないだろう?」
得意げになって胸を反らす。最近自己主張の激しくなった腹の肉も伸びあがるが、体形が変わるわけでもない。
それを見た高橋の眉間に一層しわが寄る。心を落ち着けるために、メガネを中指でそっと直す。
「お前な、手紙というのは、必要だからきちんと書いて、出すものなんだよ。それを読まずに直接来るとは、前代未聞だよ」
心底呆れ半分非難半分の口調で、高橋は言った。
しかし、それにもどこ吹く風という体で、森住は首を振った。
余裕の仕草がまた、鼻に付く。
高橋は再び持ち上がった苛立ちを抑えるために、椅子の背もたれに身体を預けた。痩せ気味の身体は、椅子を大きく見せた。高橋は得意と思っている理性を働かせて、今度はゆったりと返事を待つ構えになった。いちいち苛立っていたら始まらないことを、長年の付き合いで知っているからだ。
「前代未聞の男は、そんな当たり前のことを知らなかったのかね?」
先ほどから芝居かかった仕草で話す森住に合わせ、高橋も舞台俳優を真似して聞いた。
森住も無駄な身振り手振りの動きを交えて反論する。
「さすがに知らないはずはないさ。もちろん、読まずに直接やってきたことに対して、常識が服を着て歩いているような君が怒ることも予想の範疇だよ」
「だったらなぜ?」
「いいかい? 君だから打ち明けよう。今更の僕たちの仲だからね。僕は今、いろいろな悩みを抱えている。仕事の悩みをはじめ、ままならぬ異性関係や趣味の都合、その他もろもろ。君なら知っているだろう?」
「そうだな、ままならんな。特に、異性関係についてはちょくちょく相談に乗ってやってやっているのを、俺は覚えているぞ。取引先の女性、確か山下さんだったか、の嫌がられることは何かとか――」
「今それ言うかな?」
「――だが、これを読まないことと何か関係があるのか? 俺にはさっぱりなんだがな」
先ほどからテーブルの上に置かれた紙きれを高橋は手に取り、ひらひらと仰ぐように、森住の目の前に掲げた。
森住は明後日の方向に顔を逸らした。
「大ありだよ。たくさんの悩みを抱えたまま、君からの手紙を読むことが、とても、そう、とても困難な作業だということを、君は理解するべきなんだ」
愛嬌たっぷりにくりくりと動くはずの瞳には瞼に覆いかぶさったまま。森住は懸命に目をつぶって開こうともしない。どうやっても読みたくないようだ。
高橋は諦めて紙をテーブルへ戻す。
「そんなに長いものではないぞ」
薄目で様子を窺ってから、そっと目を開く森住。
「長さが問題ではないんだ。精神の問題なんだよ」
「精神の?」
「そう。人間忙しいと、楽しかった趣味もまったく楽しめなくなる。そういうものだろう? 多大な負荷の中で、僕は君からの手紙を読めなくなってしまったんだよ」
少し考え込んだ後、高橋は頷いて同意する。
「確かにな。そういう人もいる。そして、そういう人の中にお前が入っていたとは、思いもしなかった。正直に謝ろう」
「よろしい! 謝罪を受け入れよう!」
「だが、これは趣味のものではない。お前にとって必要な情報が書かれている。わかるか? 森住、お前が言う多大な負荷を受けている人間にとって、一番必要な情報なんだよ」
「ああ、僕も莫迦じゃない。それくらいはわかっているのさ。でもね――」
「まだ何かあるのか?」
「大ありだよ。情報というのは知って良いものと、そうではないものと、二種類ある」
「ほう」
「例えば、君がカレー屋さんに行ったとしよう。君はカレーライスを注文し、食することになった」
「ああ。カレーライスは俺の好物の一つだ」
「ちょうどよかった。そう、君はカレーライスを食べて、満足して帰宅するという幸せなルーティンにいるとする」
「ルーティーン」
「ルーティン」
「譲れ」
森住は無視して続ける。
「そう、君は幸せルーティンの最中にいたんだ。ただそのときに、新たな情報が入るとしよう。そのカレーライス屋の一番人気のメニューはカレーうどんだったという情報を」
「客の会話が聞こえたりしたんだろうな」
「そう、その通り。おしゃべりさんの言霊は君の耳に飛び込んでしまったんだ。それによって君は後悔するんだ。カレーライスを注文した後から、徐々に、そして確実に、その後悔の絶対量が肥大していくんだよ」
「たしかに、一番人気と聞いてしまったら、そのカレーうどんにもそそられてしまうな」
「そう、君は情報を得てしまったがために、幸せルーティンが崩されてしまったんだ。本来ならばカレーライスが作り出した幸せの余韻に包まれたまま、帰宅し寝床へ付けたというのに……」
「ルーティーン」
「ルーティン」
「おい」
しばらく睨み合う二人。
そろって咳ばらいをする。
森住が先に口を開く。
「知らないほうが幸せだった情報というのは確実にあるんだよ」
「確かにな。あと俺は寝る前に必ずシャワーを浴びる」
「細かい」
「で、話を戻すと、その紙切れに書かれたものは、知らなくてもいい情報だったと?」
「そう。僕はそう言いたかった。理解してもらえたかな?」
「ああ、言い分はわかった」
「ありがたい。それじゃあ僕はこれで失礼するよ」
森住はさっと席を立つ。コートと荷物を抱えたまま、まんまるボディに似合わない驚くべき俊敏さで扉へ向かう。
「本題に入ろう」
高橋の鋭い声は森住を一瞬止める。
森住の動きを予想していたかのように、一部始終を部屋の隅で聞いていた女が、部屋唯一の出口の扉の鍵をがちゃりと閉めた。
森住が額から垂れた汗を手のひらでぬぐった。
「頼む、どうしても、どうしても聞きたくないんだ。それを聞いたら、僕の幸せのルーティンが崩れてしまう」
「ルーティーン」
「ルーティーン」
「譲られても、結果は変わらんぞ」
「やめて! やめて! 聞きたくない!」
身体の大きい男が脇を締めた状態で耳をふさぐ仕草をする。身悶えも加わって奇妙なダンスになる。
そんな森住の動きを無視して、高橋は封筒を切り、中身を広げる。
「読むぞ、聞け」
「やあああああんああああん」
「尿酸値が7超えてる」
「うぉおおおおおおおお」
「血圧の上もマズいぞ」
「きこえなーいきこえなーいうわれわれはちゅうーじーん」
「血糖値も――」
「ぎゃああああああああ」
女性看護師がクスクスと笑う。
医者である高橋はため息を一つ付いた。
森住はがっくりと丸椅子に腰をおろした。
「少し痩せろ、運動なら多少は付き合ってやるから」
「ゴルフ? 釣り?」
「んにゃ。水泳あたりだな」
「……ぐへぇ」
健康は財産