3.14 運動会の雑用も楽では無い
「そう……」
女は不服そうに口角を下げながら黒いサングラスの上から見定めるように俺を見た。
「あなたもしかして航大と走ってた?」
「航大……?」
なんか聞き覚えのある気がするが……思い出せない。
「そ、佐野航大。二人三脚で」
「あー、あのクソg…………ゴホンッ」
ヤバい思わず心の声が漏れた。俺はなんとか咳払いでなんとか立て直そうとしたが、
「クソ……?」
「あーハハハ……クソ元気なあの子か!ハハハハ」
あっぶねぇ。なんとか乗りきったか。そのセレブ気取り女はかつかつと靴音を鳴らしこちらに距離を詰める。
「私はあの子の母です、その節はどうも。あの子面倒だったでしょう?」
ガチガチに化粧で塗り固められた顔面とは裏腹に口調はずいぶん穏やかになった。案外ちょろいな。
「いえ、別にそんなことは」
「わざわざそんな嘘吐かなくてもいいのに」
嘘、と言うよりは社交辞令というべきだと思う。ここで素直に愚痴を溢すほど俺も馬鹿じゃない。
よし、ここで追加攻撃。
「随分とお綺麗になされてるんですね。うちの母にも少しは見習ってほしいくらいです」
「それはどうも。……あの子のがさつさには本当手を焼くわ。あの顔もあの品の無さも何もかも私と似てないのよ」
オホホホホ、と花魁のような高笑いを披露する佐野母。
うーん、確かにな。この母親からあの類いのクソガキが生まれるのは不思議だ、もっとキザでスネ夫のようなやつだったなら納得がいくんだが。
そんな事を考えていると、ふとある疑問が俺の脳裏を過った。
「せっかく佐野くんを観に来ていらしたならお母様も参加すれば良かったのではないですか?彼もそれを望んでいるようでしたし」
もっともそんな格好じゃあグラウンドにすら上がれないと思うがな。
佐野母は再びサングラスに手を掛け、ギロとそのバカデカい眼球を向ける。
「嫌ね、そんなの」
おお……予想以上の拒絶……。
しかもサングラスの上から覗く大きな瞳には光がない。なんか訳ありっぽいな。あまり深く関わらないでおこう。
「ま、まあそうですよね、土とか砂とか汚いですし。じゃあ俺はこの辺で……」
この場を離れようと俺は校舎へ足を運ぶ。が、まだ会話は終わっていなかった。
「違うわ。あの子が来なくて良いと言うから行かないの。まぁ確かに、あんな騒がしい子の親として参加するのは嫌だけど……ほんと何なのかしら、あの子いつになったら……」
佐野母はふっと息を吐き出すように細い声でつらつらと話した。
佐野の言動とこの母親の発言からするに仲違い中なのだろうか。よその親子喧嘩などどうでもいいのだがそれによってこちらが被害を受けるのはごめんだ。
俺は進みかけていた足を止めた。
「佐野くんも色々あるのだと思いますよ。まぁまだ小学生なわけですし」
「あの子の落ち着きのなさは私が悪いって言いたいの?」
「あ、いや、そういう意味では……」
蛇足な一言だったか。サングラス越しでも俺を睨み付けている眼光がビリビリと伝わる。
「……時間が経てばとか思っているのならそれは多分あまり良くないですよ。……ほんの小さな衝突が取り返しのつかない軋轢になったりすることもあるので」
彼女の表情はピクリとも動かず、まるで石像のようだった。突き上げた顎、下がり切った口角。俺に対するあからさまな憎悪を感じる。どうやら俺は地雷を踏んでしまったようだ。
「それはあなたの体験か何か?だとしたら気の毒ね」
「体験と言うか……俺の持論ですね」
お前なんぞに哀れまれたくもないわ!とか言う度胸は無い。ここは引くべき。俺は形だけ会釈をして彼女に背を向けた。
「あなたにそんなこと言われる筋合いは無い。……あなたの方こそこんな反面教師面なんかしてないで自分の問題解決にでも時間を使ったら?その方が互いに有意義だと思うけど」
「そうですね」
全てを見透かされているかのような言葉に俺は珍しく言い訳の1つも思いつかなかった。自分の中に小さく縮こまっていた何かが動き出してしまうような妙な煩わしさを感じ、俺はそのまま校舎へと向かった。
***
「遅かったな柳橋」
「え、ああ、すみません」
体育館にはなぜか城北高校の生徒が全員集まっていた。
「片付けも手伝う予定だったんだがほとんどやることもないようで小学校の先生方で人手は足りてると言われたんだよ」
「じゃあもう帰ってもいいんですね」
今は15時過ぎ。思ったより早く終わったな。16時半くらいを予想していたから良かった。
俺は踵を返し体育館の玄関へ向かう。
「おいおいおいおい!ちょっと待て。一応全員で解散するために集まってたんだぞ」
呆れたように田辺先生に呼び止められた。仕方なくそちらへ戻ると近くに座っていた鈴の手にあったなにやらお茶のようなものが目についた。
……明らかに昼間買ってきたものじゃあないよな。試しに周りを見渡すと俺以外の全員が同じそれを手にしていた。
「なにそれ、貰ったの?」
「ん?まあね。お兄ちゃんのはもう飲んだけど」
「は……?じゃあお前が今持ってるのは?」
「私の」
「そ………」
意味が分からん。なぜ俺の手に回ってくる前に俺のだけ無くなってんだよ。結構喉乾いてたんだけど。
「じゃあ全員揃ったことだし、解散にするか。お疲れさん!」
生徒の中央に立ち田辺先生が先生らしい言葉を掛けると、生徒はゾロゾロと玄関口へと向かっていく。俺もそのあとを追った。
すると隣に暑苦しい気配を纏った生き物が立ち並んできた。
「柳橋。さっきなんかお取り組み中だったみたいだな。あの人、佐野くんの親だろう?」
「まあ、そうみたいでしたね。……見てたんですか」
「おう!一部始終を見させてもらったよ」
いったい何してたんだよこの人……。
なんだか満足げに胸を張る田辺先生は俺の肩にポンと手を乗せた。
「なかなか良いアドバイスだったじゃないか。まるで経験談みたいだったぞ」
「そうですか、経験談ではないですけどね。あのぐらいの時期には部外者からの声が必要だと思うんで」
まぁ、こう格好つけてはみたものの実際解決はしてないんだけどな。俺にもそうする気はなかったし。
「それに……当時の俺に近いものを感じたので」
「ほぉ………そう言えばテントを建てるときお前の話の途中だったよな!」
「え、まぁそう……でしたね」
覚えてたのかよ。普通に忘れかけてたわ。先生の車が停めてある駐車場まではまだいくらか距離がある。このままとぼけるのは無理そうだな。
目の前にはどこから湧くのかわからない興味を全面に出したおば……田辺先生が期待の眼差しを向けている。
「分かりましたよ……中学1年の頃少し気になってた女の子が居たんですよ。けどまぁ色々あって今となっちゃあ顔も名前も覚えて無いんですけどね」
「ほう、一生報われない恋ってやつか」
ふむふむと頷きながら話を聞き入れる。一生か……。他人の話には容赦ねぇな。
「そんな大層なものじゃないと思いますけど。まぁ、話は少し逸れますけど俺、中学入ってすぐに小学校からの仲間とちょっと揉めて数ヶ月で孤立しちゃったんですよ。それからそいつらのグループからちょっとした嫌がらせのようなものを受けて」
「あー!それで今も孤独というわけか!合点がいったよ」
手をポンと叩き満足げだ。今そういう顔する場面なんですかね……?
「それで?今の話はさっきの女の子とどう繋がって行くんだ?」
「あー、そんである時その子も俺の悪口を言っている同じ集団にいたのを見てしまって……」
「なるほど、それで幻滅したってことか……。人に歴史あり」
「いえ、別に幻滅はしてませんよ。ただ、今後関わることはないなって思っただけで」
何が違うのか分からないといった様子で田辺先生は小首を傾げた。しかし、俺も補足はしなかった。
「改めて思ったがお前は優しい人間だな。少し面倒くさいところもあるが」
「優しい……ですか。それって他に誉めるところがない人に使う言葉ですよね」
「ほら、そういうところだぞお前が面倒くさいのは」
田辺先生は呆れた笑いと共にため息をこぼす。
「はぁ……」
気が付くと既に駐車場。眼前には田辺先生のものと思われる真っ白なSUVが一台だけ離れて停められていた。
「お前も家まで送ろうか?」
鍵を指でくるくると回しながら俺に問う。
「家近いので大丈夫です。お疲れさまでした」
「おう、そうか。お疲れ様。今後も相談部をよろしく頼むな」
「まあ、はい。俺に出来る範囲で」
鈴は先に帰ってしまったようで、俺は一人で帰路を辿った。
───今後もか……。まだまだ先は長そうだ。




