16 ハーレム勇者さまのハーレム要員が脱落した理由は
美香は丘の上にいた。
背の高い草に囲まれ、ゴツゴツとした岩がところどころ顔を出す丘。張っているテントから、少し離れた場所にある。
丘の上からは湖を見渡すことができる。
エメラルドグリーンの水面。光を弾いて、キラキラと瞬く。風が水面を走るたび、さざ波がおこり、そしてまた星屑のような光も走っていく。
風に揺られる黄緑色の細長い葉が、美香の背中を隠したり、現したりしている。
美香は膝を抱え込んで座っていた。膝の間に鼻先をつっこんで。
美香の長い髪が、湖から抜けてくる突風に浚われる。
あたしの目には、埃が入り、その痛みに思わず、呻いてしまう。
「……早紀ちゃん?」
振り向かずに美香が言う。
「早紀ちゃんでしょ」
断定した物言いに、じんわりとした恐怖を感じる。
でも、いまさらだ。
卓也と美香とで両天秤かけていたとは器用なことだとかなんとか。
いまさら美香があたしに、そんなことを言おうが言うまいが。そこには恐れるほどの憎悪なんて、ありはしない。
騙されたとか貢がされたとか。多少の恨み辛みがあったとしても、それくらい、大したことはない。
美香はもう、あたしに執着していない。
美香の脳裏には、もうあの映像は、ない。卓也の首に、巻かれたマフラーの。
「……うん。アタリ」
芝居がかった弱々しい声で答える。上出来。
美香の考えていることが、まだ把握できないのだから、猿芝居というだけではない。
美香はあたしに狂人まがいの怨念は抱いていないはず。そう鼓舞してみても、やっぱりあたしは、怯えていた。
「教室、居づらかったの」
「うん」
「転移できて、よかった。このタイミング……。初めて転移に、感謝したかも」
美香は振り向かない。硬質な声のトーンは変わらない。
あたしは、両手の指をがっしりと絡み合わせ、握りしめた。
美香が息を呑む音が聞こえた。すうっ。深呼吸のように、大きく。
そして振り返る。
美香の目は赤く腫れぼったかった。開きかけた唇を、また一文字に結んでしまう美香。
「……美香、もしかして……」
あたしは、両肩にずしりと重みを感じる沈黙に耐えきれなくなって、口を開いた。
今度は紛れもなく、あたしの声は震えていた。
もしかして、の続きは何だろう。
あたしはなんて続けるつもりなのだろう。
震えのおさまらない唇を、なんとか上下重ねて結ぶ。俯くと頭のてっぺんから、美香の吐息のような声がした。
「あ……」
顔を上げると、美香が泣く寸前、といった顔をしていた。
上唇が下唇を巻き込んでいる。イくのを我慢しているときの美香の顔だなあ、なんて脈絡のないことを思い出す。
「ほんとに、ごめんなさい」
「え?」
「私より、早紀ちゃんのが居づらかったよね」
最悪の展開とは違う様子に、思わず頬が緩む。
うっかり「なんだ、よかった」と言いそうになる。
微笑みかけてしまったことに、しまった。と思うも、美香は不審がる素振りもなく。メロドラマの独白を続けようとしていた。
「なのに……私のせいなのに……。ほんとにごめん……」
私のせいなのに、か。
安っぽいなぁ。あんまり安っぽくて、苛立ちすら感じる。
「……そんなこと、謝られたって、もういいわよ」
喜劇にのっかってしまう自分にも苛立つ。
「もう、卓也がいてくれるから。気にしなくていいわ」
少し拗ねたように、当てこすってみる。我ながら、気色悪い。
美香の顔が歪んだ。
「ごめん……ほんとにごめん」
「ごめん、って。なにが? もういいの。もう別にいいのよ。卓也は一生、あたしを守ってくれるって言ってくれたから」
卓也はそんなこと、言ってない。言ってほしかったのだろうか、あたしは。
「……一生って、美香も言ったけど。卓也は一度した約束は守るもの」
うそうそ。
卓也なんてあんなにちゃらんぽらんで、した約束すら覚えていなかったりするじゃない。それくらい、美香にだってよく知られてるじゃない。
「……無理、してるんだね……」
美香が俯いた。
卓也は約束を破らないという、どう考えても嘘の言い分が、美香には健気な強がり、と映ったようで、思わぬ演出効果が出たようだった。
美香があたしを疑うことは、もう決してないだろう。罪悪感以外に、あたしに抱く感情は生まれないだろう。
「無理なんてしてないわ。卓也がいてくれたもの」
「……そうだね。なんたって卓ちゃんは、早紀ちゃんの恋人だもんね」
美香のナルシシズムにつき合うのもこれが最後。
なりきる美香のいかにもな振る舞いと、振り当てられたシナリオにつき合ってやることに、最後まで苛立ちを感じる。
「卓ちゃんが早紀ちゃんの側にいてくれるなら、大丈夫だね」
美香が微笑む。「幸せになれるよ」と。
「幸せ……?」
あたしは腕を伸ばし、美香の腕を掴んだ。
美香の笑顔が崩れる。美香がよろける。
「……早紀ちゃん?」
美香の背中に両腕を回す。
あばらが折れるんじゃないかというくらい、全力で。ぎゅうぎゅうに締め上げる。
美香が苦しそうに「うっ」と、小さく漏らしたけれど、腕の力は緩めず、美香の胸元に顔を埋めた。
腕の中にある華奢な背中はしなやかで、柔らかく、温かい。
「早紀ちゃん、どしたの? ……大丈夫?」
苛立ちは先にも増して募ってはいたが、最後の仕上げなのだから。
盛大なメロドラマにつき合ってあげよう。さあ、感動のフィナーレを。
「大丈夫って! そんな……ことっ!」
ここで早紀、感極まって、泣く。台本のト書き。
「知って、どうするのよ? 大丈夫じゃないって、あたしが言ったって」
早紀、しゃくりあげる。ト書きの続き。
「そ、そんなことっ……し、知ったって! み、美香にはっ! 美香にはさぁっ! な、何も! 何も……っ! で、で、出来ないっで、しょぉおお……っ!」
あとはただ、幼子のように大声で泣きわめくあたしを、美香も一緒になって泣きながら、抱きしめ返してくれて、「ごめん、ごめんねぇ」と繰り返していた。
それからあたしは、泣いて引き留めて悪かった、と美香に謝って――ここまでやったのだから、お昼に主婦が家事の合間、息抜きできる程度のメロドラマにはなったはずだ――丘の上から美香を追い払った。
芝居とはいえ、高ぶった感情を収め込むには、多少時間が必要だったようで、風に吹かれて、すんすんやっていたら卓也がきた。
戸惑う卓也に「なんでもない」と言ったけれど、あたしの真っ赤な目と、未だぽろりと零れる涙に、卓也は納得せず、「誰にやられた? エルフ? 女戦士か? ……まさか、美香?」と卓也が心配してくれた。
だからあたしは「本当に、なんでもないってば」と言って、卓也の背中に腕を回した。
凄く緊張して、凄く勇気が必要だったけれど。たぶん卓也もそうだったんだと思う。
下から覗く卓也の耳たぶは真っ赤だった。
不器用にあたしを抱きしめた卓也の腕の中は、柔らかい美香と違って、ぺたんとして固かった。
あたしが壊れやすいものであるかのように、卓也は慎重にあたしの背中に腕を回したけれど。
融通の利かないような、さほど不自然な体勢でもないのに居心地の悪いような。少し痛いような感じがした。
ハーレム勇者の卓也。
ハーレム要員を振る舞いながらもハーレム要員から脱落した美香。
ハーレム要員を振る舞いながらもハーレム要員から脱落した、そんな体でありつつ、未だハーレム勇者を慕い、最大のライバルである美香を出し抜けたとほくそ笑むあたし。
みんなクズ。
誰が一番クズか? そんなことを競うのも馬鹿らしい。
だけど、クズの卓也には、クズのあたしが誰よりもお似合い。そうでしょ?
ハーレム勇者さまのハーレム要員が脱落した理由は、ハーレム勇者とハーレム要員がクズだったから。それだけ。
ただそれだけだよ。
(了)




