私のほうが惚れてるんだ
ーーーあれから数日。
あれというのは、雪乃にキスされた日だ、もちろん。
あのあと私は、逃げるように保健室から家へと直帰した。
それから、ベッドで考え込んだ。
雪乃はそんなに私のことを好きでーーー。
けれどそう思うと、不思議と心があたたかかった。
しかしあの日以来、今も隣の席にいる雪乃を直視することも、話しかけることもできなくなってしまった。
大切な、大親友なのに。
これを、彼女を意識しているというのだろうか。
でもこれは、今まで紫藤先生に感じていたものとは明らかに違う。
それじゃあ、今まで私が紫藤先生に感じていたもは何?
好き?尊敬?憧れ?憧れーーー。
そのとき、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
そう、紫藤先生は、私にとっての理想の王子様像だったのだ。
かっこよくて、優しくて、背が高くて、スタイルもよくて、声も綺麗で、笑顔も優しくて。
でもそれは、あのとき紫藤先生が雪乃に言っていたことと全く同じだった。
私は、紫藤先生のステータスが好きなだけで、紫藤先生のことは何も知らなかった。
私は、人のことを言えた身ではなかった。
そんなこともわからずに、雪乃にあんなひどいことを言ってしまっていたんだ。
雪乃はこんな私のことを、あんなにも好きでいてくれるのに。
私は頬杖をつきながら授業を受けている雪乃を横目に、ノートに彼女の絵を描いていた。
夜の帳のような長い黒髪、真珠のようなハリのある肌、少し切れ長の奥二重の瞳、すっと通った鼻筋、いつものあのいたずらっぽく笑んだ顔ーーー。
ノートの雪乃は笑いかけてくれるのに、本物の雪乃はこちらを向いてすらくれない。
私は隣の雪乃に視線をやる。
雪乃はというと、真剣にノートをとっている。
さっきまで全く興味なさそうだったのに、今は教師が何か重要なことでも言ったのか。
私も慌てて板書をとろうとすると、雪乃の腕が私の右腕を掴んだ。
驚いて腕を振り払うと、雪乃は小声で言う。
「今、私を描いてたでしょう」
「…え、あ、いや…」
「そんなに私のこと考えちゃうの?」
「ぬ、あ…な…何言ってんのよー!!」
私は椅子が倒れるくらいの勢いで立ち上がり、雪乃を指差した。
雪乃はニヤリと笑っている。
すると、教室内に静寂が訪れた。理由は明らかだった。
「佐瀬、授業中は静かにな」
「す、すみません…」
英語教師に言われ、私は椅子を直してから腰かけた。
雪乃は、どうしてわかったんだろう。私が雪乃を描いていたことを。
まさか、本当に私のことをずっと見て、考えてくれているの?
私は再び雪乃のいる右側を向こうとする。
そのとき、雪乃がノートを見せてきた。
ノートには、紛れもなく私の姿が描かれている。
髪の毛、顔立ち、表情、全てが私だった。
「巴のも見せて」
「な、なんでよ…」
「やっぱり描いてたんだ」
「あ、いや…」
フと笑う雪乃は、この前キスしてきたときの雪乃と同じで、いつものテキトーな感じとは全然違っていた。
抵抗虚しく、あえなくノートを取り上げられてしまう。
雪乃はものすごく興味深そうに、ノートを遠ざけたり近づけたりしながら見ていた。
なんだか、この時間が恥ずかしくて堪らなかった。
「美化しすぎ」
雪乃はまたいたずらっぽく笑ってから、ノートを私に返してきた。
巴も意外と絵心あるんだね、なんていうイヤミも添えて。
授業中、私は雪乃のあの微笑みが、まぶたの裏から離れなかった。
雪乃が笑っている。私だけに向けられた、雪乃の笑顔。
それから、私は心の中に、すとんと何かが落ちてきたような気がした。
そうか、これが、恋なんだ。
雪乃を見つめると胸が痛くなって、つらくなって、切なくなって。
雪乃の笑顔を見ると嬉しくなって、と同時に苦しくなって。
雪乃のステータスなんかじゃない、私は雪乃の本質が好きなのだ。
普段は余裕ぶっているところも、本当は必死で私への気持ちを抑えつけていたところも、全部。
ーーー私の思いは固まった。
昼休み、私はノートに走り書きをして、右隣の雪乃に見せる。
今すぐ裏庭にひとりで来て、と。
私は雪乃が頷くのを見ると、席を立った。
このままだとお弁当は食べ損ねそうだけれど、こんな大事なことに比べれば屁でもないはずだ、たぶん。
私は、あるひとつの想いを胸に、裏庭へ向かった。
私が一足先に裏庭に着くと、そこにはなぜか紫藤先生がいた。
「やあ佐瀬さん」
「…どうも…」
ーーー最悪だ。何で紫藤先生がここに?
私が雪乃を呼んだことがばれた?
私がぐるぐると頭を高速回転させていると、紫藤先生はこちらに近寄ってくる。
「佐瀬さん、きみは先生のことが好きなんだってね」
「…はい?」
「いいよ、きみを愛してあげよう」
そう言うと、紫藤先生は私の腕を引っ張って押し倒した。
幸い、地面はコンクリートなどではなく土と草で、痛くはない。
けれど、この状況はよくない。
雪乃が来たら誤解するだろうし、何をされるかもわからない。
犯されるかもしれないし、殺されるかもしれない。
私がガタガタ震えていると、紫藤先生は私の頬に手をあてがった。
雪乃と違って、ごつごつしていて、冷たい手だった。
私はその感触の恐ろしさから手を即座に払いのけ、あとずさる。
紫藤先生はいつもの爽やかな笑いを浮かべながら、ジワリジワリと距離を詰めてくる。
もうだめだ。
私は紫藤先生にいいようにされてしまうんだ。この想いも汚されてしまうんだ。
そう思うとを涙が出てきた。
「っ…雪乃ーーーー!!!」
私は力の限り叫んだ。
例え届かなかったとしても。雪乃なら。
そのときだった。
本館と別館、そしてこの裏庭とを繋ぐ渡り廊下を、猛スピードで走る足音が聞こえてきた。
まさかーーー。
「巴ーー!!!」
やっぱり雪乃だった。助けに来てくれたんだ。
私は歓喜のあまり堪えていた涙が大量に溢れてきた。
「野郎、巴から離れろ!!」
そう叫びながら、雪乃は紫藤先生に突進すると、そのままの勢いで殴りかかった。
腹部に拳が直撃し、それで紫藤先生がよろめくと、雪乃はそれにも構わず先生の胸倉を掴んだ。
紫藤先生は肩で息をしている。
雪乃も息を荒くしたまま、髪の毛を反対の手でかき上げながら言った。
「巴に何をしたの」
「……」
「さっさと答えろ!!」
雪乃は見たこともないような剣幕で、紫藤先生に詰め寄った。
すると紫藤先生は、咳き込みながら事の顛末を答えた。
ますます雪乃の表情が鋭くなってゆく。
「てめえ!!!!」
雪乃がその長い足で、紫藤先生を蹴り飛ばした。
先生は面白いくらいに吹っ飛んで、近くの木の幹にぶつかって動かなくなった。
恐らく、意識を失ったのだろう。
雪乃は大きくため息をつくと、私のほうへ振り返った。
それから、私のほうへと歩いてくる。
雪乃の濡れ羽のような黒髪が、風にさらさらと揺れている。私は見惚れていた。
「けがはない?」
「う、うん…」
「で?どうして裏庭にこいつが?」
雪乃は私の傍にしゃがみこみ、紫藤先生を指差して言った。
それは私にも想像がつかなかった。
「わかんない…たまたま、か…私の考えがばれたのか…」
「そう。で、何で呼んだわけ?」
雪乃は、紫藤先生に向かって中くらいの石ころを投げつけると、いたずらっぽく笑いながら言った。
雪乃は、紫藤先生を完全に人として扱っていないようである。
そうだ、私はこのためにここへ来たのだ。
私は立ち上がってから制服の埃をパタパタ払うと、背筋を正した。
すると雪乃はいつものようにフン、と鼻で笑う。
「何、かしこまっちゃって」
「…今更かもしれない。今頃何だよって思うかもしれない。嘘だって思われるかもしれない。都合がいいって思われるかもしれない。でも、でも私は…」
私は、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
雪乃の両の手を掴み、私は彼女を見つめていった。
その瞳には、私だけが映っている。
「私は、雪乃が好きなの!」
そよ、と風が吹いた。
その瞬間、まるで時が止まったような気がした。
木々のざわめきも、小鳥の鳴き声も、草花のお喋りも、何もかも。
雪乃はというと、固まってこちらを見ている。
私の時が止まっているから、そのように見えているだけなのかもしれないけれど。
ざあぁ、と風が吹き、ようやく時が動いた気がした。
雪乃は風で優雅に踊る髪をそのままに、言う。
「友だちとして、でしょう?」
雪乃の瞳は、おかしそうに笑ってはいるけれど、とても悲しそうだった。
こんなに切ない苦しい表情、雪乃が私に見せたことはない。
私は堪らなくなって雪乃を抱き寄せた。
彼女はされるがまま、呆然としているようだった。
私はそれに構わず続ける。
「ごめんね、雪乃…。私のこと、一番に考えてくれてたんだよね…いつも私に優しくしてくれて、紫藤先生からも守ってくれて…。こんなに、こんなに大切にしてもらっているのに、私は気づけなかった…!」
「巴…いいよ別に、私が勝手にしたことだし…ていうか離してくれる?」
「嫌だ!私は、雪乃がひとりの女の子として好き。ーーーやっと気づいたの。雪乃と話しているときとても幸せで、雪乃の笑顔を見るとこっちも嬉しくなって、悲しそうな顔を見るとつらくなって…」
私は雪乃の細い体躯を強く抱き締めた。
保健室では重いとか言ったけれど、実際彼女は細くて、私がこうして抱き締めたら折れてしまいそうなくらいだった。
「だから私は、雪乃が好きだったし今も好きなの!だからこれからは私と恋人ーーー」
私の言葉は、途中で遮られた。
雪乃にキスされていたからだと気づくのに、時間はかからなかった。
雪乃は唇を離すと、私を抱き締めて震えている。
私がおろおろしていると、雪乃は乾いた笑いを漏らした。
「何それ。とっくに、私に惚れてたんじゃん…」
雪乃がククク、とおかしそうに私の肩越しで笑うと、私もおかしくなって笑みを溢した。
本当にそうだったな、と私は思う。
私は雪乃をずっと見てきた。
人見知りで、いつも落ち着いていて、他人にあまり心を開かなくて。けれど、信頼した人のことはとことん考えてくれて、体を張ってまで守ってくれて。
そんな雪乃に、私は昔から惚れていたんだ。
私はその事実を実感するとおかしくなって、雪乃にキスを返した。
雪乃は、全く戸惑うことなく私の唇を受け入れて、自身の舌をぬるりと入れてきた。
絡まり合う舌が、私の息を荒くする。
頬が上気するのがわかって、私は控えめに舌を雪乃の舌に絡ませた。
雪乃は私のことを強く抱き締めて、いつまでも離さなかった。
私は雪乃の背中を撫でる。
木々のざわめきと太陽だけが、私たちを優しく見つめていた。