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高校を卒業したアラタは、近くにアパートを借りて大学生活が始まった。
アパートは建築年数が浅い物で、完全フローリングのワンルームだ。はじめから家具がついているタイプの部屋で、小さな収納棚はすぐに私物でいっぱいになった。
大学生活は楽しかった。入学式の後日には新入生歓迎会があり、サークルの新規部員の獲得合戦も盛り上がって賑やかだった。新しい友人もどんどん増えて日々は充実していたが、寂しさに似た愁いが、心の片隅にひっそりと居座って離れないでもいた。
部屋の棚の上の写真立ての中には、父と大浜と三人で写った入学式の写真が飾られている。思ったら即行動の大浜による提案で、通りすがりの人によって撮影された一枚だ。
入学式に着流しで現れた父は、写真の中でわずかに微笑んでいる。
その笑顔は穏やかで、はっきりとした顔立ちの中に青年時代の名残が見えるようだった。どちらも彫りの深い顔をしているせいか、どことなく大浜と同故郷なのだという雰囲気を感じさせた。
こんな風に笑う人だったのかと、父の微笑みがアラタの中に強く残されていた。チラリと目を向けた時、父が「よく学び、良き大学生活を送りなさい」と言って、ほんの少し穏やかな眼差しを浮かべられて、胸に込み上げる熱いモノがあった。
アラタは、自分が「良い息子」ではなかったと自覚している。意地を張らずに自分から積極的に接していれば、もしかしたら父や母と笑い合えるような関係を築けたのではないか、と今更になって考えさせられたりした。
胸の中に小さな穴が空いているような気分の落ち込みを感じる事があるのは、自分が父や母のことを何も知らないという事実があるせいだと、大学生活を送りながら気付いた。
父から音沙汰もないまま日々が過ぎていき、二十歳の誕生日を迎えた。その当日の日中、唐突に「おめでとう」と書かれたカードと、今年に発売されたばかりの電子辞書がアパートに届いた。
送り主の名前を見ると、そこには父の名前があった。彼からプレゼントをもらうのは初めてで、びっくりして電話をしたが父は留守だった。
「そっか。仕事だもんな……」
どこかの教室で授業を進めている父の姿を、アラタは容易に想像することが出来た。しかし、思い返せば、自分はその光景を実際に見たことはない。
そう不思議に思った時、どこからともなく幼い頃の記憶がよみがえってきた。
――『お父さんはね、学校の先生で、教科書通りの読み方をする人よ。黒板の字はとても綺麗で、真面目な横顔がとてもハンサムだったわ』
耳に残るその声は、若い頃の母のものだった。
自分の知っている過去と時間軸が、まるで糸が絡まってしまっているみたいに一本に繋がってくれない。アラタは、脳がぐらりと揺れるような錯覚を感じた。
一体これは、いつ言われた記憶なんだ?
母はパートで働き詰めだったし、アラタは昔から一人で家に取り残されていた。こんなに穏やかな彼女の声を耳にするなんて、あるはずがない気がするのに。
――『父さん。べんきょうをおしえるの、すきなの?』
――『うむ。そうだな……きっと好き、なんだろう』
困惑の向こうで、覚えのない記憶の回想が勝手に続いて父の声が聞こえた。
――『教えを受けている子供達のいる空間が、ふっと穏やかで静かな時間に包まれる時があって……ああ、やはり自分のことを話すのは苦手だ。父さんが感じていたことを、お前に伝えてあげられる言葉が、すぐにでも見つかれば良かったのになあ』
脳裏に浮かんだのは、ちょっと困ったように唇の端を引き上げる、縁側に腰かけている今よりも若い父の姿だった。薄地の白いシャツを着た身体は、細いものの鍛えられている。
――『先生』
記憶の中で、少女のように弾む女の声がした。
そう呼んだのは誰だっただろう。でも蘇った過去の光景の中にいたのは、自分と、母と、父だけのはずで……気のせいでなければ、それは若い母の声だった。
訳が分からない。いつも何かを気に掛けて、どこか少しだけ罪悪感を抱いているようにして小さくなっていた母と結びつかなくて、アラタは一旦考えることをやめた。
テスト、大学の合同祭、友人のバンドデビューなどが続き、アラタの日常はしばらく忙しさを増した。疑問は進展もないまま記憶の隅に追いやられ、その間にも水牛と小島と浅い海の夢を見た。いつも同じようにして夢は始まり、同じところで終わってしまう。
「絵に描いてみたら?」
季節があっという間に過ぎ、都内に初雪が降った夜、アラタの部屋に遊びに来ていたナナカがそう提案した。気の合う友人から恋人へ、そして付き合って数ヶ月で『一旦別れよう』と互いで話し合って恋人関係については保留となり、元の関係に戻った今も合鍵を自由に使わせている。
交際していた頃から、彼女には例の夢についてたびたび相談していた。綺麗な白い足を、惜しみなく短パンから覗かせている彼女に、アラタは静かに首を横に振って見せた。
「そんな画才はないさ」
だって絵を描いたことはない、そう続けようとしたアラタは、ふと、自分が覚えている記憶に小さな疑念を覚えた。
美術の授業と同じように、幼稚園でも絵を描いたりするものではないだろうか。幼い子供がクレヨンで絵を描く場面については、映画やドラマでもよく見掛ける光景だ。
正しいと思っていた自分の記憶が、唐突にそうではなかったと突き付けられたような恐怖を覚えた。順を追って並べようとした中学生以前の記憶が、写真の切れ端ばかりを残して、真っ暗な記憶の海に散らばっているような気がする。
家族との思い出が何もないなんて、あるはずがない。だって一人で留守番が長く出来なかった時代もあって、そして何かをして両親の帰りを待っていた頃もあったはずだ。
「アラタ、どうしたの? 気分が悪いみたいだけど……」
「ナナカ、子供って何をして過ごすんだろう?」
こちらを覗き込んできたナナカが、なぜこのタイミングでそんなことを訊くんだろう、という顔をしてペタリと床に座り直す。
「そうねぇ。たくさん遊んで、食べて寝て、それから怒られたりとかするんじゃない?」
どうやら、少しはロマンチックな展開を期待していたらしい。ちょっとむすっとした彼女の表情と声を前に、アラタは少しだけ気が楽になって苦笑を浮かべた。
居心地のいい親友同士なのか、それとも卒業したら一緒に暮らしていきたいという気持ちがあるくらいの恋人同士なのか。
それがよく分からなくて少し口論になり、一旦恋人関係については保留する事になった。それなのに、「保留の方を、今だけ『ちょっとお休み』にしようよ」と甘えてくるところは、結構可愛いとも思っている。
「ごめんナナカ、もしかしてキスでも欲しかった?」
「あのね、そういう可愛い感じの困った笑顔をしてもダメよ。イケメンだからって、なんでも許されると思ったら大間違いなんだからね」
言いながら、彼女が腕を組んで『機嫌を損ねました』とアピールしてくる。暖房機で暖められた室内で、柔らかな一枚の七分袖の服から、形のいい胸がふっくらと浮かんだ。
「そもそもね、そういうのを女の子に言わせるのは良くな――」
「実は俺も、キスしたいなと思ってた」
へ、という彼女を引き寄せて、そのまま唇を重ねた。
暖房機の稼働音が鈍く響いている。仲直りのような心地良い空気が流れているのを感じて、アラタは身を委ねている彼女からそっと口を離した。近い距離で見つめ返すと、少し頬をそめているナナカがいて、ふっと笑ってこう続ける。
「ちょっと立ち寄るだけだって言ってたのに、ふわふわの服と短パンの組み合わせとか、俺好みの美味しそうなかっこうしてくるんだもんなぁ」
「べッ別にアラタを意識したわけじゃないし。私だって、この格好が好きなの」
ぴしゃっとした声を作って、そう言いながらナナカが素早く元の距離に戻って座り直す。
「…………でも、キスはありがとう」
「どういたしまして」
アラタもそう答えて、床に尻を戻した。初キスの記念日、だなんてカレンダーにもわざわざ書かれたのだ。無視してやるわけにもいかない。
女友達とのショッピングの帰りだったとしても、彼女なりに記念日内にキスが欲しいと思っていたのだろう。そう考えていると、チラリとナナカが視線を返してきた。
「あのね、アラタ」
「ん? なに?」
「……あとでもう一回、キスをもらってもいい?」
ああ、可愛いなと思って、つい笑ってしまったアラタは「いいよ」と答えた。
ロマンチックに憧れているところもあるナナカは、それでひとまずのところは満足という事にしたらしい。続いては落ち着いた様子で、「子供が何をしているか、という質問だけれど」と先程の話に戻した。
「あたしの子供の頃の話をすると、母子家庭で、お母さんの帰りがいつも遅かったの。一人でいるのもつまらないから、近所の子たちと一緒に公園や川辺で遊んで――子供って夢中になったらとことん楽しむから、服なんてすぐ汚れて擦り切れちゃうでしょ?」
彼女は、手振りも交えてそう話す。
「お母さんはね、いつも『一体どこでどう遊んだらこんな風になるの』って怒ったりしたわ。でも楽しそうな顔もしていて『風呂に入ってきなさい!』って叱るの。ああ、そういえば脱衣所に向かう時にしていた夕飯の匂い、あたしは好きだったなあ」
ナナカは、そう言うと懐かしそうに微笑んだ。
はたして、自分にそんな事はあったのだろうか。彼女の思い出話に重なるような出来事に覚えがなくて、アラタはこれまで疑った事もない自分の記憶に不安を覚えた。
信じていたものが脆くも崩れ落ちていくような怖さを感じて、アラタはただただ純粋に彼女の手を握り締めた。愛だとか恋だとか、そういうことはよく分からないけれど、一番に心が安らげるのは彼女の隣だった。
「少し、こうしていてくれないか」
ピタリと寄り添って座った。
男としては弱さを出したくはない。でもただの甘えだと分かっていても、今は肩越しに触れ合う温もりと、繋いだその手を離したくはなかった。二人でいれば、大切なことがどこかで擦れ違っているという不安と恐怖が、少しは薄れてくれるような気がした。
ナナカは神妙な顔をして、「うん」と頷いた。自分からもアラタへと身を寄せて、その肩に体重を傾ける。
「あたし、アラタが『もういい』って言うまでここにいるよ。大丈夫だよ」
二人分の呼吸を聞きながら、お互いの手をぎゅっと握りしめ合った。どうしてか繋ぎ合った手かに何蚊が込み上げて、アラタはそのまま親友のような彼女の額にキスを一つ落とした。祝福を祝うように、神様に助けを請うように、そっと触れるばかりのキスだった。
数ヶ月ばかりの恋人生活を送っただけだ。それでも二人は、友人として出会ってまだ二年も経っていないとは思えないほど、互いが長い時間を共に過ごして来たような強い結びつきを感じていた。
ナナカは、目を閉じて額のキスを受け入れた。そっと離されるのを少しだけ寂しげに見つめて、それから彼と一緒になってぼんやりとただ前を眺める。
「アラタと一緒にいるとね、欠けていた物が埋まるみたいに、不安も心細さだってなくなるのよ。これって魂の親友なのかしら、それとも運命の恋?」
そう囁きながら、ナナカが肩に頬を擦り寄せる。
「あたしたち、なんだか兄妹みたいだね」
「そうだな」
「もっと早く、アラタの傍にいたかったよ」
「――うん」
アラタは緊張も解けて、しだいに浅い眠りへと引き込まれていくのを感じた。
最近は匂いまではっきりとする潮風と、波の音、そして二頭の水牛が出て来る、またあの美しい幻のような光景の夢を見た。




