1章 存在~有らざるべき者 6
オリエンタル調の窓からは、白い月が覗いている。
窓際に置いた香炉から立ち上る煙は、まるで月へと登る一本の綱のようにも、
月へと帰ろうとする東洋の龍のようにも見えた。
娼館からみる月は、いつも変わらない。
また、娼婦もおおむね同じである。
裸体をベッドに委ね、虚ろな目でこっちを見つめる。
その虚ろな目の奥で、目の前の男が自分を救い出す男か否かを見極ている。
男もまた、娼婦に救済を求めていたのかもしれない。
死という闇の中から這い出た新たなる世界で、男は屈辱を果たそうとした。
理解されない美の完成。完全なる美。本当の美。
新古典主義の旗頭でレジオンドヌール賞を受賞。
フランスアカデミーの院長も務めたが、それは受けの良い絵を描いただけのこと。
形式はおろか解剖学すら無視し、象徴的に艶めかしさを出した実験的絵画こそ、
本来男の描きたかった絵画である。
だが、人はこれを嘲笑った。「脊椎が一つか二つ多い」「右手と左手が極端に違う」
美とは理論ではない。感覚だ。それを解剖学・デッサンという理論でしか評せない批評家達。
ならば、私の美を実際の人体に移植する。あの絵画が正しい解剖学の世となれば
理論において批判されることはない。
我ながら行き過ぎた論理ではあるが、この地で手に入れた創造力なら、
それも可能だ・・そう男は感じていた。
そこで、娼館を訪れては創造力を用いて、実験を繰り返した。
なかなか、コントロールが難しく、やりすぎてしまう。
真の美を創造しようとするのだが、やりすぎた後は醜怪な屍を残すだけであった。
『これで成功すれば、自分は報われる』
そう、心のどこかで信じていた。そのためにはもっと実験が必要だ。
だが、少し娼婦を屍にしすぎた。
たとえ自分がMUSEと呼ばれる存在だとしても、あまり派手に行動はできない。
しばらく大人しくしようと思っていたが、あの店で裏営業をしている娼館の話を聞いた。
決して表沙汰にならない娼館。
ならば、そこで何が起きても表立つことはあるまい・・
そう思い、高額な手数料を支払い案内をさせた。
裏営業とはいえ、館も娼婦も上質であった。
バーメイドの話では、娼婦はすべて貴族の娘で、他人に言えぬ理由から客を取っている。
多少は脚色もあるだろが、納得もできる。
いい実験体だ。
男はケースからバイオリンを取り出すと、音楽を奏で始めた。
幼少期から習い始めたバイオリンは、絵画と双璧をなす彼の才能で有り、
生前は「ヴァイオリンの鬼才」と呼ばれたパガニーニとも共演をしたことがある。
そしてバイオリンの調べこそが彼の創造の手法だ。
音楽に合わせ、娼婦の体が変形してゆく。
豊かな腰、官能的に伸びて歪んだ脊椎。細く長い首、右手はしなやかに伸びてゆく。
そしてついに、彼の思い描いた娼婦が完成した。
娼婦もまた、恍惚の目でこちらを見つめている。
「完成だ・・・創造力、"グランド・オダリスク"」
彼、ドミニク・アングルは転生して始めて、微笑んだ。