表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

喪失

作者: 三坂淳一

『 喪失 』


 ( 2011年3月に発生した東日本大震災を舞台にした物語である )


 青い空の下で、紺碧に輝く海が綺麗に広がっている。

鷗も数羽飛び交っている。

海の彼方、水平線の近くを大きな船が悠然と横切って行く。

時折、涼しい風が頬を弄って過ぎて行く。

三月も下旬になり、桜も東京では開花したそうだ。

空、海、鷗、船、そして風。

陳腐だが、平和そのものの情景だ。

漸く、長閑で懐かしい日常的な平和が戻ったのか。


しかし、それは明らかな錯覚でしか無かった。

 悪い夢を見ているんだ。

とんでもない悪い夢を見ているんだ。

こんなことって、あるはずが無い。

ここから、海が見えるはずは無いんだ。

木造二階建ての駅の建物があって、どう逆立ちしたって、海なんか見えるはずは無かった。

でも、今、見えている。

視界の前方ががらんどうになっている。

あるべき建物が綺麗に消え失せている。

何ということだ。

俺は茫然と立ち尽くした。

 

青い空と海が見えていた。

あれが起こる前は今前方に広がる光景はあり得なかった。

小さな貨物専用の駅があり、駅舎が視界を妨げ、空は見えたが、海は見えなかったのだ。

今、前方にあるはずの駅舎は消え失せ、海が見えていた。

穏やかな海だ。

綺麗に晴れ渡った青い空と紺碧の海。

周囲の風景とこんなにマッチングしない空と海は無いだろう。

周囲の風景はあまりにも悲惨だ。

あれから、二週間も経っているのに、時間は止まっているかのようだ。

周囲の光景。

車が数台ひっくり返り、道端で泥に汚れた車体下部を無様に見せている。

線路の上にあるべき鉄道コンテナが線路とは随分と離れたところで無様に横倒しになっている。

屋根が傾き、瓦が全て落ち、柱も倒れ、崩れ落ちた民家がある。

道の両側は瓦礫の山だ。

瓦礫がうず高い山となっている。

洗濯機、テレビ、箪笥が風景の一部のように瓦礫となって、無造作に配置されている。道は通行禁止となっており、風が吹く度に、灰色の埃が舞い上がっている。

気持ちを悪くさせる悪臭も漂っている。


あの日、三月十一日午後二時四十六分、マグネチュード九という巨大地震が起こり、こ

こは、震度六強の揺れに見舞われ、ほぼ一時間後、午後三時三十九分、三メートルを越す大津波がこの港を襲った。

海から二百メートルほど離れたスーパーの駐車場に車を置き、海に向かって歩いて来た俺の目に飛び込んで来た、この悲惨な光景に俺は驚き、改めて津波の恐さを思い知らされた。

津波計の測定データに依れば、津波の実測値は三メートル三十センチだったと云う。

その津波はこの港町の沿岸、百メートルほど入念に嘗め尽くした。

三メートルの津波でも人は簡単に溺れ死んでしまう。

この港町でも何人かの犠牲者が出た。

リアス式海岸が多い三陸海岸の津波の高さは三十メートルを越したと云われている。

三十メートルの津波だって!

その高さは想像の域を遥かに越え、絶望的だ。

津波の怖さに関しては、どうもDNAに刷り込まれているらしい。

昔から、津波という言葉に言い知れぬ恐怖を感じるのだ。

昔、俺の先祖は大津波に遇ったらしく、子孫の俺のDNAにその記憶を鮮明に残したのだろう。

俺は恐怖感で激しく身震いせざるを得なかった。

こうして、眼前に広がる津波の悪意に満ちた爪痕を見ながら、俺は悪夢にうなされたかのように、何とも言えない、吐き気を伴う不愉快な感情に襲われていた。

自然は人に優しいと思っていたが、とんでもない。

人に優しい自然。

誰がそんな寝ぼけたことを言っているのだ。

残酷すぎる。

ふと、老子の言葉、天地に仁なし、万物を以って、(すう)()と為す、という言葉が脳裏を過ぎった。

芻狗というのは、藁で作った犬ということであり、中国では何かの宗教的な行事の際、供え物の一つとして、藁細工の犬を供えるのだそうだ。

老子の言葉の意味は、天地、つまり自然の営みには人間などの生き物に対する仁、思い遣り、なんて微塵も無い、全ての物を無慈悲に藁人形のように扱う、ということだ。

自然はまことに身勝手に振る舞う。

人にとって、自然は重要で大切な存在だが、自然にとって、人はどういう存在か、考えてみれば分かる。

人は自然と調和して生きるしか無いが、自然は人と調和して存続する必要は無いのだ。まして、地球温暖化を促進する人類という厄介な生き物に優しくする必要は全く無い。人類にとって、人類はいつでも主人公だが、自然にとって、人類は主人公では無い。

今回の地震津波だって、プレートが惹き起す地殻ストレスを自然は長期間我慢したが、耐えるのに飽いて、蓄積した地殻ストレスを、少し派手に躰を揺することで解消しただけなのだ。

結果、かつて経験したことが無いような大地震が発生し、大津波が発生した。

自然としたら、当然の営みをしたに過ぎない。

しかし、生き物からしたら、たまったものではない。

津波に呑まれ、二万人近い人が無惨に溺れ死んだ。

また、津波により、原発の電源が全て失われ、冷却機能が失われた結果、放射性物質が撒き散らされ、原発周辺の人々はこれから数年、或いは、数十年の間、放射能汚染に苦しむこととなってしまった。

優しい自然などと云う言葉は嘘っぱちだ。

たまたま、優しげな笑顔を見せるだけで、自然の本質は人間の営々たる生の営みを根こそぎ破壊し、潰滅させる恐ろしい力を持っている、ということにある。

しかし、それにしても、自然の持つ圧倒的な潜在力と比べ、人間の文明の何と卑小微弱で脆弱なことか。

 俺は眼前に広がる瓦礫の山を見ながら、何とも言えない怒りと絶望感を感じていた。


 昨年末から今年にかけて、日本人自体が復旧、復興しつつあった。

例のタイガーマスク現象だ。

日本という国の品格と日本人の品性というものの凋落が声高に叫ばれてから久しいが、昨年末に自然発生的に起こったあのタイガーマスク現象で日本人自体の良さが甦りつつあった。

品格、品性という言葉が死語となっている、という指摘も随分となされているものの、タイガーマスク現象を見る限り、日本人自体は未だ見捨てたもんじゃ無い、と思ったものだ。

昔は孤児院、今は児童養護施設とも言っているが、その養護施設にランドセルを始めとしていろんなものが寄付された。

お金も相当寄付され、都度美談としてマスコミに採りあげられたものだ。

普段は下らないゴシップ騒ぎにうつつを抜かすマスコミだが、このタイガーマスク現象というか、ブームというか、流行を作り出すのに大いに貢献したものだ。

それは、マスコミのお手柄といって、評価して良い。

とにかく、大勢の無名の人たちが善意溢れたタイガーマスクとなり、競って、自分の財布からお金を出して、恵まれない人たちを支援することがブームとなった。

つまり、善意の津波が期せずして起こったのだ。

このような津波だったら、何回起こっても良い。

身銭を切って、恵まれない人を支援する。

きっと、その人は天国に行くのだろう。

俺もその一人となり、知り合いが養護施設の施設長として居たので、その養護施設にランドセルと文房具を贈った。

 ランドセルは一つでいいから、クレヨンと画用紙を一杯頂戴、とその施設長は笑いながら俺に言った。

 ランドセルは黒かい、それとも赤かい、と俺が訊いたら、赤よ、と施設長は答えた。

要望に応じ、希望の物を買い集め、その施設の玄関に置いた。

地方新聞から施設長の所に取材依頼が来て、施設長の談話がその新聞に掲載された。

匿名なので、どこのどなたか、存じませんが、贈られたものは大事に使わせて戴きます、と。

施設長から俺の携帯電話にメールが入り、お礼の言葉と共に、来年も宜しくね、という催促の留守電も残された。

気持が良かった。

数万円でこれほどの良い気持ちになるものとは知らなかった。

死んだら、俺はきっと天国に行く。

約束されたようなものだ。

一週間、上機嫌が続いた。

 

 だが、その数カ月後、東日本大震災と呼ばれる大地震・大津波が起こった。

テレビに映し出される津波の光景は圧倒的で、言葉も無く、俺は会社のテレビの画面を茫然と見詰めるばかりだった。

実家に電話をかけたが、通じない。

携帯電話も通じない。何とも言えない不安感の中で、数日が過ぎたが、偶然繋がった母からの電話で津波の被害にも遭わず、全員無事だ、と知って安堵した。

家も少し屋根瓦が落ちただけで、外見上は問題無い、と母は気丈に語っていた。

でも、屋根瓦の修復には相当期間待たされる、その間、ブルーシートを被せ、雨を凌がなきゃならない、と憂鬱そうに母は話した。

 ああ、良かった。不幸中の幸い、とやらで、今回の大震災で失ったものは無かった、と俺はとりあえず一安心した。

 でも、命があるだけいい、今回の津波でこの町でも何人か命を落とした、ほら、あの人も亡くなったのよ、と母は沈鬱な口調で、知人の名前を挙げた。

 施設長の名前だった。


 中学の同級生だった施設長が今度の津波の犠牲となった。

 養護施設の児童を無事に高台に避難させた後で、なぜか津波が押し寄せる施設に戻って、難に遇った、と云われている。

 戻らなければ、津波には遭遇しなかったはずだ。

 津波を甘く見たのだろうか?

俺は港の魚市場を過ぎ、施設がある岬の方に歩いて行った。

 無惨な光景が続いた。

港の埠頭には本来海上にあるべき船がごろんと横倒しになり、赤茶けた下部を見せていた。

 一艘ばかりでは無く、五、六艘ほど見かけた。

 魚市場の周辺も津波の被害を受けており、瓦礫の山も然ることながら、レストラン、魚屋は全て破壊し尽くされていた。

 普段は活気を呈して、客への呼び込みも結構聞かれた場所が閑散として人影も無く、津波で捻じ曲げられたシャッターとか、辛うじて立っている柱の蔭で、売場の棚が倒れ、机、椅子が散乱している様子を見て歩くのは辛かった。

自然はこのようにも無慈悲で、人の営々たる暮らしの営みを完膚無きまで破壊し尽くすのだ。

 悲しかった。

それ以外の言葉は思い浮かばなかった。

 道の正面にトンネルが見えて来た。

ここを右に曲がると、岬に出る。

両側の瓦礫、泥だらけの車を見ながら、俺は岬への道を歩いた。

やがて、道の左側に養護施設が見えて来た。

 平屋の白い建物で、外見上は何ら被害を受けていないように見えた。

しかし、近づくにつれて、がっかりした。

 海抜の低いところにあったためか、屋根のすぐ下まで水が来たことを示す、横筋の汚れが見てとれた。

ほとんど、水没したのか、と暗澹たる思いで建物を眺めた。

 エリはどこで津波を受けたのだろうか。

 遺体が発見されたのは、この養護施設から五十メートルほど離れた海岸近くに放置されているコンクリートのテトラポット近くだった、という話だ。

エリは泳ぎが得意だったが、瓦礫と共に押し寄せてくる津波の中では、泳ぎの得手、不得手は関係無い。

無念の溺死、だったのだろう。

 俺は養護施設の前に立ち、手を合わせて、エリの冥福を祈るしか無かった。

 養護施設の前の道に戻り、岬に向かって歩いた。

瓦礫の山を見て歩いた。ふと、道の右側の瓦礫の中に、なにやら赤いものがあるのに気付いた。

 何だろう、と思わず近づいてみた。

 赤く見えていたものは、ランドセルだった。

 そのランドセルに何か見覚えがあった。

灰色の泥が付着して汚れてはいたが、新しいランドセルのように思えた。

 俺が贈ったランドセルじゃないのか。

 近寄り、拾い上げてみた。

少し悪臭が漂ったが、革特有のにおいもした。

中に何か入っているような感じがした。

 少し後ろめたい気持ちはしたが、ランドセルの前カバーを上げて、中を覗きこんだ。

 濡れたアルバムが一冊、入っていた。

 思わず、取り出してみた。

驚いた。

出身中学の卒業アルバムだった。

年度も同じだった。


 想像でしか無いが、俺の眼に津波が押し寄せてきた時の光景が映った。

それは、子供たちを高台に避難させた後で、養護施設に急いで戻って行くエリの姿だった。

養護施設に戻り、自分の事務室の本棚から中学の卒業アルバムを取り出し、贈られたランドセルにそのアルバムを入れた途端、玄関から押し寄せた津波に押し流されるエリの姿だった。


 歩きながら、俺はエリのことばかり、考えた。

 エリと俺は、高校は違ったが、小学、中学と同じ学校に通った。

小学校では、六年間、同じクラスだった。


小学の頃。

エリは生意気な女の子だった。

一年生で初めて見た時は、ちょっと可愛い女の子だな、と思ったが、小学の六年間、ずっと同じクラスで居ると、何だか鼻に付く感じの女の子だった。

気ばかり強くて、何かと前にしゃしゃり出る女の子だった。

特に、嫌だったのは、何かにつけて、俺に好意を示すことだった。

俺のどこが気に入ったのか、知らないが、衆人環視の中で好意を示されるのは大いに迷惑な話だった。

エリちゃんはジュンちゃんが好きなんだって、と囃されるのも堪らなかった。

癪にさわったのは、エリはそんな風に皆から囃されても、平気だったことだ。

どんな神経をしている女の子なんだろう、と俺は怒りにも似た思いで、都度腹立たしく思ったものだ。

恋をすると、女は大胆に、男は臆病になる、初恋の場合はなおさら、という西洋の格言があるが、俺とエリの関係はまさにその通りの関係だったのかも知れない。

別に、エリに恋したわけではなかったが、一方的に好意を示されて、俺は嫌で嫌で、しかたが無かった。

照れ臭かったのか、エリのことを少しは好きで、格言通り、臆病になったのか、どうも判然としない。

とにかく、迷惑千万、エリの好意は嫌だった。


しかし、エリに感心したこともあった。

エリは小学校の頃、勉強も出来たが、足も速かった。

クラスの女の子の中では一番速かった。

足の速い子供は学校の運動会では、いつもスターになる。

或る年の運動会では、こんなことがあった。

クラス対抗リレーで、足の遅い同級生が選手に選ばれたことがあった。

普通なら、選ばれるどころか、始めから選出対象から除外されるはずであったが、人数が足りなくなって、その同級生を選手の一人にせざるを得なくなった。

これで、負けは決まりだね。

子供というものは案外残酷なもので、そのように話す同級生も居た。

しかし、エリは違った。

何と、運動会前日まで、放課後、グラウンドでその同級生のランニングの指導をしたのだ。

拳を握って、ぐうで走るより、このように掌を伸ばし、風を斬るようにして走った方が速く走れるのよ、と言いながら、その同級生と伴走するエリを見た。

そんな走りで本当に速く走れるようになるのか、俺は疑問だったが、エリは真剣にそう思っているようだった。

運動会当日、エリはクラス対抗の女子のアンカーを務めたが、足の遅い同級生は真ん中ぐらいの順番だった。

リレーが始まり、その同級生の番となった。

足の速さは天性のもので、足が生まれつき遅い者はいくら練習してもそう速く走れるものではない、とクラスの同級生は思い、いささか憂鬱な眼でその哀れな子羊を眺めた。

例えは悪いが、屠殺場に駆り立てられる哀れな動物のような眼をその同級生はしていたのだ。

しかし、さあ、頑張って、昨日までの練習通りすれば、大丈夫よ、しっかり走って、と大声で叫ぶエリが居た。

その同級生が走り出した。

相変わらず、遅くもたもたとしている。

とてもじゃないが、見ていられない、と誰もが思った、その時だった。

何と、エリが伴走し始めたのだ。

勿論、トラックの内側を走り、伴走した。

エリの掌。真っ直ぐに伸ばされ、風を斬っていた。

その同級生も伴走するエリを見た。

そして、エリの掌も見た。

思い出したのだろう。

同じような掌になり、風を斬るように振り出した。

全員、驚いた。

速く走るようになったのだ。

速さを増した同級生と伴走するエリを見て、俺は眼頭が熱くなった。

エリを少し好きになった。


中学の頃。

エリはやはり煩わしい存在だった。

俺とエリはクラス委員だったが、クラス委員なんか、全然ヤル気の無い俺と比べ、エリはびっくりするくらい、ヤル気満々でいろいろと積極的にクラス行事を計画する女の子だった。

クラスで文集を作ったし、ピクニックも行なった。

ジュンちゃんも頑張って参加してね、何と言っても、クラス委員なのよ、と俺の尻を叩き続けた。

元々、ヤル気なんか全然無いし、言われてやるのはとても業腹なことであったし、嫌なことだ、と思い、益々冷やかな反応を示す俺だった。

しかし、エリはそんな俺の態度でひるむ女の子では無く、ケンなどの言わば、悪餓鬼で、何か面白い遊びは無いかと、鵜の目鷹の目で刺激的な遊びを求めていた男の子たちを配下におさめて、クラス委員としてのリーダーシップを発揮して行った。

平穏な中学生活を送りたかった俺の目から見たら、まことにウザイ女の子だった。

でも、どういうわけか、小学同様、中学でも俺に好意を示し続けた。

そうなると、俺も意地っ張りなところがあり、エリの好意を無視し続けた。

必要以上に、エリに冷淡だった。


 そんな俺だったが、エリと手を繋いで歩いたことがある。

中学三年の修学旅行の時のことだ。

修学旅行は何と言っても、中学三年間で一番の楽しみとなる行事だった。

行き先は日光、中禅寺湖だった。 

いろは坂を通って、中禅寺湖の畔にある旅館に宿泊した。

面積はさほどでも無いが、標高としては日本で一番高いところにある湖ということで、霧がよく立ちこめる。

到着した夜もすごい霧が立ちこめた。

夜のお楽しみは、お決まりの枕投げだが、俺はその前に湖の霧を見てやろうと思い、夕食後、ケンを誘って、旅館を抜け出した。

無断外出は一応ご法度だったが、引率の先生は酒を飲みながら談笑しており、生徒の外出の動きにそれほど敏感な反応は示さず、半ば黙認といった状況だった。

港町の霧には慣れていたが、高原の湖の霧を味わいたくなって、俺たちは湖畔を暫く歩いた。

すごい霧で数メートル先はもう見えない、といった状態だったが、人の足音だけは聞こえた。

ふと、気が付くと、視界の先にぼんやりとした人影が見えた。

一人では無く、数人居た。

話し声が聞こえた。

聞き覚えのある声もあり、しかも、方言まる出しだった。

エリを含め、女の子の三人連れだった。

俺は知らない振りをして、別なところに行こうとしたが、ケンは嬉しかったのか、そのグループにいそいそと近づいて行った。

きっと、一寸先も判らぬ霧で、闇の中、不安だったのかも知れない。

しかたがないから、ケンと一緒にエリのグループに歩み寄った。

俺たちを迎えたエリたちは嬉しそうだった。

合流したと言っても、別に話すことなんか無く、俺は無愛想に歩いた。

しかし、エリはケンを押しのけ、俺に話しかけて来た。

快活に話しかけてくるエリは妙に上気したような表情をしていた。

俺もその時は、普段と違い、エリと話した。

いつもなら、無愛想に一言答え、急いで立ち去るのが、その時は、エリと話すのが何だか楽しかった。

きっと、修学旅行で浮かれていたのと、深い霧と闇の中に居ることで、いつもとは違った俺になっていたのだろう。

暫く、エリと話しながら、歩いたが、気が付くと、俺はエリと二人きりになっていた。あとの三人はどこに行ったんだろう、と思い、エリと二人、近くを探したが、見当たら

なかった。

随分と遠くまで来てしまった、と思い、道を戻ることとした。

いつの間にか、俺とエリは手を繋いでいた。

俺が先に手を伸ばしたのか、エリが先に手を繋いだのか、判らない。どっちが先だったろうか。

でも、あの時のエリの掌がしっとりと湿っていたことだけは今でもしっかりと覚えている。

俺の手もそうだったのだろう。

あんなに深い霧の中だったもの。掌だって、濡れてしまう。


高校の頃。

俺はエリと駆け落ちしようとしたことがあった。

きっかけは何だったんだろう。

ああ、思い出した。

俺は家出をしようと決意したんだ。

家出をしたくなった理由はいくつかあったと思うが、親父との口喧嘩とか、単調な学校生活が嫌になったとか、まあ、そんなことはどうでもいい。

とにかく、面白くない、家出をしてやろうと思ったんだ。

しかし、一人で家出をすれば、エリが悲しむ。

いっそ、エリを連れて、二人で家出をすればいい。

エリが俺について来れば、エリとしては悲しむことはないだろうし、一緒に来るのを嫌がれば、エリと永遠におさらばする、良い口実になる。

一石二鳥じゃないかと、その時思った。

待てよ、一人なら家出だが、二人なら、これは立派な駆け落ちじゃないか、そうだ、駆け落ちをしよう、と決意した。

で、エリに話した。

きっと、嫌がると俺は思った。

高校生同士の駆け落ちなんか、聞いたことが無い。

常識のある女子高生なら、きっと嫌がるに違いない、と思ったんだ。

でも、エリの反応は意外なものだった。

クリームソーダのアイスクリームをスプーンでつつきながら、いいよ、で、いつ、駆け落ちは、と俺に訊いて来たのだ。

あっさり、承知したので、俺は拍子抜けをしてしまった。

駆け落ちするほど、深い仲になっていたのか、と問う人もあるかも知れないが、そうでは無かった。

当時の二人は、手を繋ぐことはあったものの、それ以上のことは何も無かったんだ。

敢えて言えば、キスもしたことが無かった。

正直言って、エリと居ても、俺はエリに女を感じたことが無かった。

エリは女友達と言うよりも、幼友達であり、一緒に居て気楽な、言わば、空気とか水みたいな存在だった。

時々は、生意気な態度で俺に接することもあったが、総じて言えば、ケンと同じで、友達としての存在に過ぎなかった。

そんなエリと私はどうして駆け落ちなどという破天荒なことをしようとしたのだろうか。

とにかく、家を捨て、親兄弟を捨て、郷里を捨てて、一切を捨てて、どこか知らないところに逃げようとしたのは事実だ。

中卒の資格で俺は東京下町のどこかの工場で働き、エリは、そう、喫茶店のウエイトレスにでもなって働き、肩寄せ合って暮らす、という決意を俺とエリはした。

そして、港近くのあの貨物駅で、俺たちは待ち合わせた。

そこから、バスに乗って、近くの鉄道駅に行き、電車に乗って、東京まで、とにかく行こうということにしたんだ。

当座のお金として、俺はお年玉なぞをこつこつと貯めた銀行預金を全て下ろし、持参した。

俺は決めた時間の三十分前から貨物駅前のバス停に立って、エリを待った。

しかし、エリはなかなか来ない。

俺はじりじりとした思いでエリを待ちわびた。

やがて、バスが来た。

肝心のエリが来ない。

見送った。

エリが来たのは、バスが行ってから、二十分後だった。

やって来たエリを見て、俺は驚いた。

高校のセーラー服を着ていた。

登校用の鞄まで下げていた。

茫然と見詰める俺に、部活が予想外に延びて、家に帰って着替えをする時間が無いから、このままで来た、とエリは話した。

さあ、行きましょうよ、とエリはあっけらかんと言った。

無邪気な笑い顔を見せていた。

俺はエリの話に呆れ、駆け落ちという大それた行為をすることに昂ぶっていた気持ちが急激に萎えていくのを感じた。

一体、どこの世界にセーラー服を着て、鞄をぶら下げた女と駆け落ちをする男が居る? 駆け落ちを何と心得ているんだ。

それなりの格好をして、ボストンバッグぐらい持参して来るのが、駆け落ちのエチケッ

トじゃないか。

その日、俺たちは駆け落ちをせず、会話も交わさず、貨物駅近くの喫茶店でお茶を飲んで別れた。

一週間、俺はエリと口をきかなかった。


そんな事件もあったが、一度、エリに女を感じたことがあった。

今ではもう無くなってしまったけれど、当時は町の中心に、大きな本屋があった。

夏休みになると、俺はその本屋に行き、いろんな本を立ち読みした。

当時は未だのんびりした時代で、長時間立ち読みしても、店員から注意されることも無かったので、俺は図書館からの帰りはいつも、この本屋に立ち寄り、一時間ほどいろんな雑誌を立ち読みした。

いつものように、図書館からの帰り道、その本屋に立ち寄った時のことだった。

エリが居た。

俺に気付いていたかどうかは知らないが、左脇、数メートルほど離れたところにエリが立って、雑誌をパラパラと捲っていた。

このところ、エリとはどうも気まずい関係が続いていたので、俺は話しかけることもせず、黙って立ち去ることとした。

エリは気付かない。

エリの後ろを通り過ぎようとした。

エリのうなじが目に入った。

うなじの細い産毛が金色に光った。

白く滑らかな磁器のような肌の上で、産毛が光りながら、風にそよいだ。

それは、ゾクっとするような官能的な眺めだった。

エリに女を感じた一瞬だった。

唯一の時だったかも知れない。

思い出す度に、何かざわざわとするような胸騒ぎを今でも感じる。


エリは頑張り屋だった。

保育士の資格を取って、地元の児童養護施設の職員となり、次に、児童福祉司の資格も取って、三年ほど前に、岬の海岸近くにある児童養護施設の施設長になった。

一方、俺は郷里を出て、東京に本社がある会社のサラリーマンとなった。

エリとの接点は途絶えたが、連絡だけは取り合おうということで、携帯電話の番号だけは教え合った。

夏のお盆と正月休みで郷里に帰った際、ケンの店で会い、飲みながら、気軽な冗談を交え、近況を話す、という関係になった。

高校の頃の駆け落ちミス事件以降、エリは俺への好意を示すことも無くなり、俺も少しほっとした。

昔流で言うならば、憑きものがすっかり落ちた、と言うべきだったかも知れない。

しかし、エリは幼馴染としては最高の友達だった。

なにしろ、俺の全てを知っている友達なのだから。

少し、本音を言えば、どうせ結婚をするなら、エリみたいな女性がいいな、とも思っていた。

エリはどうだったのだろうか。

もう、俺に対する理不尽な愛情は無くなってしまったのかも知れない、と思っていた。友情はあるにしても、男女の愛はもう消え失せてしまったのか。

少し、淋しい気がしたのも事実だ。


最後に、エリと会ったのは去年の年末だった。

港町には珍しく、雪が舞い散る夜だった。

五ヶ月振りに実家に帰り、寝転がってテレビを観ていたら、携帯が鳴った。

ケンからの電話だった。

出ると、今エリが来ているから、急いでやって来い、と言う。

相変わらず、性急な口調だった。

年末なのに忙しいことね、と母親が苦笑しながら見送る中、俺はいそいそと車を走らせて行った。

ドアを開けて中に入ると、カウンターにエリが居た。

一年振りに会った。相変わらず、生き生きとして若かった。

もう、それほど若いと言われる年齢は過ぎていたが、施設長として、一つの事業所を切り盛りしているせいか、実際の齢よりはずっと若く見えた。

結構、飲んでいるようだった。

俺たちは、ケンが焼く焼き鳥をつまみにして、飲みながら、近況を語り合った。

その時、話の中で、タイガーマスク現象が話題になった。

エリの養護施設では、未だタイガーマスク絡みのプレゼントは無いらしい。

酔った勢いか、心の片隅でそう思っていたか、自分でも判らないが、そうか、ひとつ、俺がエリの養護施設のタイガーマスクになってやろうか、と切り出した。

年末調整が少し多めに戻って来た、どうせ、その内、どこかに消えてしまう金だ、いっそ、タイガーマスクになって、養護施設にランドセルでも贈ってやろう、と俺は言った。 

エリは笑っていたが、嬉しそうだった。

ケンが脇から、茶々を入れた。

「貧者の一灯、富者の万灯に勝る、か」

俺も負けじと言った。

「違うよ、長者の万灯より貧者の一灯、だよ。あれっ!  同じことか」

エリが笑い転げた。


 岬から歩いて、街の中心にあるスーパーの駐車場に向かった。

ふと、酒が飲みたくなった。

近頃は酒飲みには便利なご時勢で、代行運転というものがある。

酒を飲んで行こうか、と思った。

悲惨な状況を見た後だ、酒でも飲まなきゃやってられない、と酒飲みの勝手な理屈をつけた。

 駐車場の近くに、中学の同級生ケンの飲み屋がある。

小さな居酒屋だが、寛げる。

 

 ケン、という男。

 面白いやつだ。

性格は真逆だが、俺と妙にウマが合う男だった。

俺と違って、とても活発な男で一瞬たりともぐずぐずしていない。

いつも、何かしていないと落ち着かないといった類の男だった。

 中学でも、いろんな部に入って、活動していた、と言うより遊んでいた。

始めは、野球部に入った。

ピッチャーをやりたがったが、速い球が投げられず、到底ピッチャーはやらせて貰えないと分かった途端、野球部をやめて、サッカー部に入った。

でも、基礎体力をつけるため、ランニングばかりやらされて、嫌になり、ここもやめた。

 次は、どこに入るのかな、と思っていたら、陸上部に入った。

生まれつき、敏捷な男で、バネが強かったのか、走り幅跳び、三段跳びの選手となり、こちらは結構いい線まで行った。

と同時に、なぜか、ブラスバンド部にも入り、トランペットを吹いていた。

放課後は、グラウンドにトランペットを持って行き、三段跳びの練習の傍ら、トランペットの練習もしていた。

 アラモの砦、知っているかい。

これが、メキシコ軍総攻撃の際、奏でられたという『皆殺しの歌』だよ、と言いながら、トランペットでその曲を吹いたこともあった。

名前の通り、少し不気味な感じがする旋律だった。

 そんなケンだったが、エリにはなぜか弱く、行事の際、エリに何か頼まれると、嫌とは言わず、唯々諾々とエリの注文に応じていた。

人には相性というものがあり、ケンはエリという女の子に引きずりまわされる運命の男の子だったのだろう。

ひょっとすると、エリのことを好きだったのかも。


 そう言えば、或る時、こんなことがあった。

 俺とケンはよく自転車に乗って、いろんなところに行った。

 夏は町外れにある『大仏』のところとか、秋は、ちょっと離れた、山の方の『しだれもみじ』にもよく行ったものだった。

特に、晩秋の『しだれもみじ』の景観は素晴らしかった。

 樹齢数百年の巨大なもみじが紅い葉を一杯付けて、大きく枝垂れている様は見事だった。自転車で二時間程度は走る距離にあり、中学生としてはちょっとした旅行気分を味わっ

たものだ。

田圃の中を通る道は車もほとんど通らず、俺とケンは自転車を競争しながら走らせた。ペダルを一生懸命漕いで走らせると、気持の良い風が頬を弄って行く。

 『しだれもみじ』は道から外れ、少し奥まったところにあったが、周囲は風通しの良い草むらとなっていた。

草むらに腰を下ろし、上着を脱いで、涼しい風に当たると、気持は陶然としてくる。

枝垂れた紅いモミジを観ながら、俺とケンはいろんなことを話した。

進学する高校のこと、部活のこと、近頃読んだ本のこと、将来やりたいこと、等。

 しかし、不思議なことに、女の子のことは話題にならなかった。

少し早熟な中学生の間で、この種の話題が話題にならなかった、ということは今から考えてみても不思議なことだった。

避けていた、のかも知れない。

 女の子、と言えば、どうしてもエリのことを話さざるを得なくなる。

それが、嫌だったのかも知れない。

 帰り道で、ケンは自転車を走らせながら突然、俺に早口で言った。

俺は聞こえない振りをした。

ケンは言った後、やたらペダルを速く漕いで、俺を追い抜いて行った。

 エリはジュンちゃんが好きなんだよ、とケンは言っていた。

 

 行ってみると、『準備中』という札がかかっていた。

 残念だな、と思い、踵を返そうとしたところ、ドアが開き、懐かしい顔が現われた。

久し振りだな、と言うと、満面の笑顔が返って来た。

飲めるかい、と訊かれ、飲めるよ、と答えた。

入れよ、と言われ、店に入って、カウンターに座った。

 この店は半年振りだ。

どうも、あまり流行っていない店って感じだ。

壁のポスター、『火の用心』の消防署のポスターが泣かせる。

今時、こんなポスターを貼っている店なんて、場末のラーメン屋程度だぜ。

まあ、女房も居なければ、子供も居ない、気楽な独身者だから、何とか食って行ければいいって感じで店をやっているんだろうな。

独身者と言えば、俺も一緒か。

死んだエリも独身を通したんだ。

俺たちは、似た者同士だったかも。

 「何、飲む?」

 「とりあえず、のビールだよ」

「はいよ、とりあえずビール、コップは、これ」

 「俺だけが飲んでもしょうがないよ。お前も一杯やれよ」

「そうだな、このところは不景気だし、お客も滅多に来ない、じゃあ、一杯やるか。酔わない程度に、飲ませてもらうよ」

「おう、そう来なくっちゃ、いけねえ」

「ジュンちゃん、津波の跡は見たかい」

「おう、今日、じっくりと見て来たよ」

「ひでえもんだろう」

「二週間も経つのに、未だほとんど手つかず、といった有様だな」

「こっちは未だましなほうなんだ。岬の向こうはもっとひどい状況だ。人も何十人も死んでさ、家もほとんど流され、町としては潰滅状態さ」

「へえー、何が違ったの?」

「防波堤の差、と人は言っているよ。こっちは結構、二重三重に防波堤で守られていて、津波も三メートル程度で済んだけど、岬の向こうは、防波堤なんてほとんど無く、津波も四、五メートルを越す高さで押し寄せたらしい」

「それで、町は壊滅状態になったのか」

「そういうことさ」

「こっちは、岬の向こうよりましという話だけど、エリは死んでしまったぜ」

「エリは可哀そうだった」

「ほんとに可哀そうだ」

「施設の子供を全員避難させたまでは良かったのだが、どういうわけか、施設に戻って、津波に襲われたんだ。何か、大事なものを取りにいったのかなあ」

ランドセルとアルバム、かと俺は思った。

「エリに、身内は居たっけ」

「居るさ。お父さんは昔に亡くなっているけど、お母さんが居るよ」

「お母さんが居るのか。さぞかし、辛く悲しかったろうな」

「当たり前さ。・・・、今更だけど、エリはジュンちゃんのこと、好きだったんだぜ」

「よせやい、そんな昔のこと」

「なんで、エリと結婚しなかったんだい」

「結婚? 結婚なんて、一度も考えなかったぜ」

「へえー、そんなもんかい。俺だったら、喜んでエリと結婚したよ」

「ケン、お前、エリが好きだったのかい」

「ジュンちゃん、お前、ほんとに鈍い男だなあ。俺がこんな齢まで独身で居たのは、エリが好きだったからだよ。エリが独身でいる限り、俺は結婚しないと昔から心に決めていたんだ」

「知らなかった。お前がエリのことをそう思っていたなんて」

「ほんとに鈍いよ、ジュンちゃん。・・・」

「おい、ケン、泣くなよ」

「いや、いいんだ。このまま、泣かせてくれよ。ジュン、お前も泣け。可哀そうなエリのために、泣いてやってくれよ」


そして、ケンは堰を切ったように話し始めた。

ケンは三段跳びで優勝したことがあった。

市の大会が俺たちの中学校で開催された時のことだ。

ケンは中学の代表選手で出場していた。

市内となると、中学も四十校近くはある。

それまで、上位十番くらいには居たが、優勝とは縁遠いケンだった。

優勝なんて無理だよ、とケンも言っていた。

そのケンが堂々第一位の記録で優勝してしまったのだ。

俺たちは喜びながらも、不思議がったものだ。

その理由が今判った。

女の力は大きい。

好きな女の子から応援されると、男は普段の倍、力を発揮するものだ。

ケンの話に依れば、前日、エリから応援するから、頑張ってね、と言われ、競技当日も、これを締めてね、とエリ手作りの鉢巻きを渡されたのだそうだ。

好きなエリから、このようなプレゼントを受けて、発奮しないはずは無い。

ケンは死にっきり発奮し、自己ベストを出して、見事優勝した。

優勝出来たのは、エリのお蔭だ、と俺に打ち明けて、ケンは泣いた。


 泣き崩れたケンを残し、俺は店を出て、港に向かって夜の町を歩いた。

埠頭に佇んだ。

他人の死は我々をして生かしめる、というルナールの言葉が脳裏をかすめた。

『にんじん』を書いたフランスの作家の言葉だ。

生きている者は死んだ者の分まで充実した生を生きなければならない。

それが、生きている者の責務だ。

エリは死んでしまったが、俺とケンは生きている。

生を失った者と生きている者の間には、極端な差があるが、エリは死にながら、未だ俺とケンの心の中に生きている。

恵まれた死者?

冗談じゃない。

死んだら、お終いだ。

生きていて欲しかった。

生きてさえいれば。

生きてさえ、いてくれたら。

真っ暗な埠頭には誰もいない。

夜の港は暗かった。

岸壁に打ち寄せる波の音だけが聞こえていた。

闇に包まれていた。

漆黒の闇の中で暫く佇んだ。

少し、霧がかかっていた。

霧があるのに、霧笛すら聞こえて来ない。

震災以降、この港は港じゃ無くなった。

つまらない夜だ。

寂しかった。

妙に、寂しかった。

寂しさのあまり、声を上げそうになった。我慢したが、その代り、涙が出て来た。

いい齢をして、泣くなよ。みっともないじゃないか。

自分に言い聞かせるように呟いてみたが、駄目で、涙は止まらなかった。

不思議だった。

なんで、泣いているのか分からなかった。

いや、それは嘘だ。

泣く理由ははっきりしている。

正直になれよ。

自分を欺くのはもうやめろ。

いつだって、お前は自分に嘘をついていたんだ。

もう、いいかげんにしろ。

嗚咽しながら、人の名前を呼んでいた。

懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。

その顔は微笑んでいた。

怒っていた。

泣いていた。

笑っていた。

悲しんでいた。

エリはいつだったか、俺の前で泣いたことがあった。

泣き顔は見れたものじゃない、と俺が冷やかしたら、怒った。

その時のエリの怒った顔が脳裏に浮かんだ。

そして、泣きながら、悲しそうにこっちを見た顔がとても綺麗だった。

ああ、馬鹿野郎、どうして死んでしまったんだ。

早過ぎるじゃないか。

生きてさえいてくれたなら、お前と遅い結婚でも出来たのに。

残った俺は一体どう生きて行けばいいんだ。

教えてくれよ。

お前は無責任じゃないか。

一体、どうしてくれるんだ。

俺は寂しい。

淋しいよ。

本当に淋しいんだ。

名前を呼びながら、更に泣いた。

今度の地震津波で、失ったものは無い、と思っていた。

家族も無事、親戚も無事、家も無事だった。

不幸中の幸い、とばかり俺は無邪気に喜んでいた。

しかし、それは大きな間違いだった。


俺は、とてもかけがえのないものを失っていた。

 そして、それはもう、永遠に戻らない。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ