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閃きか線のパズル

作者: たてばん

1.神頼み


 文字というのは、人間が長い年月と知恵を振り絞り開発した、記憶を記録に置き換える伝達方法である。それは、生鮮食品のように腐る事もなく、また、生物のように寿命も無い。

 文明が栄えている現代では、私達が生まれるよりも遥か前から地上に降り注ぐ星の煌めきのような、見渡せばどこにでもあり数えるのも億劫なほどの種類と数を誇っている。


 それは、すぐに買い直せる箪笥の奥にしまってある服のような――

 それは、毎日のように使う交通手段である車や電車のような――

 それは、何十年も働いて稼いだ全財産が入っている金庫のような――

 人によってはゴミ箱に投げ捨てるほどの、人によっては一緒に添い寝するほどの、人によって全く違う価値をもつ線のパズルだ。


 冬の冷気に廊下が冷やされて、まるで氷水に足を浸しているような感覚だ。最強寒波が家の外壁を越えて、黒いタイツの衣を軽々と貫通して刺激してくる。

 そんな冬山のような状況に耐えられず、急いで茶の間に足を踏み入れる。

 一歩足を踏み入れると、石油ストーブで暖められた部屋の空気が、優しく体を包み込んだ。

 ポケットから緑色のメモ帳を出して炬燵の上に置くと、冷えた体を両腕で抱き締めるように擦り、寒い寒い、と小さく声を漏らしながら炬燵に入った。

 すると、炬燵の中で何かを蹴った。それと同時に、うっ、とうめき声がした。

 ガタガタと炬燵が揺れてから、頭に大きな寝癖を作った弟の恭也が反対側に現れた。どうやら、炬燵で寝ていた恭也を蹴ってしまったようだ。

「いってーな。あっ、姉ちゃんお帰り」

「まだ十四時じゃない。この時間に家にいるなんて珍しいわね」

「今日は雪で仕事休みになったんだよ」

 恭也は現場仕事だから、天候が悪いと仕事が休みになるのだ。今週いっぱいは最強寒波が停滞するとニュースで言っていたので、もしかすると、連休になるかも……べ、別に羨ましくなんてない……。

「ねぇ恭也、私疲れたからミルクティー作ってきてよ。今日休みになったんだからいいでしょ?」

「は? なんで俺が――」

 私は嫌がる恭也に睨みを効かせた。すると、恭也は口をつぐみ、渋々ミルクティーを作りに台所に向かった。

 この世に生まれ落ちて二十年、私は恭也よりも二年も多く苦労している事になる。これは姉である私の当然の権利である。

 緑色の表紙をしたメモ帳を手に取る。いつも持ち歩いているので、表面が毛羽立ち端の方は皺ができている。

 表紙を捲ると白いノートが黒くなるほどに、びっしりと文字が書き込まれている。これは、お金には変えられない閃きの羅列だ。

「姉ちゃん勉強でもするの?」

 振り返ると、左手にミルクティーを持つ恭也の視線は、私の眼前のメモ帳にあった。恭也からミルクティーを受け取ってから、その質問に答えた。

「ううん。小説書こうと思ってるの」

「まだ小説書いてんのかよ。姉ちゃんの頭じゃ無理だって」

 恭也は右手をヒラヒラさせながら、私の言葉を否定した。

「まぁ、話は最後まで聞きなさい。『ライトノベル作法研究所』ってサイトがあって、今そこでバレンタイン企画をやってるのよ」

「姉ちゃんでも書けるぐらい簡単なの? つか、姉ちゃんパソコン持ってたっけ?」

「テーマも無いし誰でも参加資格あるみたいだから、試しに書いてみようと思ったの。お題は事前に決められた単語を三つ使うだけだから、ある意味簡単かな。それにスマホでも投稿できるのも魅力の一つよ」

 へぇ、と恭也は納得した様子で、首を縦に振った。

「で、そのメモ帳は何に使うの? まさか、メモ帳に小説書くわけじゃないよな」

「当たり前じゃない。メモ帳は閃きを入れる金庫よ。今までに思い付いたアイディアが入ってるの」

「じゃそのメモ帳見せてみろよ。面白いか俺が採点してやるからさ」

 メモ帳を見せろ、と恭也の腕が伸びてくる。私のアイディアが面白いかがわかるチャンスだと思い、恭也にメモ帳を渡した。正直心の中を見られてるようで恥ずかしいけど、褒められたらどうしよう、なんて変な期待をしてしまう。しかし、恭也の一言であっさり現実に戻された。

「なんだこれ、すげーつまんねーな」

「まぁ、バイト中に考えたプロットだからね。これからよ」

 軽く言い訳してみるが、予想以上に心に刺さる言葉だった。休憩中やレジ打ちしながらもずっと考えてやっと出たアイディアだったのに、こうもダメ出しされるとは、思ってもいなかった。

「ふんどししたホモがスイーツ食べてオークに変身、とか意味不明過ぎて逆に笑える」

 変なスイッチに入ってしまったのか、恭也は笑い過ぎて軽い呼吸困難のようになっている。

「まだ考えてる途中って言ってるじゃない!」

 怒りにまかせて大声で怒鳴ってしまった。大きく呼吸を繰り返して肩が上下に揺れているのが自分でもわかる。

 恭也から乱暴にメモ帳取り返して茶の間を後にする。後ろから、姉ちゃん、と呼び止める声が聞こえるが、私は無視して自分の部屋に向かった。

 部屋に着いた私は、炬燵とは真逆の冷えたベッドに飛び込んだ。

 私は小説が好きだし何回か新人賞にも応募している。なのに、なぜ私の小説はいつも選ばれないの? やはり、物語の土台であるプロット作りが絶望的にダメなのかな――。

 悔しい……面白い話を書いて絶対認めさせてやるんだから。それだけ考えて頭を振り絞ったが、この日、私の頭に閃きが舞い降りる事は無かった。


 街路樹を照らす温かい光とは裏腹に、外の冷えた空気が身に染みる。昨日降った雪が氷に変わり、鏡のように街灯を反射する。

 一呼吸する度に口から白い煙が上がり、夜空へと溶けていく。

 昨日恭也に言われた一言が頭に残り、全然集中できずにバイトが終わってしまった。いや、バイトには集中しないで、構想を練る事に集中してたと言った方が正しいかもしれない。おかげで小さなミスを連発してしまった。

「これも全部恭也のせいだ」

 苛立ちと口元を隠すように、右手でマフラーを上げる。そして、八つ当たりするように、道端にある氷の塊を蹴った。

 今日は二十二時までバイトで、小説を書く時間はあまり無い。だから、せめて閃きを求めて違う道で帰ろうと思う。

 小さな十字路交差点の手前で立ち止まった私は、大きく腕を広げて深呼吸をした。冷たい空気が肺に満たされ、少し体が震えた。

 よし、ここからは心機一転だ。過去の因縁を気にしては、良い閃きは舞い降りてこない。これは、あくまで持論だ。

 真っ直ぐ行くと家に着いてしまう。自然と右か左しか選択肢は無い。

「さて、どっちにしようかしら」

 両腕を腰に当てて交差点を眺めていると、一台の車が私を追い越した。不意にその車に視線が移る。そのまま、車に視線を乗せていくと、車は交差点を右に曲がり消えていった。

「右に曲がった……なら私は左ね」

 こういうのは直感が大事だ。それに、早く帰らないと私に閃きが舞い降りる前に、寒さで天使が舞い降りそうだ。

 たしか左に曲がって五分ほど歩くと、住宅街の中に小さな公園がある。そこの公園を一周して家に帰ろう。頭の中で作戦を立てて公園に向かった。

 公園に着いた私が目の当たりにしたのは、魔剣アザフォートを握った勇者が、公園でオークとバトルをしている。頭の中にお花畑を咲かせ、妄想の限りを尽くしながら公園に到着した。

 しかし、そこには、当然勇者もオークもいない。小さな滑り台にブランコ、それに砂場があるだけの風景が広がっていた。昔から何一つ変わらない景色が懐かしく、そして、寂しい公園だ。でも、何も変わらないからなのか、不思議と心が落ち着く。

「冷たい……」

 ブランコの氷のように冷えた鎖に触れると、ふと昔の記憶が甦る。

 小さい頃はこのブランコで、恭也と靴飛ばしをした。砂場では、大きな山を作って、山を壊さないようにトンネルを掘った。滑り台は……私は高い所が怖くて登れなかったけど、恭也は笑顔で滑ってたな。

 空気が冷えると胸がきゅっとして、なんだか涙脆くなる。哀愁が漂うだけで、閃きは舞い降りてこなさそう。むしろ、なんだか雪が降りそうだ。

 帰ろうとブランコから視線を外そうとしたその時、ブランコの隣に見慣れない、小さな箱のような物が置いてあるのに気づいた。

「小さなけどごみ箱でも置いたのかな。ん? なにこれ」

 暗くて遠目にはわからなかったけど、それは小さな神社のような建物、お社っていうのかな。高さは膝下ぐらいで、ちゃんと賽銭箱もあって可愛い。

 すっかり乙女心をくすぐられた私は財布を出した。あったあった、小銭の中から五円玉を出して賽銭箱に入れた。五円玉を選んだ理由は、ご縁がありますように、と語呂合わせで縁起が良いと何かで読んだからだ。

 二礼してから二回拍手をして願いを思い浮かべる。もちろん願いは、閃きが舞い降りますようにだ。そして、一礼をした。

 深々と下げた頭を上げると、なんだか風が強くなった気がする。隣のブランコが、きぃきぃ、と音をたてて揺れて、夜の公園に不気味さが増した。

「もしかして――」

 さっきの妄想が現実になる? いや、そんなわけないか。

 そう思い、回れ右をして一歩踏み出した瞬間に声が聞こえた。

『ちょい待ち』

 振り返ると、お社の中が淡く怪しげに光っていた。さっきまでは暗くて、何かあるようには思えなかったけど。

『姉ちゃん名前なんて言うの?』

 誰が話しているのかわからない。お社の方から声は聞こえるが、頭の中直接言葉が響くようにも感じる。直感で何か人間とは違う世界の声だと思った。

「な、名前を聞く時は、自分から名乗るのが普通じゃないんですか?」

 この怪しい状況で先に情報を与えるのは危険だ。冷静で常識的に話を進める。

『儂? 儂は一応学問の神様やっとるんやけど、最近お客さん入らないから、こうやって出張サービスしとるわけよ。

 儂は教えたから、次は姉ちゃんの番やで』

「そうなんですか……私は美嘉と言います」

 神様がこんなのとか嘘臭すぎる。そもそも、お社から声が聞こえて中が光ってるだけで、肝心の神様の姿が見えない。

『んじゃ、美嘉っちね。美嘉っち賽銭箱にお金入れてくれたから願い叶えたるわ』

「本当ですか?」

 私はこの一言で、得体の知れない者の声の虜になった。

『願い叶える代わりに文字を貰うわ。儂な、神様言うてもそんな力無いから、なんか供物にしないと叶えられんねん』

 この状況に私の理解力は追い付いていないが、閃きをくれるというなら欲しい。恭也を見返してやるんだ。拳を握り締めながら答えた。

「わかりました。是非お願いします」

『了解やで』

 次の瞬間、身構えるほどの強い風が吹き、思わず両腕で顔を隠した。

『なんかあったらまた来よったらええ……』

 その言葉を最後にお社の声は途絶えて、中の光も消えた。

「なんだか夢を見ていたようだわ」

 暫く経ってから、腕時計を見てみると、日付が変わろうとしているところだった。

「大変。もうこんな時間」

 私はお社を背に、家に向かって走り出した。


2.幸福の中の絶望


 お昼前に目を覚ました私は、炬燵に仰向けに入って、人の顔にも見える天井の模様を見つめている。

 炬燵の暖かさに、私の思考回路はアイスのように溶けてしまいそうだ。溶けて眠ってしまいそうな脳を起こし、昨日の事を思い出してみる。

「言霊を供物に、閃きを……か」

 昨日の出来事は本当にあったのだろうか。そもそも、誰かの手の凝った悪戯の可能性もある。お社にマイクが仕掛けてあって、それと会話する私。

 仮にそうだとしたら、何の為? 決まっている。そんなの大勢の人に見せて、馬鹿にする為以外に無い。動画サイトで有名になれると、それだけで何十万という大金が手に入ると聞いた事がある。

 もし動画サイトに載せられたら……。お社と話をする人なんて格好の的じゃない。

 誰かに馬鹿にされてるわけでも、見られたと決まったわけじゃないのに、なんだか恥ずかしくなって思わず足をばたつかせる。

 すると、反対側から恭也の声が聞こえた。

「さっきから、バタバタうるせーよ」

 ぎょっとして仰向けの状態を起こし座ってみると、反対側に恭也が座っていた。恭也がいる事に全然気づかなかった。

「昨日は悪かった。つまらないなんて言って」

「べ、別にいいわよ。事実だし」

 こうも真っ直ぐ謝られると、どう対応して良いか困ってしまう。いつも真っ直ぐなのが恭也の良いところだ。

「姉ちゃん、企画の期限って何時まで?」

「なんでそんな事――」

「いいから教えろよ」

 私の言葉を遮り、恭也の言葉が茶の間に響いた。

「今日が二月八日で、投稿期間は二月十一日から二月十四日までだから、最終日まで一週間切ったところね」

 茶の間に掛けてあるカレンダーを見ながら答えた。

「もう、あまり時間が無いんだな。姉ちゃん、俺も小説作り手伝うよ」

「ちょっ、あんた何言って――」

「任せろよ」

 再び私の言葉を切った恭也は、拳から親指を天井に向けて出し、なんだか決めポーズのようなものをとっている。先が思いやられそうだけど、少しでも戦力が増えれば面白い小説が書けるはずだ。

「じゃ、早速お題見せてよ」

 恭也の言葉に私は、スマートフォンでバレンタイン企画のサイトにいき、恭也にお題を説明していく。

「受験や卒業みたいな学園物に使えそうな物や、桜や雪、虹とか天候や季節物も使いやすそうでしょ。密室や連続幼女誘拐事件は難しいけど、サスペンス物に使えそうだし。まぁ、特異点とかファフロッキーズ現象は無理だと思うけどね」

 そこまで説明すると、恭也が私を見ながら、にやにやしている事に気づいた。

「何よ」

「いや、説明してる姉ちゃんがスゲー生き生きしててさ、姉ちゃん本当に小説好きなんだな、と思って。こりゃ中途半端にできないな」

「当たり前じゃない。中途半端にしたらぶっ飛ばすわよ」

 私の口が弛み、自然と笑みが溢れてくる。恭也と目が合って、私の笑みが移ったかのように、二人で笑った。

 笑いも落ち着きお題を見ていると、何かが頭に舞い降りた。これは、閃きだと直感でわかった。この閃きが消える前に書かなくちゃ。

 目の前にあったメモ帳を勢いよく広げて、シャーペンで次々と文字を綴っていく。

「いきなりどうしたん――」

「少し黙って」

 今度は逆に恭也の声を遮り、綴るのに没頭した。

 ――ふぅ。シャーペンを置くと、無意識に溜め息が出た。

「ふぅ。じゃねーよ。一体どうしたんだよ」

「なんか閃きが舞い降りてきて、急いで書かないと消えちゃいそうな気がして」

 右手で頭をかきながら、苦笑いをして見せる。

「なんかに取り憑かれてたみたいに見えて、なんか怖かったぞ」

 私が取り憑かれてる? そんな馬鹿な。もしかして昨日の……いや、そんなのあるわけ無い。頭を振って否定する。

「そ、そんな事よりさ、今考えた設定見てよ」

 多分私は今すごく不安な顔をしていると思う。その顔を隠したくて、恭也の目の前にメモ帳を広げて見せた。

「えーと、ファフロッキーズ現象で次々と幼女が降ってくる。しかし、警察に相談するも、巷で有名な連続幼女誘拐事件の犯人だと思われる主人公。この幼女達は一体何者なのか……、ところで、ファフロッキーズ現象って何?」

「ファフロッキーズ現象っていうのは、空から雨や雪、又は隕石みたいな当たり前な物以外が降る事よ。魚や蛙とかが降ってくる事もあるみたいよ」

 あれ? なんで私こんな難しい事知ってるのかしら。さっき恭也に説明した時は知らなかったのに。なんとも言えない不安に胸が苦しくなる。

「姉ちゃん物知りなんだな」

「まぁね」

 不安を隠すように笑ってみせる。上手く笑えてるか自分でもわからない。

 恭也が、じっと私を見つめる。昔から恭也は勘が鋭いとこがある。恭也が何を考えているかわからなくて、私も恭也を見つめながら硬直してしまった。

 時間が過ぎると不安を通り越して、なんだか恥ずかしくなってくる。そう思い始めた頃、恭也はメモ帳をこちらに見せてきた。

「話の内容はわかったけど、落ちはどうするの? 幼女が宇宙人とかだと、話が大き過ぎて十四日までに終わらないんじゃないの?」

「うっ、落ちはまだ考えてない……。落ちって考えるの難しくてさ」

 あはは、と誤魔化すように笑ってみる。恭也の鋭い視線が痛い。

「物語は落ちが重要って言うじゃん。この話は候補の一つにしといて、他には何か無いの?」

「そんな事急に言われても……」

 お題を見て考えていると、下から二番目の文字が読めない事に気づいた。

「ねぇ恭也、これなんて読むの?」

「ゲシュタルト崩壊だよ。こんなのも読めないの?」

「あんたが読めるか確認しただけよ。げ、げ……まぁ良いわ」

 おかしい。文字が読めない。文字が頭に入った瞬間にバラバラになって、なんという文字かわからなくなってしまった。疲れてるのかな? 寝れば治るかな?

「ごめん。疲れたから少し寝てくるね」

「おう。姉ちゃん寝てる間に俺も考えておくよ」

 立ち眩みに体を揺らしながら、茶の間を後にした。


 一日が過ぎても、お題の下から二番目の文字が読める事はなかった。

 文字は読めないままだけど、意味はちゃんと理解できた。恭也に意味を調べてもらったら、ちゃんと理解できたので、このままでも問題無いだろう。多分、考え過ぎて疲れているのだ。

「文字を供物に願いを叶える――」

 一昨日の公園の出来事を思い出していた。閃きは舞い降りてきて、それから、文字が読めなくなった。

 精一杯推理をしてみるも、どうやら私の頭では容量不足のようで、結論が出ずに終わった。

「――ません。すみません」

「はい?」

「早く会計してもらっても良いですか」

「あっ、申し訳ございません」

 軽く頭を下げてレジ打ちを始めた。一昨日の出来事と昨日の因果関係を考えていて、バイト中だというのをすっかり忘れていた。

「ありがとうございました」

 客が帰った事を確認すると、ため息が出てきた。

「どうしたの美嘉ちゃん? 悩みがあるなら相談のるよ」

「悩みだなんて……大丈夫ですよ」

 スキンヘッドのヤクザのような顔をした店長が、顔にも似合わず私を心配してきた。

 このコンビニの店長は父の友達で、父の紹介でバイトする事になった。

 店長と私の二人しかいないけど、田舎のコンビニで個人経営なので忙しくて困る事は無い。考えに耽れる時間が多くて、小説家を目指している私にとっては、天職のような場所だ。

 外が徐々に明るくなってきた。時計の針は六時をまわっている。チク、タク、と動く秒針の針を見ていると、突然あの感覚が舞い降りた。閃きの時間だ。

 私は急いでボールペンを持ち、客が置いていったレシートの裏に、必死に閃きを綴った。消えてしまうのが勿体ない閃きで、バイト中なのを忘れて夢中で書き続けた。


 バイトの終わった私は、レシートにメモ書きした閃きを見ながら歩いていた。

 閃きがあってから、二時間ほどバイトをしたが、特に問題は無かった。文字が読めなくなったのは、たまたまじゃないのかな? それに、面白い閃きが舞い降りて、この症状なら安いものだと思えてきた。

 そんな事を考えていていると、ふと、またあの感覚がやったきた。

 ――しまった。こんな時に限って家にメモ帳を忘れてしまった。レシートの裏はもう書く場所が無い。

 バイト先に戻るか、家に帰るかどっちが早い。いや、この考えてる時間も勿体ない。走って帰ろう。

 私はバッグを抱えて、無我夢中で走って帰った。自転車にぶつかりそうになっても、車に轢かれそうになっても、その足は止まらなかった。全ては面白い話を書く為、面白い話を書けばみんなが読んで、良い評価をくれる。

 家に着いた私は何かに取り憑かれたように、メモ帳に閃きを追加していった。バレンタイン企画の投稿日が待ち遠しくて仕方がない。

 一通り綴り終わると、どっと疲れが込み上げて、眠気が襲ってきた。夜勤のせいもあるだろう。

「少し寝よう」

 ベッドに倒れた私は、羊が一匹跳ぶよりも早く深い眠りに落ちた。


 雲の隙間から照らす夕焼けの光は、まるで舞台に立つ主役を照らすサーチライトのように、私を眩しく照らしていた。

 昨日はあの後、眠り続けて起きたら日付が変わっていた。ナマケモノに対抗できそうな睡眠力に我ながら関心する。

 そんな感じで時間が経ち、今日のバイトは夕方からだ。今日のこの時間までに、十個ほどの閃きが舞い降りてきた。どの閃きを使うか迷ってしまう。もういっそのこと、全部使ってしまおうか。

 全部高評価を受けたらどうしよう。なんて、まだ始まってもいないのに、先を想像するのは私の悪い癖。

「こんにちは、お疲れ様です」

「おう、なんか良い事でもあったのかい?」

 駐車場を掃除している店長が、白い歯を見せ笑顔で聞いてくる。

「いえ。なんでもないです」

 想像しながらバイト先に着いたせいで、無意識に口元が弛んでいたようだ。恥ずかしくて顔が熱くなる。

 その時、一通の電話が鳴った。

「悪いけど電話出てくれないか?」

「わかりました」

 店長はまだ掃除をして手が離せないので、私が代わりに電話に出た。

『こんにちは、岡田酒造なんですけど――』

 受話器から年配の男の人の声が聞こえた。以前注文したお酒の事だろう。

「岡田酒造さんですね」

 メモ帳にお客さんの名前を書こうとすると異変に気づいた。

 文字が全然書けないところか、平仮名すら書けなくなっていた。――なんで? もしかして文字を供物にした代償?

「はい……ありがとうございました」

 何も書けないショックで電話の内容が頭に入ってないのに、適当な返事をして切ってしまった。すると、掃除の終わった店長が戻って来た。

「誰から電話だった? ……どうした美嘉ちゃん。顔色悪いぞ」

 小説家を目指している人間が平仮名さえ書けないなんて、血の気が引く思いだ。実際相当顔色が悪いのだろう。

「い、いえ……大丈夫……です」

「美嘉ちゃん体調悪いんだから、無理する事無いよ。今日は帰って寝なさい」

「……はい」

 このままバイトをしても迷惑がかかるだけなら、休むのも良いかと思った。

 自分がバラバラになっていってるようで怖い。このまま閃き続けたら、私はどうなるんだろう。経験した事無い不安に、心が壊れそうだった。

「嫌、止めて……お願い来ないで」

 また突然閃きが舞い降りてきた。これはもう、病気の発作で私を苦しめる物でしか無い。

 この状況から逃げ出したくて、思わず走り出した。走って走って、走り続けた先には、帰るべき自分の家があった。そこで、私は愕然とした。

 ――表札にある自分の名字が読めない。

 どうしてこんなになるまで気づかなかったのだろう。自分の馬鹿さ加減に嫌気がさしてくる。

 玄関をのドアを開けると、そこには、灰色の作業服を着た恭也が靴を脱いでいるところだった。

「お帰り姉ちゃん――そんなに息切らせて何かあったのか?」

 恭也は不思議な物でも見るかのように、きょとんとした表情を浮かべている。

 突然の出来事に堪えきれずか、恭也を見て安心してかわからないが、自然に涙が溢れ出た。

「大丈夫か? 何かあったら俺に言えよ」

「何かあったら……」

 思い出した。何かあったら来いと神様が言っていた。すっかり頭から抜け落ちていた。

 私は身を翻して漆黒の闇に姿を変えた、異世界にも似た夜の世界に駆け出した。


3.リセット


 走って灼熱の太陽のように熱をもった体とは正反対に、心は極寒の海の流氷のように冷えて、ユラユラと不安定な動きで私を困らせる。

 気付けば片方の靴が無くなっていた。どこかに落としちゃったのかな――。

 揺らめく心が一瞬の落ち着きを見せると、息が切れて苦しくなった。自動販売機、ガードレール、塀、いろんな物に肩を借りながらゆっくりとあの場所に向かって歩き続けた。

 なんでこんな事になったのだろうか。考えてもしょうがないが、嫌でも頭の中で過去を振り返ってしまう。

 しばらくすると、空から雪が降ってきた。今の私にとって、これは邪魔な空爆のような物だ。

 私の邪魔をする冷たい雪は牡丹雪に育って、みるみるうちに積もり始めた。

 なんでこんな時に……、唇を噛み締めながら、体に渇を入れた。

「はぁはぁ、着いた」

 息を切らせた私の前にあるのは、――小さなお社。そのお社は、屋根に雪をのせていて、まるで帽子を被っているようだった。。その白い帽子を綺麗に取ってから、賽銭箱に五円玉を入れた。

 二礼してから二回拍手をする。そして、お社に向かって願った。

「閃きは全てお返しします。だから、私の文字を返してください」

 小さな声で力強く願った。

 深々と一礼して顔を上げた。すると、いきなり強い風が吹き、辺り一面の冷たい白い粉を吹き飛ばした。――あの時と同じだ。

『せっかく願い叶えたのに何が不満やねん』

 あの時の声が、また頭に響いてきた。私は臆せず答えた。

「面白い話を書きたいし、良い評価も欲しい。そして、あいつに一泡吹かせる。全て私が間違っていました。

 文字が無いと生活に困る事もありますが、私にとって活字は恋人のようなもので、書けないと寂しい事に気づかされました。それに面白い話じゃなくても、もっとたくさんの話を書き続けたいです。

 みんなに読んでもらって、良い評価は欲しいですが、このままじゃ私欲求不満で死んじゃいます。

 閃きは全部返すので、言葉を返して下さい」

 一時の静寂が訪れた。唾を飲み込む音が聞こえる。緊張のせいか、喉が渇いて息が詰まりそうだ。

『結構早いクーリングオフやったな。美嘉っちがそう言うならしゃーないな……』

 その声が途切れると、お社が眩しく光った。あまりの光に、思わず目を閉じた。

 光が消えて目を開くが、目が眩んで何も見えない――。

 しばらくして闇に目が慣れてくると、そこには、もう小さなお社は消え去っていた。


 歩いて帰っていると、前から恭也が走ってきた。

「大丈夫か姉ちゃん! 怪我はしてないか?」

 これで全てが戻っていつも通りだ。私は思わず恭也に抱きついた。すると、安堵の涙が出てきた。

「どうしたんだよ姉ちゃん」

「なんでもない」

「それなら良いけど、なんかあったらすぐ俺に言えよ。一人で根詰めたって良い事無いんだからよ」

「うん」

 雪も降って外の気温はマイナスなのに、私の心と体は春のような心地よい暖かさを感じていた。

「ごめんね。もう少しだけ、もう少しだけこのままでいさせて」

 弟に甘えられるのは、女に生まれた姉の当然の権利である。

 涙が止まるまで、私は恭也に抱きついていた。


4.エピローグ


 二月十一日は建国記念日で、私も恭也も仕事が休みで、二人で炬燵に入ってくつろいでいる。炬燵とは底無し沼のような、入ったら抜け出せない、そんな堕落の底に引きずり込む力がある。

 私はそんな炬燵の虜になってしまった。

「恭也。ミルクティー作ってきて」

「なんで俺が――」

「嘘だよ。たまには私が作ってあげる」

 今の私には底無し沼から抜け出す意思と力がある。前の私なら無理だっただろう。

「どうしたんだよ姉ちゃん。今日大雪降っちまうぞ」

「それはちょっと酷くない?」

 そんな他愛のない会話に二人で笑い、石油ストーブの暖かさとは違う、もっと優しい暖かさに満たされた。

 私は、はい、と恭也にミルクティーを渡して座った。恭也は、サンキュー、と受け取った。

「そういえば、小説の方大丈夫なの?」

「大丈夫だよ」

 私の顔を見た恭也は、そうか、とだけ答えてそれ以上なにも言って来なかった。

 今の私ならこの何気ない日常が幸せという気持ちを文章におこして、どこまでも伝えられそうな気がする。でも、その前に閃きの金庫にプロットを書かないと。

 文字が戻ってきた代わりに、私の閃きの金庫は以前書いた使えない物だけに――、つまり空になってしまったのと同じだ。

 人に読んでもらうからには、最低限面白い話を書かなくちゃ、と強迫観念にも似た恐怖が背中に迫ってくる。

「これじゃ前と同じじゃない」

 私には何が面白くて、何がつまらないかわからない。だから、とりあえず私にとって面白い話を書いてみようと思う。

「時間も無いし急がないと」

 見開きの金庫の上で、シャーペンが走り出した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリーは普通に面白いし、内容も詰まっている方だと思う。 [気になる点] キャラの個性が弱く、もう少し兄弟の関係性が濃く書かれても良いかなと思った。 あとは、オチがもう少し欲しいかな。早…
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