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いつかの思い出に捧ぐ

作者: 高倉 悠久

 私は逃げたんだ。自分の弱さから。

 いつも私の心を埋め尽くしていた後ろめたさと、目が合う。よくもまあ、5年もつまらないことでうじうじと悩んでられるなぁ。そう思いながら顔をしかめて目を逸らすと、それは寂しそうに霧散した。

 

――暑い。かき氷が食べたい。

 夏場はよく、かき氷が食べたくなる。アイスではなく、かき氷だ。

「ああ、みぞれに練乳がけのかき氷ぃ……」

 私は畳に倒れ伏して、呻くようにかき氷を呼んだ。

「かき氷ぃ……暑い……」

「うるさいわよ、こっちまで暑苦しくなるでしょーがっ」

 部屋の前を通りかかったお母さんが、ついでとばかりに怒鳴っていく。

「……と、そうだ」

「? どうしたの、お母さん」

 お母さんは部屋に引き返して、私を手招いた。私は重いからだを起こして、ずるずるとそちらへ向かう。

「この前の夏祭りの時、もらったの。そういえば有効期限が今週末までだったと思ってね」

 お母さんは、エプロンのポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出した。

 そこには、『かき氷割引券 たこ屋』と、おそらく店主の直筆であろう汚い字で書いてあった。

 

     ***


「5年ぶりだな……」

 私は昔、近くの河川敷のコートで、テニスを習っていたことがあった。その帰り道にあるたこ屋には、よく幼なじみと寄ったものだった。

「おっちゃん、私のこと覚えてるかな……」

 私はため息をひとつ、こぼした。夕方なのに容赦ない橙の日差しと湿気と気の重さで、もう一歩も前に進めない、というような気持ちだった。

 理由はわからないのだが、私はなぜかおっちゃんに、いやあの頃に関わっていた思い出のものたちすべてに、嫌われているような気がしていた。それは5年前……テニスを辞めてしまって以来、ずっと続いている後ろめたさだった。

 

 私がテニスを辞めたのは、小学校高学年になってから、学校でいろいろな運動に取り組む「スポーツ教室」に参加したことがきっかけだった。 

 その教室とテニスの時間帯がほぼ被っていたことと、今まで一緒にやっていた友人たちがばたばたとテニスを辞めてしまったことで、私の心も何となくテニスから遠のいてしまったのだ。

 それでも私は、テニスが好きだった……いや、多分、今でも。私は大して上手いわけではなかったのに、走り回っているときに身に受ける日差しは、なんだかきらきらと輝いていて……

 だけど辞める前の一ヶ月ぐらいは、今まで親しんできたはずのコートも、あのあたたかい日差しさえも、別人のようにそしらぬふりをしていた。今思えば、辞めようと思いながらも踏ん切りがつけられなかった私の心を、見透かされていたのかもしれない。


     ***

 

 過酷な夏の日をくぐり抜けて、ようやく目的地にたどり着いた。大きな信号のある道沿いの一角に、小さなその店は建っている。

 久しぶりに見た店の横には相変わらず、錆びた自販機。たばこの自販機とジュースの自販機が、一台ずつ。昔の駄菓子屋さんのような店の外装が、否応なしに年代を感じさせる。

「あのー、かき氷買いたいんですけどー」

 民家の玄関にのれんをおろしただけのようなこの店では、何か買いたいときには奥にいるおっちゃんまで声をかける必要があった。

「はいよぉー、ちょっと待ってなー」

 間延びした返事が、店の奥から聞こえる。ガラガラと、噛み合っていないような音を立てて引き戸が開いた。

「何買うんや?」

「ああ、えっと……かき氷を。みぞれのやつね」

「あいよ、そこらへんに座って待っときな」

 無愛想にも思えるおっちゃんの接客態度は、5年来全く変わっていなかった。

 私はおそるおそるのれんをくぐる。店内は古く、あまり綺麗ではない。が、私には、清潔感溢れるのっぺりとした壁に囲まれた冷ややかな飲食店なんかよりは、こっちのほうがよっぽど親しみを持てた。

 おっちゃんの手招きにしたがって、私は店の端の方にあるパイプ椅子に座った。

 ひんやりとしたパイプ椅子の、その懐かしい感覚に、ふと昔の情景が蘇る。

 草が好き放題に伸びている河川敷のテニスコートから、幼馴染と一緒に帰って来たこと。ごちゃっとしたこの近辺にしては珍しく広い歩道に、強く照り返していた夕日。競争だとか言って、自転車でバカみたいに全力疾走したこと。たまに転んだりもしながら、汗だくになってこの店に走りこんだなぁ。

 思い出せば思い出すほどに、それは「遠い昔のこと」として私の頭にこびりつく。それがどうにも寂しくて、……少しだけほっとしてもいた。

 そうだ、この店ではいつも飽きずに、幼馴染はブルーハワイ、私はみぞれを頼んでいたっけ。そしてその後の定番は、幼馴染のマンションに押しかけて、私のお母さんが迎えに来てくれるまで二人でゲームをすることだったんだよね。

 幼馴染の、屈託のない笑顔を思い出す。きっとあの時、私もあんな風に笑っていたんだろう。

――辞めなきゃよかったな、テニス。スポーツ教室だって、本当は私、あんまり好きじゃなかったのに。

 そんな気持ちがふと、首をもたげる。私にそんなことを考える資格はない、考えちゃいけないと、そう思うほど強く。

 中学校や高校で、汗をきらめかせて走るテニス部の人たちを見ているときなんかは、その憧れは後悔や嫉妬にも似た形に変貌してしまう。

――私ならもっと走れるのに。私ならもっと真面目に取り組めるのに。

 グラウンドの中に一人佇んで彼らを眺める私は、あまりにもちっぽけで、そしてこの上なく惨めだった。

 

「あい、かき氷!」

 どん、とかき氷が私の目の前のテーブルに置かれる。思考が途切れた私は、真っ白な氷の山を見つめて目をぱちくりさせる。

「あ、どうも……」

 顔を上げるとおっちゃんと目が合い、私は思わずごにょごにょとしたお礼を言った。

「お嬢ちゃん、今何年生?」

「えっ!? あ、ああ、高校一年生です」

――やっぱり、覚えてないかぁ

 してもいなかったはずの期待を裏切られ、私は軽くため息をついた。

「今年の春から、府内のO高校に通ってます」

 おっちゃんはふうんと言って、私の向かいの席にどかっと腰を下ろす。これはいつも、「ここで食べていけ」という合図なのだった。仕方なく私は、手近にあった使い捨てのスプーンを手に取る。

 なだれを起こしてしまわないよう気をつけながら、ゆっくりとスプーンで氷を崩す。いつものことだが、みぞれシロップはかかってるんだかかかってないんだか分かりにくいな。そう思って口に含んだ氷は、見た目のわりにふんわりとした味わいだった。

「高一かぁ、そらでかいわけやなぁ」

 おっちゃんは豪快な物言いで、昔より随分としわくちゃになった顔を更にしわくちゃにしながら、わははと笑う。私はそれに、気後れした曖昧な笑顔で応えた。

「高校でもまだ、テニスはやっとんの?」

 え、と掠れた声がでた。

 覚えてたのか。でもなんで私がテニスやってるって。ああそっか、おっちゃんは知らないよな……、私がテニス辞めたなんてこと。

 驚いたと同時に申し訳なさが沸き上がり、私は俯いた。

「あ、いえ、テニスはだいぶ前に辞めちゃって……今は、別の部活に入ってます」

 まるで言い訳をしているような気持ちになりながら、私はおっちゃんに言った。おっちゃんは私のおどおどした様子などまるで気に留めず、嬉しそうな表情で「そうかそうか」と言った。

「うん、感心やな。続けるのはもちろんええ事やけど、いろんなことをがんばるんも同じぐらいええことや」

 おっちゃんの言葉に、私は少しきょとんとした。それは考えたことがない、物の見方だった。

――私は今、頑張っているのだろうか。……それはわからない。わからないけれど、わからないなりに、昔の自分に恥じないだけのことはしてきたつもりだ。

――だったら私が、昔の自分に負い目を感じることなんてないんじゃないかな。今の私を、誇って、いいんだ。

「……なあ、おっちゃん」

「何や?」

 いつかの昔のように、幼い子どものように、真ん丸い心に戻って問いかけてみたかった。

「昔の私が見たら、今の私のこと褒めてくれるやろうか」

 おっちゃんは、何でいまさらそんな事を聞くんだとでも言いたげな顔で、「あったりまえや!」と答えてくれた。

 溶けて液体になってしまったかき氷を、ストローで一気に啜る。後を引く甘ったるい味は、今も昔も変わらずに……きっと人類が滅ぶその日まで、こうして変わらずいるんだろうな、と思う。

 

     ***

 

「またおいでやー!」

 店を出ると、相変わらずごちゃごちゃとした町並みは、揃って橙色に染まっていた。地面には、左手にビニール袋を提げた私の影が伸びている。

 店の前で私を見送るおっちゃんに、一度だけお辞儀をした。後はもう振り返らず、前だけを見て歩き出す。

――家からは遠くなっちゃうけど、……少しだけ寄り道して帰ろう。

 少しだけ、心に余裕が生まれた気がする。夕日に包まれた道をたどる私の足取りは、暑さにも負けず軽かった。

 

 いつかの思い出は、決して私に冷たくなったわけではなかった。それなのに勝手に遠ざけて、ごめんね。幼かった日々に、もう一度、改めて「久しぶり」って言おう。ついでに近況報告でもしてみたら、昔の自分は笑いかけてくれるだろうか。人はきっとそうやって、思い出を「思い出」として、大切に心の引き出しへとしまえるようになっていくんだろう。

 

 緩む口元を右手で押さえて、左手に持ったビニール袋を少し高く上げてみた。軽いんだか重いんだかよくよくわからない、あの特有の感触だ。

――急がなきゃ、急がなきゃ。このブルーハワイのかき氷が、溶けてしまわないように。

 私の足は、心につられて自然と小走りになる。

 

     ***

 

 しばらく歩くと、目の前に懐かしいマンションが見えてきた。日が沈みかけて薄暗い程度の時間帯だが、そのマンションの一室には、もう既に温かい灯りがともっている。

 マンションに入る直前、ちりんちりん、という音が少し離れた後方から聞こえた。

 振り返ると、自転車に乗った二人組……小学校低学年ぐらいであろう子どもたちが、無垢な笑顔で私の前を駆け抜けていく。その二人の勢いに煽られた私の元にも、心地よい風が吹き抜けた。会話は良く聞こえなかったが、すれ違いざまのその表情からは、彼らが慣れ親しんだ友人であるらしいことが窺える。

 もうかなり遠くなった彼らの背に、使い古された黒色のラケットカバーが背負われているのが見えた。

 

 

 

     FIN


―――この話に登場する幼馴染は果たして、僕と過ごした河川敷での幼き時間を今でも覚えているだろうか。

 僕は、いつかの日にかき氷を食べながら見た、あの夕日が大好きでした。

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