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雨の勢いが強くなって、砂浜を真っ黒に塗りつぶしていく。こんなふうに記憶だって塗りつぶすことができたのならどれだけいいことだろう。Tシャツが段々と重くなり肌に張り付いてくる。だけど、冷たさはほとんどなかった。
だけど、記憶は消すことはできない。つらい記憶は、特にそうだ。押し出そう、押し出そうとするほどにその倍の力で僕自身にまた襲いかかる。いや、押し出そうとしている僕が悪いのかもしれない。彼女の記憶は、そこにあって当然のものだ。僕たちは短い間ではあったにしろ付き合っていたのだから。
石橋愛は、死んだ。大学生の男といっしょに新宿で飲み歩き、急性アルコール中毒で突然死んでしまった。
僕がそれを知ったのは、学校が始まってから少し経ったあとだった。高校では、事が大きくならないように生徒には「交通事故」として伝えられたが、「急性アルコール中毒」だったという噂は風に乗ってやってきたかのように広まった。そして、大学生の男といっしょだったということも同時に。
その男について、考える。その男が憎いのか、それともただ単に嫉妬しているのかがわからなくなってしまった。今もまだわからない。おそらく、石橋愛とその男は関係を持っていたのだろう。そして、その男が彼女を殺した。ただひとつ、僕は弱かったということは分かった。僕は何もできない無力な高校生だった。
その嫉妬だか憎悪だかがわからない異様な感情と無力感が今もまだ僕のなかで息をしている。それが、僕を苦しめる。
けれども、僕は今こうしてあの海に戻ってきている。思えばあれから一度もこの海には
来ていなかった。とにかく石橋愛が死んでからは思い出すことがつら過ぎて海に行きたくなかったし、海を憎いとさえ思った。そして、そのまま海は僕にとってはないも同然のものとなってしまった。そういうふうにしてなんとなく高校生活が終わり、人並みに受験勉強をして東京の大学へ入った。
石橋愛が死んだときにいっしょにいた男が通っていた大学だ。それがどういう意味を持つのか、高校生の僕には全く想像もつかなかったけれどそうしなくてはいけないという呪縛のようなものを感じていた。第一、その男は当時大学三年生でもうその大学を卒業してしまっているのだ。大学のどこにも、その男の足跡のようなものはなかった。顔すらわからないのだ。けれど、僕はその男がいたということを意識せずにはいられない。この教室に、この席に、あの男がいたと思うだけであの時の無力感がよみがえってくる。弱い自分だ。そして今も何もできないままだ。
大学生活が三カ月過ぎたけれど、もうどうでもよくなってしまった。この大学に入るために勉強して、親に安くはない授業料を払ってもらっているのはわかっている。けれど、そのこととは別の次元のことだ。
そして、僕は大学で人を殺してしまったんだ。
同じ講義を取った教育学部の学生だった。一般教養の「教育学」の授業でディスカッションを行い、そのグループで偶然いっしょになった。彼は教育学部の学生らしく話し合いをしっかりとまとめようとしていた。一方、僕は話し合いには参加せずに何も考えずにただ黒板を見ていた。
「君はどう思うの? さっきから一言も発言してないけど」
僕は、彼の顔をじっと観察をした。短い髪で、とびきりに整っているとはいかないがさわやかな顔立ちだ。愛想もよくて、どんな人からも好かれるような人間だと感じた。にこっと笑うと八重歯が見える。
僕は何も答えない。
「ねぇ、何か言わないとこのグループの成績が落ちちゃうんだ。ほら、教授がこっちみてるだろ。君だけの責任じゃないんだよ。みんなに迷惑がかかるんだ」
その学生の顔は、いかにも自分が正しいことをしているという自信に充ち溢れている。よくもこんな顔ができるものだな、と思った。
もううんざりとしたので席を立って教室を出た。廊下を出てしばらくするとさっきの奴も教室から出てきて僕を呼びとめる。廊下は、不思議なくらいに人が通らず、耳が痛くなるくらいに静かだった。その男が僕の肩に手をかけた。
そこから先は思い出せない。
僕がやったことかということも定かではない。
気がついたら彼の顔は絞った後の雑巾のようにぐちゃぐちゃになっていた。鼻血が流れていたが、それ以外はぴくりともせずにいた。急に教室のなかのざわめきが聞こえてきた。いや、これはもともと聞こえるはずだったんだ。まだ誰もこのことに気づいてないはずだ。僕は、すぐに駅に向かった。
彼が死んでいたのか、気を失っていたのかはわからない。でも、とにかく逃げなければいけないと思った。
そして、僕はこの海に来ていた。
僕が許されることをしていないのはわかっている。けれど、僕の運命は石橋愛―彼女とこの海で会ったことでなにかが変わった。
雨が止んで、ただ波音が響く。