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今度の休日に思い出巡りしてみようよ、と千絵に誘われて私は本当に久しぶりに母校を訪れた。
幼稚園。小学校。中学校。そして高校。私と千絵は計十五年間同じ学び舎に通っていたことになる。それはこの小さな田舎町では決して珍しいことではないが、私は最終学年になる頃にはいつも、千絵は都会の私立の学校に進学するのではないかと覚悟していた。明治時代から続く老舗の呉服店を経営している千絵の家はこの街で五本の指に入るほどの裕福さで私のような庶民とは違い、公立でなければならない理由などどこにもなかったし、二つ年上の千絵の兄は中高一貫教育の有名私立校に進学していたからだった。しかし千絵は何食わぬ顔で私と同じ公立の学校に通い続けた。
私は何度か勇気を出して千絵に尋ねたことがある。
中学から私立の学校に行くの?高校はどこにするの?どうして私立を受けなかったの?
千絵の答えはいつも簡単だった。郁子がいないから。こんなこと言われたら涙が溢れてきてもしかたがない。そして事実私は家に帰り部屋に閉じこもって存分に泣くのだ。嬉しいのでも安心感でもない。心に何かが迫ってくる。気を抜くと涙が勝手にこぼれていってしまうのだ。
千絵の車で最初に向かった幼稚園は校舎が新しくなっていた。そのせいか思い出があまり浮かんでこない。
小さな砂場。小さなアスレチックジム。小さなブランコ。小さな鉄棒。どれを見てもびっくりするほど何の感慨も湧いてこない。
それは千絵も同じらしく小首を傾げながら、「こんなのあったかな?」を連発している。
その中で漸く私たちをノスタルジックな気持ちに引き込んだのは校舎の脇にある飼育小屋だった。今にも朽ち倒れそうな錆だらけの鉄製の小屋には今は何も飼われていないようで微かに動物の饐えた臭いがするだけだが、当時はウサギと鶏がいたように思う。当番制で家から持ってきた餌を与え小屋の掃除をしていたことを思い出す。
「郁子はウサギと鶏とどっちが好きだった?」
「そうだなぁ。やっぱりウサギかな。千絵は?」
「私もウサギ」
千絵と同じ意見だったことに私はほっとする。そして深く満足して言葉を継ぎ足す。
「やっぱりウサギの方がかわいいもんね。鶏って急にばたばた飛ぶし何だか怖かった」
「そうね。それもあるけど、・・・私たち兎年生まれだもんね」
そうか、そういうことか、と私は詰めの甘さを悔やむ。
小学校と中学校は隣接している。小学生の頃は近所の子供たちと集団登校をしなければならず、友達とお喋りしながら通うのは楽しいのだが、列を組んで歩いていることに幼稚さを感じないわけにはいられなかった。小さな歩幅でちょこまかと歩いている私たちを制服を着たお兄さんやお姉さんが颯爽と追い越していくのを憧れの眼差しで見つめたものだ。
「こんなにちっぽけだったっけ?」
千絵が小学校の下駄箱を見つめて言う。確かに下駄箱も、その中に収まっている上靴も自分が想像していたよりもはるかに小さい。
私は千絵の靴がなくなったときのことを思い出していた。あれは三年生のときだったと思う。お金持ちの家に生まれたというだけで千絵は少しいじめのようなものを経験した時期があった。服や筆箱や靴やリボンがみんなのよりも少し良いものを持っているというだけで、またあいつは高いものを持っていると陰口を叩かれたりした。そんなことを言う心無い性格の持ち主はほんの一部の児童だけだったので千絵も特段気にする様子を見せていなかったのだが、ある日の放課後自分の下駄箱に靴がないのを見つけた千絵は呆然とその場に立ち尽くしていた。千絵の様子を不思議に思った私が「どうしたの?」と尋ねると彼女は突然私の胸に全身を預けるように飛び込み火がついたように大声を上げて泣いたのだった。みんなの目も気にせず千絵は私の腕の中で泣きじゃくっていた。後にも先にも千絵が泣いたのを見たのはそのときだけだ。私はそのとき初めて千絵を可愛いと思った。私の頬に当たる髪が本当に柔らかくていい匂いがした。私はいつまでも千絵を抱き締めていたかった。正直言えばこのまま靴が見つからなければいいとさえ思っていた。
私の意に反して靴はすぐに出てきた。あまりに千絵の泣きっぷりがすごかったからか隠した男の子が半べそでおずおずと私のところに持ってきたのだ。
靴が見つかって漸く泣き止んだ千絵は宝石のように輝く潤んだ瞳で私に「ごめんね」と謝った。千絵の涙で私の服はびしょびしょだったのだ。その涙の温かさを今でも私は鮮明に覚えている。周りの友達が私と千絵を心配そうに眺めていたのが私には嬉しかった。それまで千絵とは他のクラスメイト達と同じ程度にしか口をきいたことがなかったのだが、私と千絵は特別な仲なのだと周囲に知らしめているように思えたのだ。そしてその日から私と千絵は特別な仲になった。
それからの千絵はいじめられるようなことはなくなった。もともと可愛かったのだが、その頃から非の打ちどころのない美しさを体現し始めた彼女には好かれようとはしても嫌がらせをするような男の子はいなくなった。
「下駄箱っていい思い出ないな」
千絵はぼんやりと私の心を傷つけるようなことを言う。確かに千絵にしてみればいじめられたことを思い出すだけなのかもしれないが。
中学校の正面玄関の方に歩いていくとジャージ姿の男性が出てきて私たちとすれ違った。私が、こんにちはと挨拶すると男は軽く会釈を返しそのまま体育館の方に歩いていった。すれ違った後に私と千絵は顔を見合わせた。
「今のって」
「そうそう」
男は中学三年生のときに私と千絵のクラス担任の体育教師だった。しかし名前が思い出せない。それは千絵も同じようで、もっと言えば会釈一つで通り過ぎ振り返ることもしないあの先生も私たちのことを覚えていないようだった。生徒が担任の名前を、そして教師が教え子の顔を思い出せないのはそれだけ時が経った証拠だった。
「あの先生、よく私と郁子を間違えたよね」
千絵が思い出したように言い、私はくすぐったいような気持ちになる。当時私と千絵はよくそっくりだと言われた。姉妹というよりも双子と言われるほど共通している部分が多かった。
小中高と私と千絵は同じように成長した。同じようなペースで身長が伸び、体重が増え、生理が始まり、胸が膨らんだ。千絵の家に遊びにいくとたまに千絵のお母さんが千絵の着物を私に着させてくれたりしたが私のものかと思いたくなるほどいつもそれは私にぴったりだった。千絵に似合うものは全く同じように私にも似合うのだ。だからあの体育の教師でなくても私と千絵を間違う人間はたくさんいた。当の本人である私でさえ千絵の背後に立つと自分の背中を見ているような錯覚に陥ることがあったくらいだった。
千絵は私にとって親友であり憧れの存在だった。人形のように可愛い千絵と間違われると私は天にも昇るような昂揚感で満たされるのだった。
今、中学校の校舎の中を歩いていく千絵の背中は私とは全く違っている。高校二年生のときに二人とも身長は止まったのでお互い168センチメートルのままだろうが、先を歩いている千絵を背後から眺めても自分と錯覚するようなことはない。高校のときと同じように美しい黒髪を後ろで一つに束ねナイキの厚手のパーカーにストレートのジーンズというボーイッシュとも言える今日の千絵のようないでたちを家族と圭介以外に見せることを私は大学進学と共に卒業した。
今日の私は鎖骨が覗く淡い桃色のVネックのセーターにバーバリーチェックのミニスカートで網の細かいストッキングを穿いている。髪の色は控え目だが茶色に染めているし、ゆるくパーマもあてている。耳には小さなダイヤのピアス。首にはティファニーのオープンハート。指には鋭く光るプラチナのリング。
私が身に付けているものは全て男たちの気を引くためのものだ。私はこの世界の不特定多数の男の目を意識している。それのどこが悪い。女に生まれたのだから男にちやほやされたい。大人の男たちにちらちらと盗み見られているときの私の鼓動はその視線に気付かない振りを続けることを困難にさせるほど高く響くのだ。事実、都会に出てから寝た男の数は両手では数えられないし、その分だけ久しぶりに会った千絵よりも私の方が一回り胸が大きくなっているのは見た目でも分かるほどだ。これらの装飾品だって自分で買ったものは一つもない。私を欲しいがために跪く男だっていた。
だけど。
千絵を見ていると自信がなくなる。何が女の幸せなのかが分からなくなる。知らず知らず世間の男の要求に迎合している自分が惨めなように思えてしまうのだ。千絵は颯爽と歩いていく。まるでこの世に男も女も関係ないと言わんばかりに。セックスは子供をつくるためだけにするものだと言わんばかりに。
「小学校と高校の思い出は強いのに、中学のときのことってあんまり覚えてないのは私だけ?」
振り向いた千絵の目を私は正視できず私は咄嗟に窓の外に目をやった。
「私も覚えてない。中学の三年間ってあっという間だったよね。まだ子供だったし毎日何も意識せずにのほほんと暮らしてたような気がする」
それは嘘だった。
小学校を卒業する前から私は千絵を意識し続けていた。
千絵は誰からも慕われていた。千絵の輝く笑顔は男子生徒を惹きつけてやまなかった。教師たちでさえ千絵には愛想笑いをし、ご機嫌を伺うような態度だった。
私は狂おしい程に千絵を羨んだ。千絵と同じ身長、同じ体重なのにどうしてこうも千絵と私は違っているのだろうか。
私は毎日千絵の傍を離れずその一挙手一投足に全神経を集中させて千絵の千絵たる秘訣を探った。来る日も来る日も私は千絵の髪型を真似、千絵の笑い方を真似、千絵の仕草を真似た。
千絵がバレー部に入れば私も入部し、千絵が風邪をひけば私も体調を崩して休み、千絵が高校入試のために勉強を始めれば私も同じ高校を目指した。
先天的なものを理由にして諦めたりはしなかった。私はどうしても千絵になりたかった。
最後に私たちは高校を訪れた。中学もそうだったが高校も部活動をしている生徒が一人もいないので不思議に思ったが、ある教室の掲示物を見てその理由が分かった。翌日からテストが始まるのだ。「中間テスト」という言葉に千絵は嘆息した。
「テストって本当に嫌だったけど、懐かしいね。今思えばテストがあったから郁子と一緒に愚痴ったり、教えあったり、答案見せ合ったりできたのよね。そう思うとテストも楽しかったな」
「そうそう。お互いよく同じようなところで間違ってさ。二人とも間違ってるからどこがどうして間違ってるのか分かんなくってすっごく悩んだこともあったよね」
私たちは声をあげて笑いあった。当時はテストのことでこんなに笑うなんて思いもよらなかった。
「いつもは練習が嫌だったのに、テスト期間中で部活が休みになると急にバレーがしたくなったなぁ」
「行ってみる?」
私が言い出すのを待っていたかのように千絵は満面に喜色を浮かべて頷いた。
そう、この笑顔。天使のように柔らかいこの笑顔に私はどれだけ憧れたことだろう。
体育館も案の定無人だった。閉鎖された広い空間に足を踏み入れると汗と埃とワックスの臭いが漂っていた。懐かしいね、と我慢できないように器具室に駆け出した千絵は高校生の千絵だった。
あの頃、私はここでも千絵を追いかけていた。千絵と同じようにボールを追い、ボールを拾い、ボールを打った。同じメニューをこなし、同じ量の汗をかいて、帰りに同じジュースを飲んだ。
床にボールをつくと砂漠に水をまいたように音が屋根や壁に瞬時に吸い込まれていく。千絵は慣れた手つきで二度三度と床に打ちつけたボールを私の方に放り投げてきた。白い放物線に自然と身体が反応して私は千絵にトスを返していた。そのボールを千絵が軽くスパイクする。私はボールの軌道にあわせて腕を揃える。私のレシーブを千絵がトスする。私が軽く打ち返す。
たちまち千絵の目は白いボールの動きに集中していった。難しいボールを拾ったときには千絵は最高の笑顔を見せる。その笑顔を見たいがために私も真剣にボールを追いかけた。私たちは夢中になっていた。ミニスカートの裾の動きにも頓着しない。すぐに身体が汗ばんでくる。千絵の薄化粧の頬が火照って朱に染まっている。暑い、と言って千絵はおもむろにこれまたナイキのTシャツ姿になって脱いだパーカーを無造作に床に放り投げた。
胸にあのシルバーのネックレスが輝いていた。クロスの中心部分に一際輝いているのはダイヤモンドだろう。
千絵は胸元を一瞥した。私は揺れて邪魔になるその首枷を千絵が外すだろうと思ったのだが、千絵は大事そうに首口からTシャツの下に隠しただけだった。私はそんな千絵に苛つきを覚えた。千絵の汗を直に吸うことを許された首飾りに嫉妬していた。私の心が冷たく湿っていく。
私は初めて千絵に向かって強くボールを叩いた。腰を落として構えていた千絵は素早く反応したがレシーブし損ねてボールは脇に反れた。乾いた音を立てて転々と白球が転がっていく。その行方を悔しそうに見つめる千絵に皮肉っぽく私は言った。
「やっぱりなまったわ。昔の千絵じゃないわね」