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「よし」
言ったのは圭介ではなく私だった。私はうつ伏せの姿勢から寝返りを打って仰向けになった。圭介は上半身を布団から出して煙草をふかしている。その無駄な肉のついていない白く華奢な肩が私は好きだった。
圭介は存分に私を味わった顔をしている。私も圭介の体温を全身で堪能した。もう何も言うことはない。身体の中のもやもやが晴れて明日を迎える勇気ができた。
「さっきは顔が険しかったな」
「誰の?」
「そりゃ、郁子のだよ」
「私?いつ?」
「公園で待ってたとき。目が吊り上がってる気がしたよ。身体も重そうだった」
これが圭介だ。七年間も付き合っているだけあって私のちょっとした変化を敏感に感じ取ってくれる。そう思うと不意に私は目頭が熱くなる。少し弱音を吐きたくなる。
「エネルギーが切れてきたのかも。最初の一ヶ月は何も分からなくて疲れてることも分からなかったけど、最近は少しずつ慣れてきて勢いもなくなっちゃった」
「新卒のときも五月病になって少し寝込んだもんな」
「そうね。あの頃は同期がたくさんいたから愚痴もこぼせたけどね」
「でも都会の大手銀行に比べれば仕事は楽なんじゃないの?」
「仕事はね」
仕事は問題ない。書類の書き方、伝票の整理の仕方やオンラインの端末の操作方法など覚えることは山ほどあるが基本的には金融機関ならどこだって同じだし時間が経って慣れてくれば自然と覚えていくだろう。お金を扱うので神経は使うが、ポイントさえ掴んでメリハリをつければ苦になるほどのものではない。
しかし人間関係は違う。最近嫌に疲れるのはこれが原因だった。
田舎町の信用金庫は客だけでなく職員も地元の人間が多い。直接の顔見知りはほとんどいないが、どこかで何かが繋がっている人が少なくない。
歩いて三分ほどの近所だったり、中学校の担任が同じ教師だったり、母の高校の同級生だったり。誰と話しても自己紹介しているうちに必ず何か一つは共通のネタが見つかる。
中途採用の私には同期と呼べる同僚がおらず、それほど外交的な性格でもないので当分の間は新参者として借りてきた猫のように隅の方で小さくなっていようと思っていたのだが、意外にもはじめましてのその日から会う人会う人話題には事欠かなかった。そのときは、こういうところが田舎のいいところだなぁ、としみじみありがたく思ったものだ。しかしこの親しみやすさは話の取っ掛かりとしては貴重な武器だったが、次第に疎ましくなってくるようでもあった。
あの人のお父さんが癌であそこの病院に入院した。去年結婚したあなたの同級生は姑と毎晩大声で喧嘩している。担任だったあの先生が教え子と援助交際していたのがばれて警察に捕まった。
各人からもたらされる情報があまりに身近すぎて一つひとつから受ける衝撃が大きすぎる。テレビのワイドショーとは違って、この種の噂話は陰湿な陰口のように聞こえ気分の良いものではなかった。どちらかというと聞きたくもない内容のものが多い。
他人のことならまだ聞き流せるが自分のことになるとなかなかそうはいかない。小さい街であるだけに休日に少し出歩いただけで必ずと言っていいほど同僚に目撃されている。
昨日あそこにいたでしょ?何買ってたの?一緒に歩いていたのは彼氏なの?
いちいち説明するのも面倒だし見られていると思うと家から出るのも億劫になってくる。都会の人間ならあれこれ詮索してくることはないが、刺激の少ないこの街では誰もが周囲の人の行動にやたらと好奇の目を光らせる。一人で映画館に入ったり、本屋で雑誌を読んでいたりするときに会社の人間にばったり会うと次の日に出社するのがどうにも憂鬱になる。自分の知らないところでどんな噂が流れているか分かったものではない。私は周りの目が気になってちょっとした買い物も悪いことをしているかのようにこそこそするようになりつつあった。
今日だって公園で待っているところを誰かに見られているかもしれない。塗装屋の息子と付き合っているのか、などとニヤニヤしながら問い質されたら事実であっても気分は良くない。私は圭介の右腕に向かってため息をつく。
「ね、もう一回して」
「よーし」
圭介は何も訊かずに私の上に覆いかぶさってくる。その華奢にも見える両腕が思いのほか力強く一気に私を押し倒す。その軽い痛みを伴うぐらいの強引さが快感に滲んで私の頭を内側から痺れさせてくれる。私は鎖骨と乳房の間に掌を置き、まな板の上の鯉のような気分で圭介によってもたらされる刺激にどっぷりと全身を委ねた。