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女病  作者: 彩杉 A
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 荷物の整理が思うようにはかどらない。

実家に戻ってきてからの二ヶ月は、部屋の片づけは仕事が見つかってからにしようと後回しにしていた。仕事が決まらないうちは気分が落ち着かない。仕事が始まれば規則正しい生活を送ることができ余裕も出てくるだろうと思っていたのだ。しかしそれは甘かった。いざ仕事が始まると日々の業務や人間関係に思いのほか心身が疲労し、たまの休日に、さあ部屋を片付けようという気にはなかなかなれないのだった。

 元来私はくたびれやすいのかもしれない。肩こりはひどいし低血圧で貧血気味。熱しやすく冷めやすい飽き性なのだ。

 部屋の中はベッドと服とダンボール箱。服さえクローゼットに仕舞えば黄土色の箱だらけの殺風景な部屋もこれはこれで片付いているようにも思えてくる。味気も色気もないと思い切ってこのさっぱりとした空間を壊すべきか・・・。

 箱からあれやこれやと引っ張り出して配置や色合いを考えだしたら今日という休日さえも疲労で塗りこめることになりそうだ。寝ている子を起こすのはもう少し後にしたい。

 そのとき、考えを巡らしているだけでベッドに腰を下ろして何もしたくない私に救いの手を差し伸べるように携帯電話が鳴った。

 圭介からだった。

 圭介か、と私は思った。なぁんだ、ではない。やったー、でもない。嫌だなぁでも、珍しいな、でもない。圭介か。ただそれだけ。圭介からの電話を受けても今は精神的な負荷がない。

 七年も付き合っていると誰でもこういうものなのだろうか。それとも私が淡白なだけなのだろうか。

 決して嫌いなわけではない。好きか嫌いかと訊ねられれば好きと答えるだろう。隣に居てこんなに気持ちが動かない相手は貴重だと思う。圭介の傍ではつらいことも悲しいことも疲れも憤りも全て忘れて安らかな気持ちになれるのだ。だからこそこんなに長い間一緒に居られるし、これからもずっと傍に居て欲しいと素直に言える。

 背が私よりも7ミリ低く、物静かで、色白で、目が良くて、よく風邪をひき、健康にうるさい圭介。今思えば彼に対して愛ははじめからなかったような気がする。だが圭介に出会えたこと、圭介と付き合っていられることを私は本当に幸せなことだと思っていた。

「仕事が早く終わっちゃってさ。今から会えないか?」

「願ったり叶ったりです」

 私の心は途端に晴れ上がった。

 圭介に会うのは一ヶ月ぶりだ。高校を卒業してから私が三ヶ月前に実家に戻ってくるまでほぼ六年間ずっと遠距離の付き合いだった。その結果、私が向こうにいた間に一ヶ月に一度会うというペースが出来上がってしまい、私がこちらに戻ってきてからもこのペースは崩れてはいない。会おうとすれば毎週でも毎日でも会える。しかし私は今のままで良かった。今のペースが私たちのリズムなのだ。何かを変えれば他の何かも変わってしまう。それが怖かった。

 私は弾む心を抑えながら素早く下着だけを取り換えグレーのパーカーに袖を通し、ごわつくブーツカットのジーンズを履いた。階段を駆け下り玄関の下駄箱から取り出したスニーカーに足を突っかけ、小走りに家から歩いて二、三分の公園に向かった。色気のいの字もない格好だがこれでいいのだ。

 圭介は仕事帰りだと言った。家業の塗装業を手伝っている圭介は作業着で現れるだろう。私だけが気合の入った格好をしてもしかたがない。それに、きっと会ったらすぐに隣町の国道沿いのホテルに行って裸になるのだ。一時間ほどしか着ていない服にこだわりを見せなくてはならないような付き合いではない。雰囲気を保てる程度の下着さえ着けておけば圭介は不満なく私を扱ってくれる。快楽という名の癒しで私の心に澱のように蓄積された日常の疲れを拭い去ってくれる。そうすれば私も満ち足りた気分で明日からの仕事に取り組めることになる。

 銀杏の枯葉が舞う秋真っ只中のその小さな公園には人っ子一人いない。

 私はブランコに腰を下ろして軽く漕いだ。お尻から伝わってくるひんやりとした鉄の感触と揺れるたびに辺りに響く金属の摩擦音が私を少し寂しい気持ちにさせる。圭介が来ればこんな切なさは跡形もなく霧散してしまう。そう思うと私はなおさらゆっくりとブランコを漕いだ。汗をかけばかくほどビールが美味しくなるように、孤独を味わえば味わうほど圭介が現れたときの幸福が素晴らしいものになるという我ながら幼稚な哲学だった。

 空を見上げれば高いところにぽつんと千切れ雲。砂場にはままごとの跡の泥団子が三つ。角度の低い日差しに泳ぐ私の影が今にも泣き出しそうな顔をしていたので私は慌てて飛び降りた。私は本当に泣きそうになっていた。鼻の奥がつんとする。

 圭介は驚くほどすぐにやってきてくれた。電話を掛けたときは実はもう近くまで来ていたのだと言う。少し照れながらそう言って笑う圭介はこの秋の空のように懐が深くて素敵だった。私がイエスの返事をすることを予想していたような行動が私は嬉しかった。圭介に会えて得た幸福感は思っていた通り素晴らしいものだった。

 会社の名前がプリントされたバンに乗り込むと予想通りのペンキの臭い。文句は言わず、しかし息苦しさに窓を少し開けた。

 圭介はただ「よし」とだけ小さく呟いて車を出す。「よし」は圭介の口癖だ。何か行動を起こすとき圭介はいつもそう口にする。自分に暗示をかけるように。全て上手くいっていると自分に言い聞かせるように。

 私は圭介の「よし」が好きだ。何もかもがこれで始まる。心の準備ができるし気合も入る。

 どこに行く?何をする?なんてまどろっこしい下手な探りあいはしない。セックスがしたくないなら電話の段階でそう言っている。私たちはもう大人になったのだ。圭介の「よし」だけで十分だ。

 ホテルに着くと圭介はすぐにシャワーに向かった。私は圭介の汗のにおいは全く気にならないがペンキ臭い身体に抱かれるのは嫌だった。言葉にしなくても圭介は私の気持ちを分かってくれている。

 圭介が浴室に入っている間、私は部屋の案内に目を通す。部屋の設備。カラオケの使い方。会員カードの特典。どのホテルに行っても私はこの儀式を欠かさない。このホテルも初めてではないのに全く新しい気持ちで全ての説明に耽る。

 ラブホテルに詳しくなっていくのは何故こんなに楽しいのだろう。どうしても部屋の中の全てを知り尽くしたくなる。ただ一つの目的のために存在する空間。全てのものがセックスを楽しむために用意されている。その潔さ、混じりけのなさが清々しくて私も純粋に全力でこの空間を味わってやろうとするのだ。


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