2
店内は昔のままだった。地層のように幾重にも堆積したいろんな物の焦げた臭い。油の上にさらに油の滲みた不衛生な壁。誰のものか定かではない解読不能の黄ばんだサイン色紙。灼熱の太陽の下でビールジョッキを手に爽やかに笑う水着女性の色あせたポスター。何もかもが怖いほど変わっていない。何から何までじっくりと煮染めたような愚鈍な色で統一されている。所々に補修や買い換えの形跡があればノスタルジックな気持ちにもなるのだろうが、あまりの変わらなさに却って何の感慨も湧いてこない。
白のTシャツにフリースの上着を羽織り、こげ茶色のコーデュロイパンツという相変わらず飾り気のない格好の千絵は一番奥の席で杏仁豆腐を食べていた。
ここの杏仁豆腐は絶品だ。寒天がもちもちしている。控え目の甘さが丁度良い。高校生の頃、私たちは学校帰りにこの店に来てはこの杏仁豆腐だけを注文して二時間も三時間も話し込んでいたものだ。
俯いてスプーンをゆっくり口に運ぶ千絵も当時と何ら変わってはいない。海草をイメージさせる黒く長かった髪は少し短くなった気もするが、その微かな光をも逃さず集めて柔らかく反射させる豊かな艶は完全に昔のままだ。くすみ一つない淡い象牙色の張りのある瑞々しい肌も衰え一つ見せていない。そして何よりも千絵が周囲に放つ柔らかい存在感或いは場を和ませるような雰囲気というものが微塵も変わっていないのだ。
私は・・・。私は変わっただろうか。
髪を染め、化粧を施し、爪にネイルアート、耳にピアス、指にリング、そして何人もの男を知った私は六年前と比べてどうなのだろうか。変わったと思われるのも、変わっていないと言われるのも同じぐらい気が滅入りそうだった。
「転んだの?」千絵は私を見るなりそう言った。到底六年ぶりとは思えないほど重みのない声で。「肘に砂がついてるわよ」
「ああ、砂ね」
的外れな返事で済ませて、砂浜で風に吹かれていたからとは言わなかった。緊張を紛らわせるためになどとはもっと言えない。
カウンターの奥に杏仁豆腐を注文してから椅子に腰を下ろす。古びた木製の椅子が微かに軋んだ。
「ほんとに、久しぶりねぇ」
感慨深げにしげしげと見つめてくる千絵を見て私は久しぶりだという感動の欠如に戸惑っていた。彼女と正対していると時間の流れから隔離されたような気分になる。昨日も会っていた気がする。一昨日もこの吸い込まれそうな深く黒い瞳に嫉妬したような感覚がある。昨日から今日への移り変わりの間に伸びた爪の長さ程度にしか千絵は私に変化を示してくれない。六年という歳月には不自然なほど自然に私は千絵を受け入れてしまっていた。そう思えるということはつまり私の中味が成長していないということになるだろうか。私は失望せざるを得なかった。
「郁子、きれいになったわ」
「ほんと?ありがとう」
千絵に誉められて、私は素直に喜べなかった。なぜなら千絵は昔からこれ以上きれいになりようがない美しさなのだ。努力してきれいになる私とは根本から違う。これは単なる私のひがみなのかもしれないが。
杏仁豆腐と美しく円いお好み焼きが姿を見せた。
運んできた店の亭主には見覚えがなかった。白髪頭にねじり鉢巻。紺のトレーナーにベージュのエプロン。何となく高校生のときも彼だったような気がするが彼でなかったような気もする。あんなに足繁く通っていたのに覚えていないなんて不思議なものだ。いや、別段不思議ではないのか。あのとき私は千絵だけを見ていた。
「お好み焼き食べるの?」
私は訊かずにはいられない。実は、少なくとも私はここでお好み焼きを食べたことなど一度もないし、千絵が食べているところを見たこともないのだから。ここで食べたのは杏仁豆腐、ソフトクリーム、お汁粉、あんみつ・・・。私たちはこの店を甘味処と理解していた。この店でお好み焼きを食べる。それはちょっとした冒険のようにさえ思える。
「食べるわよ。お昼まだだもの」
それにここはお好み焼き屋だし。1+1=2と同じような響きで当然のことのように千絵は言ってのけた。
たっぷり塗られたソースの匂いが私の鼻の奥を刺激する。ゆらゆら揺れる鰹節。千絵が割る割り箸の音。
「おじさん、私も同じもの」
昼にカレーを食べてお腹は減っていないが私は躊躇しなかった。
千絵はお好み焼きを小さく切り取っては本当に美味しそうに次々と頬張る。また一つ口に運ぼうと千絵が少し俯いた瞬間、千絵の首筋に、白いTシャツの内側に小ぶりのクロスが光った。シルバー製だろうか。私は声を出さずにひっそりと、だが、かなり驚いて息を詰めた。
今まで千絵が何か装飾品と呼ばれるもので身を飾っているところを私は見たことがない。千絵は着飾るという言葉とは対極にいるような存在なのだ。
しかしそう思っているのは私だけなのかもしれない。千絵にしてみればネックレスをするのもしないのも大した差はなく、その日の気分次第でこれぐらいのものは身に着けるのだろうか。垣間見えたネックレスはシンプルな造りのもので千絵の美しさを邪魔せず、客観的には似合っていると言えるのだろう。しかし私には違和感が残った。
私は目の前の杏仁豆腐に対して完全に興味を失っていた。スプーンに手を伸ばすこともせずカウンター越しにおじさんに無言で催促してしまう。
お好み焼きは千絵と一緒に食べるから美味しいだろうと思って注文したのだ。千絵が食べ終わってからでは何の意味もない。
「ここの奥さん、去年亡くなっちゃったのよ」
千絵が店主に聞こえないように小声で言った。
そう言われても私は「奥さん」を思い出せなかった。そういう女性が居たような気もするし居なかったような気もする。何故なら私は千絵だけを見ていたから。
「おいしい?」
私が訊くと千絵は子供のように無邪気に微笑んだ。歯に青海苔が付いているのが見えたがそれも千絵らしくて私は何も言わなかった。