1
「帰ってきたのなら電話ぐらいよこしなさいよ」
電話の向こうで千絵は声を弾ませながらひどく嬉しそうに怒っていた。
それだけで再確認できる。千絵は私のことを好きなのだ。小学生の頃から。二十五歳の今も変わらず。
「ごめん、ごめん。引越しやら再就職やらで忙しくって」
確かに私の毎日は帰郷の感傷に浸る時間もなくめまぐるしく過ぎていた。
この三ヶ月で私の生活はCMやチラシで見る筋トレグッズの「使用前」「使用後」のように劇的に変化していた。
二年と少し勤めた都銀を辞め、学生の頃から住んでいたマンションを引き払い、二人の姉が嫁いでいって部屋の余っていた実家に転がり込んで、日々なけなしの貯金を切り崩しながら就職の面接に追われていたのだ。
我が実家は贔屓目に見ても裕福とは言えない。それは私が大学進学のために一人暮らしを始める前と何ら変わっていなかった。父親は絵に描いたようなしがないサラリーマン。母親は近所のスーパーにパートに出ている。二人の肩には還暦を迎えるまで無くならない家のローンが重くのしかかっていた。
そんな彼らも三人娘のうちの上の二人が結婚してしまって寂しかったのだろう。大学進学で上京して以来ほとんど梨のつぶてだった私の突然の帰省を戸惑いながらも喜んでくれているようだった。当初は年賀状のくじで一等が当たったときに番号を何度も確認するような半信半疑の目で私を見ていたが、最近は毎朝毎晩顔をあわせることにも慣れてきて、私の定住がどうやら本気らしいと少しは安心しているようだった。
帰ってきた理由をあれこれ詮索することもせず「少しは羽を伸ばして、のんびり遊んでいればいいじゃないか」という彼らの言葉に甘えていられるほど私の神経は太くなかった。家賃を払わなくても良いということだけで私には十分すぎるほどありがたい。私は千絵に限らず地元の友人の誰にも帰ってきたことを知らせることもしないで、暇があれば毎日求人情報誌とにらめっこをしつつ、せっせと多種多様な企業に電話を掛け人事担当者の元に足を運んだ。
「駅前の信用金庫なんでしょ?新しく口座を開いてあげたいけど私はもう持ってるから今度母か兄にでも作らせるわ」
任せといてよ、と千絵は太鼓判を押した。
私の就職を誰から聞いたのだろうか。
私は受話器を耳に当てたまま小首を捻った。しかし毎日窓口に座っているのだからこっちで気付いていないうちに知り合いに見られていてもおかしくはない。就職して一週間。千絵の耳に入るまでの時間としては短くないのかもしれない。この小さく閉鎖的な街では情報は驚くほど早く正確に伝わっていくのだ。
学生のときに一緒に就職活動をした友人が未だに理由は分からないのだが取り付かれたように金融業に憧れていて彼女と行動を共にしているうちに気がつけば私は運良くある都銀から内定をもらった。昨今は学歴ではなく人物重視で採用すべきとうるさく言われているおかげで、一流企業でも学歴偏重ではないことを社会へアピールするためなのかよく言えば協調性のある、他と合わせることしかできない二流大学の出身者を採用するということが目立った。そういう時勢でなければ採用されるはずがなかったと今でも私は思っている。そして金勘定が好きなわけでもなく人と接するのが得意でもない私ではあるがやはり今回の就職先も金融業だった。
英語が特別できるわけでも、人に自慢できる資格を持っているわけでもなく、そこそこの学歴しかない私に興味を持ってくれる企業はこんな田舎町でもごく稀で、形だけの面接で不採用という会社が多い中で前歴の都銀という響きに杉田という四十がらみのこの信用金庫の面接官は食いついてくれた。
初めから雇う気のない人事担当者は口調もそっけない。言葉の端々に、どうせ採らないんだから何訊いたって意味ないんだけどね的な投げやりなものが垣間見える。数をこなすうちにそういうものは感覚として分かるようになっていった。
しかし、杉田の反応は違った。私を雇いたいという雰囲気がその甘さと鋭さを兼ね備えたような双眸から伝わってくるのだ。垂らした糸に少しでも引きがあると私は魚が餌を突付く感触に全神経を集中させた。自分が一番可愛く見える角度に顔の位置を固定し控え目な笑顔を絶やすことをしなかった。他に売るところがないのはこれまでの面接で痛いほど分かっていた。悪い印象を与えない程度の愛嬌は惜しむことなく振りまかねばならない。
前の会社を辞めた理由には、母親の体調が悪く自分の世話をろくにできない父の面倒をみる人間が必要なためと平気で嘘をついた。同僚の彼氏を立て続けに三人つまみ食いして社内の人間関係がこんがらかり、その中の一人がストーカーとなって腐った魚のような濁った目で毎日毎晩私の生活を見張っていることに耐えられなくなったなどとは口が裂けても言えなかった。
「あの信用金庫ってここ二ヶ月で二人も窓口係が辞めたみたいよ。セクハラが原因なんだって。郁子も気をつけてね」
本当に親身に私のことを心配してくれているのが分かる。千絵は優しい子だ。こちらが苦しくなるほどに。
千絵からの情報で何故私がこんなに簡単に採用されたかが分かった。先方はとにかく頭数が欲しかったのだろう。年度の中途で採用するなら私のような紛いなりにも実戦経験のある人間の方が使い勝手が良いというものだ。
理由は何でも構わないと私は思った。とにかく私はこの町で当分食べていくことができるようだ。贅沢を言える立場ではない。
「ねえ。久しぶりに会おうよ。郁子の顔が見たい」
来た、と思った。来てしまった。まるで遅れていた生理が来たときのように安心と憂鬱でないまぜの気分になる。
私から誘ったのではない。
これは重要な事実だ。私は自分を納得させるために心の中で何度も呟いた。千絵が会いたいと言うから会うのだ。私からはそのようなことは一言も口にはしていない。
私はゆっくりと受話器を下ろすといやがうえにも弾む心を抑えて髪を梳いた。