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女病  作者: 彩杉 A
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 私の目の前で圭介は小さくなって座っている。顔色は良くないし肌もかさかさしている。ちょっと見ないうちに圭介は完全にやつれていた。その原因が私にあるのだと思うとさすがに気が咎める。

「ごめん。急に呼び出したりなんかして」

 私は昼休みにコンビニで買ったサンドイッチを食べているときに電話で圭介に呼び出されたのだ。圭介は私の携帯電話にではなく職場に掛けてきた。これではさすがに出ないわけにはいかない。

「いいのよ。ちょうどコーヒーも飲みたかったし」

 私はコーヒーがなみなみ注がれている手元のカップを見つめ、そういえばこのドーナツ屋で同じような風景を見たことがあるなと思い出していた。もうどんな顔をしていたかも思い出せないが宮本は今頃何をしているだろうか。あの男も冴えなかったが、眼前にいる圭介も今日はひどく冴えない顔をしている。

「結婚の話、重かったよな。俺、郁子のこと考えずに一人で突っ走っちゃって」

 圭介はまた小さく、ごめんと頭を下げた。

「そんなに何度も謝らないで。圭介は何も悪いことしてないわ。きっと私が我儘なだけなの」

 圭介は私の言葉に不安げな表情を示した。迷子の子供のように怯えた目をしている。次に私に別れを切り出されるかもしれないと案じているのだ。可愛そうな圭介。

 私は昨日の杉田とのやり取りを思い出していた。売り言葉に買い言葉で言った「千絵とはどういう関係なのよ」に対して杉田は意外にも簡単に千絵との関係を認めた。私は驚いた。プレイボーイの杉田のことだから曖昧にお茶を濁すだけで逃げられると思っていたからだ。

「千絵とは別れる。君のことを愛しているんだ。だから他の男の名前を君の口から聞くと僕は大人気なく嫉妬してしまうんだ」

 杉田にここまで言われて私はくすぐったいような気持ちになった。胸が熱くなって私は矢も楯もたまらずにまっしぐらに杉田の胸に飛び込んでいた。杉田の腕に抱きとめられて私はこれが人を愛するということなのかもしれないと感動していた。

 しかし私の臆病な心は圭介を手放すことを怖れていた。ここで圭介と別れたら、私に振られた圭介と杉田に捨てられた千絵とがお互いの傷を舐めあうように付き合い始めるかもしれない。もともと千絵は圭介のことが好きだったのだ。考えられないことではない。そして私はそれを想像しただけで血の気がひく思いがした。千絵を愛している男を私に振り向かせることはあっても、私を好きだと言う男が千絵と付き合うことは許せない。もし圭介と街で偶然出会ったとして圭介が私に見向きもせず千絵と手を繋いでその場を去っていくようなことがあったとしたらその屈辱たるや耐えられるものではない。

「私、今までどおり圭介と付き合っていたい。結婚したいって言ってくれたのは素直に嬉しいわ。でもそれって今すぐじゃなきゃだめなの?私、最近漸く仕事が楽しくなってきたところなの。それに私が帰ってきて賑やかになったって両親も喜んでるわ。昔は大嫌いだったこの寂れた街も少しずつ好きになってきてる。私、もう少しこのままの状態を味わっていたい。今の充実感をまだ手放したくないの。結婚のことを考えるにはもうちょっと時間がほしいわ」

「いいよ。俺が先走りすぎたんだ。郁子の俺への気持ちが変わってないんなら今のままでかまわない」

「私、圭介への気持ちは変わらないわ。だから・・・だから、もう千絵とは会わないで」

 私は圭介を店に残したまま満足して職場に戻った。一つの嘘もつかずにそして圭介の気持ちを害することもなく自分の言い分を全て通すことに成功したのだ。全てが上手く運んでいる。手を伸ばせば欲しいものが何でも手に入る。そんな気分だった。

 しかし化粧を直してトイレから出たときに私を待ち構えていた杉田の顔を見て私は幸せを製造する機械のまた別の歯車の一つが止まってしまったことを察知した。それほどそのときの杉田は冴えなかった。

 杉田は苦渋に満ちた顔で私を屋上に連れ出した。レモンを齧ったときのようなそのしかめっ面に私の口腔には唾液が溢れてくるようだった。いつもの思わず見とれてしまうような美しい笑顔で歯の浮くような殺し文句を並べる杉田はどこへ行ってしまったのだろうか。こんな顔の杉田は見たことがない。今圭介と会ってきたことを咎められるのかもしれないと思ったが、杉田の目には怒りがないことに気付き私はその考えを捨てた。杉田は私に何かを告げようとしている。私を一撃で絶望の淵に突き落とす致命的な何かを。

 屋上の風は身を切り骨を痺れさせるほどに冷たかった。空にはのっぺりとした禍々しいほど鉛色の雲が低く垂れ込めている。この寒さは初雪を予感させる。痛いほど重い凍てつく冬の到来だ。

 しかしワイシャツ姿の杉田は首をすぼめるでもポケットに手を突っ込むでもなく吹きすぎる風を全身で受け止めて微動だにしない。事務服の上にカーディガンという軽装の私は自分を抱くようにして小さくなりながら杉田の後ろに控えていた。あまりの寒さにじっとしていられず私は絶えず細かく足踏みをしているのだが私よりも薄着の杉田は先ほどから一言もしゃべらず風上の方角を睨みつけ血の通っていない銅像のように突っ立ったままだった。

 こんな場所でしか言えないようなこととは何だろうか。杉田は寒さを全く感じていないようにさえ見える。皮膚の感覚を麻痺させるほど事態は切実なのだろう。そしてそれは私にとって好ましいはずがない。

「思うようにはいかないもんだな」私は黙って次の杉田の言葉を待った。相槌を打つことも憚られるような張り詰めた雰囲気を杉田の背中が作り出している。杉田は私に背を向けたまま風が目に沁みたように俯き加減で言葉を続けた。「良かれと思ってやったことが逆に自分の手枷足枷となる。欲しいと思っているときは八方駆け回っても手に入らないのに、いらないときに限って頼んでもないのに向こうから転がり込んでくる。皮肉なもんだよ」

「そんなのあなただけじゃないわ。誰もがそう思ってるわよ」

 勘弁して欲しい。感傷的になるのは勝手だが、人の迷惑も考えてもらいたい。泣き言ならいくらでも聴いてあげるからせめて建物の中にしてよと私は杉田の風にはためく衣服を恨めしく眺めた。

「三か月らしい」

 杉田は何かを諦めたようにため息交じりにぼそりと言う。

「何が、三か月なのよ」

「子供ができたんだ。三ヶ月になる」

 振り返った杉田は寒さのせいか青白い顔をしている。笑おうとしているのかもしれないが引きつって歪んだその表情はこちらが泣きたくなるほど不細工だった。

 私は至極冷静に杉田の言葉を理解していた。そして私は眼前に立つ醜い男に確認しなければいけない事項がいくつもあった。

 三ヶ月前は誰とどこでセックスをしていたのか。私とのセックスと何がどう違ったのか。そのまだ意思を持たない小さな生命体をどう扱うのか。そのちっぽけなものと私とどちらがどうなのか。相手の女と私とどちらがどうなのか。

 しかし寒さに凍って弾力を失った唇は私の意思に反して死んだようにぴくりともしない。結果として私の顔は失恋女のすがるようなそれになっていたかもしれない。

「俺と・・・俺と千絵との子供だ」

 それだけは言って欲しくなかった。そんなことは分かりきっている。分かりきっているだけに最後まで知らない振りをしておきたかった。

「俺は千絵と結婚するよ」

「馬鹿じゃないの」

 我ながら愚にもつかない捨て台詞を残して私は屋内に駆け込んでいった。完全に私は負け犬だった。

 馬鹿じゃないの。

 一体誰が馬鹿なのだろうか。捨てたはずの女に知らないうちにこの世で一番破壊力を持つ武器を与え自分は丸腰で従順の印に諸手を挙げてしまう杉田なのか。自分を捨てた男の子種を身に宿し、それを利用してでも男を我が物にしようとするなりふりかまわない千絵なのか。全てを手に入れたと思い込み結局全てを失いつつある私なのか。

 良い機会なのかもしれない。これで私は千絵の呪縛から逃れることができるだろう。やはり私は千絵に勝つことはできないのだ。今回のことでそれははっきりした。私に残された道は諦めることだけだ。私には圭介がいる。それだけで十分だ。今からでも間に合うだろうか。

私は携帯電話を手に走り出していた。

 まだ圭介は遠くには行っていないはずだ。仕事なんかどうでもいい。このまま圭介を追いかけてホテルに行き圭介の全てを私は手中にする。私は圭介と結婚するのだ。圭介に突かれながら結婚してと哀願しよう。跪いて圭介の性器を銜えながら上目遣いで嘆願してみよう。私は幸せになる。これから醜く腹の膨れていく千絵よりもはるかに幸せになれるのだ。


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