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女病  作者: 彩杉 A
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 ドライヤーの騒音に紛れて最近聞きなれた声が私の名前を呼んだような気がした。

「何か言った?」

 私はドライヤーを止め、まだ生乾きの髪を掻き揚げてベッドの方に問いかけた。

「携帯鳴ってる。正確に言うと震えてるみたいだよ」

「放っといて」

 私は再びドライヤーを髪に向けた。こんなときに電話を掛けてくるなんて気が利かないなどと勝手なことを思いながら。

「でも、さっきから何度も掛かってきてるよ。急用なんじゃない?」

 何よ、もう。私は正面の鏡に映る自分を見た。髪はぼさぼさだし、化粧は洗い流してしまったので眉毛も描いていない。こんなに無防備な自分を親以外の人間に見せるわけにはいかない。

「また掛かってきてるよ」

「ちょっと待ってよ」

 誰に待ってと言っているのだろうかと自分で自分を訝りながら私は大急ぎで眉ペンを操った。化粧というものはいつもの鏡、いつもの角度、いつもの明るさが揃わないとしっくりこない。ここのところよくこのホテルを使っているので部屋の明るさや鏡にも随分慣れてはきたのだが、今は慌てて描くからどうしても上手にいかない。角度も悪ければ左右の長さも釣りあわない。私はやっつけ仕事で出来上がった自分の顔に舌打ちしつつ、室内の薄暗さにすがるような思いで鏡の前から離れた。

 私は少し前屈みになり髪でできるだけ自分の顔を覆い隠しながら鞄の前に立った。携帯電話はまだ鞄の中でぶるぶる震えている。

「バスローブが色っぽいね」

「馬鹿」

 手探りで震源を掴み出し画面を開くと着信は「千絵」となっていた。私はちらっとベッド上の男を見た。彼はベッド上に毛布から裸の上半身を露わにして煙草を燻らしながらこちらを見ている。私は電話を耳に当てた。

「もしもし?どうしたの?千絵」

 私は「千絵」の語勢を強めた。もちろん電話の向こうの千絵に言っているのではない。先ほどまで私をその腕の中に抱いていた杉田に対してだ。「千絵」という名前を聞いて杉田がわずかに眉根を顰めたのを私は見逃さなかった。

「郁子。今、電話しててもいい?」

「いいわよ。何かあった?」

 これだけ執念深く掛けてこられては適当にあしらうわけにもいかない。それに電話越しの千絵の声にはいつもと違う張り詰めた緊迫感とシリアスな重さがある。こんな風に千絵に話しかけられては聞かないわけにはいかない。

「別に急用って言うわけじゃないんだけどね、ちょっと気になることがあって」

「だから、何?おかしな千絵ね」

 私は軽薄に笑ってみせた。千絵のペースに引きずり込まれてはいけないという防御本能が私の中で働いている。何かが起こりそうな予感があった。私の歓迎しない何かが。

「圭介君のことなんだけど・・・」

「圭介?」

 私は張り詰めていた緊張の糸が音を立てて緩むのを感じた。てっきり杉田との関係を詰問されるのだと覚悟していたからだった。千絵の口から杉田の名前を聞いたことはない。しかし今の杉田の様子を見れば千絵と杉田との関係は一目瞭然だったし、思い返せば納得のできることばかりだった。千絵は私が就職したことを知ったのも異常に早かったし、やたらと信用金庫内の話題に詳しかった。

 初めに誘いに乗ったとき私は杉田と千絵の関係には気付いていなかった。だから杉田とのことはその日の気分に任せた一度限りの思い出にしようと思っていた。しかし知ってしまった今となっては杉田を手放すわけにはいかない。そして私はここ半月を二日に一度程度のペースでこのホテルに杉田と来ている。杉田はスタミナのある男だ。私は骨の髄までしゃぶられているような気分だった。

 千絵の彼氏を奪った。今、私はかつて味わったことのない名誉に浴している。所詮圭介は当時千絵とは付き合ってはいなかった。圭介を落としたときとは比べ物にならないほどの高揚感が現在の私を包んでいる。他の男が相手ならこれほど身体を求められると嫌気が差してしまっていただろうが今回は違う。杉田が求めてくればくるほど私は濡れてしまう。杉田に、君は最高だ、と耳打ちされたときの恍惚と言ったらない。もうこのまま殺してと何度叫んだことだろうか。

「郁子、圭介君と喧嘩でもしたの?」

「え?どうして?」

「だって、圭介君、最近元気がないみたいだから」

 最近元気がない?どうして千絵が圭介の元気具合に詳しいのか。「最近」の話ができるということは「以前」の圭介も知っていることになる。やはり私の知らないところで千絵と圭介は会っていたのだ。それも一度や二度の話ではない。

「圭介君を大切にしてあげて。郁子の何気ない言動が圭介君を傷つけてることもあるのよ」

「千絵は優しいのね」

「そんなことないけど・・・。圭介君が落ち込んでるのを見るのはつらいの」

 それはまだ圭介のことを忘れられないってことなの?と訊きたくなるのを私はぐっと飲み込んだ。千絵と喧嘩をする必要などどこにもない。今、優位に立っているのは千絵ではなく杉田を勝ち取った私なのだ。

「圭介が何か言った?」

 私の質問に千絵は曖昧に否定した・

「圭介君は何も言わないわ。でもなんとなく分かるのよ。郁子、最近圭介君と会ってないんでしょ。電話にも出ないんでしょ?」

 圭介が何も言わないのならどうしてそこまで分かるのだ。圭介は千絵に私のことであれこれ相談したのだろう。結婚を申し込んだら相手にされなくなったとでも言ったのだろうか。女々しい男だ。

「ねぇ郁子。圭介君の他に好きな人ができたの?」

 私は答えなかった。どうして千絵にそんなことを答えなくてはいけないのだ。しかも圭介のことは初めから愛していない。

「ねぇ、そうなの?他にいるのね?それって・・・もしかして私の知ってる人?」

 これだ。

 千絵が不安だったのは圭介のことではなく自分自身のことなのだ。私が圭介を避けているように千絵も杉田に避けられている。そのタイミングや杉田の女癖の悪さから私と杉田との関係を想像することも不可能ではない。

「私の知ってる人?職場の人なの?」

 千絵の声がヒステリックに上ずっていく。完全に疑心暗鬼になっているのだ。そしてその疑いは的を射ている。

「違うわ。千絵の思い過ごしよ。年末に向けて今は忙しい時期なの。ただそれだけのことよ」

「ねぇ。信用金庫って今が忙しいときなの?みんな彼氏や彼女に電話を掛ける暇もないぐらいなの?」

「そうよ。もうみんなてんやわんやなんだから」

「そう」

 千絵は幾分満足そうだった。私が忙しいということは杉田も忙しいということだ。だから杉田からの連絡もない。それは仕事なんだから仕方がない。電話を切った今、千絵はきっと安心して胸を撫で下ろしているだろう。邪推した自分が愚かだったと自戒しているかもしれない。

「圭介って誰だよ」

 電話を鞄に仕舞うと同時に咎めるような声を浴びせられてようやく私は今ホテルで杉田と一緒にいるのだということを思い出した。どうやら杉田は圭介に嫉妬しているらしい。杉田の冷たい視線が私の心を重くする。

「誰でもないわ。ただの友達よ」

 私は千絵とのやりとりでひどく疲れていた。もう誰とも口を利きたくない。このまま何も考えずに眠りたい。しかし杉田はそれを許してはくれないようだった。不恰好な眉を直すために洗面台に向かう私の背中に非難めいた言葉を投げかけてくる。

「それで信じろって言うのかよ」

「あなたこそ千絵とはどういう関係なのよ」

 私は口にするまいと思っていた言葉を反射的に投げ返していた。


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