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女病  作者: 彩杉 A
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15

 私はむしゃくしゃしていた。出口の見えない閉塞感が常に私の胸を圧迫していた。

 プロポーズされてから半月が過ぎたが私はまだ圭介に返事をしていなかった。それどころか私は圭介に会うことを避けるようになっていたし圭介からの電話にも出ようとしなかった。私は初めて圭介を疎ましいと思うようになっていた。一番身近な人間に究極の愛情表現をされて私の心は鉛を食べたように重かった。

 千絵の彼氏の正体は杳として知れなかった。「私が知っている人間」という心許ない情報を頼りに小、中、高の重厚な卒業アルバムを引っ張り出してきてそれぞれを向こうが見えるほどじっくりと凝視したがそれだけでは当然何も分かりはしなかった。誰かに訊いてみようとしても適当な人間が見当たらない。もともと私は友達が多い方ではなく、千絵もまた私とばかり一緒にいたので二人に共通の友人というものも皆無だった。本来なら圭介に相談したいところだったがそれも今のタイミングは無理だ。

 千絵が誰と付き合っているのかを知って私はどうしようというのだろうか。きっとその男の心を奪おうとするのだろう。私を拒もうとしても拒めないようにじりじりと私を押し付けていくだろう。追い詰めて追い詰めて最後には必ず私はその男の唇に唾液を絡ませた舌を無理やりに滑り込ませるだろう。男のごつごつとした手を取って無理やりにでも私の乳房に宛がうだろう。息を荒げ私は自分の腰を相手の腰に擦り付けるだろう。しかしその相手が誰なのかはっきりしない。姿形の見えない男を空想して自慰に耽るのは何とも空しいことだった。

 私はむしゃくしゃしていた。どんよりとした心の空模様をすっきりさせたい。半分自棄になったような気持ちでその日私は杉田の誘いに乗ったのだった。

「美味しくなかった?」

「え?」

「いや、郁子ちゃんがあまりに浮かない顔してるからさ。そんな顔してるとここのシェフが自信なくしちゃうよ」

 私は杉田の車で彼の友人が経営しているという洋食屋に連れて来られていた。フランスの田舎町を思わせるような木造の趣のある店内は若いカップルで満席に近かった。雰囲気だけではこれほどまで客は寄り付かない。当然味の方も納得できるものだった。

「美味しかったわよ。最初に出てきたミネストローネなんてとても味わい深かったわ。きっと手間暇掛けてるんでしょうね」

「シェフはスープが自慢なんだ。聞いたら喜ぶと思うよ。それにしても・・・」杉田が私の顔を覗き込んでくる。杉田は女を知っている余裕ある表情をしている。女を喜ばせる方法をいくつも引き出しに用意しているという自信が漲っている。誰かさんとは大違いだ。「何かあった?彼氏と喧嘩した?まさか振られたとか?まあ、何があったにせよ、そのおかげでこうして食事を一緒にできたんだから僕はその何かに感謝してるけどね」

「何かがあったのは当たってるけど、その推測は大外れね。ああ、もうそんなことはどうでもいいわ。私、今日はワイングラスを優雅に傾けているような気分じゃない。それよりはジョッキのビールを一気に呷りたい心境なの。飲んで乱れて暴れたいの」

 若い女がこんなことを言うと大抵の男は一瞬怯んだような目つきになる。そしてすぐに虚勢を張って私の意見に賛意を示すのだが、そんな臆病な雄には今日は用がない。私を縛り上げて服従させてくれるぐらいの強引な荒々しさを私は求めているのだ。

「こりゃ、とんだじゃじゃ馬だったかな」

 杉田は呆れたように口元を緩めた。しかし目は笑っていない。かと言って臆したわけではない。それどころか好敵手に出会って喜んでいるかのように真っ直ぐ私を睨みつけている。

 杉田は伝票に手を伸ばすとレジに向かった。慣れた手つきでカードでの支払いを済ませ私を車へ誘った。外の冷えた空気に私は「寒い」と身震いしてコートの襟を掻き合わせた。しかし震えは収まらない。私はぞくぞくしていた。これから何が始まるのだろうか。私はこの車に乗って良いのだろうか。ここで助手席に座るということは全てを杉田に任せるということだ。私はドアに手を掛けたところで圭介を思い浮かべ逡巡した。私は圭介と結婚するのだろうか。それが幸せというものかもしれない。杉田は圭介や宮本や他の男たちとは違う気がする。ここで全てを許してしまえば私は自分を制御できなくなって後戻りできなくなってしまうかもしれない。

「乗れよ」

 杉田の乾いた抑揚のない言葉が私に命令する。私はその響きに思わず声を漏らしそうになるほど鋭く感じた。

 重厚なドアが意外なほど軽い力で開く。席に腰を下ろしドアを閉じると世界と隔離された音がした。私は今自分という存在が自分の手元から滑り落ちた気がした。

 まもなく杉田が操る車は一片の迷いも見せずにホテルの駐車場に停まった。私は導かれるままにエントランスをくぐり、エレベーターに運ばれて、男のトレンチコートの背中を見ながら後ろ手に部屋のドアを閉じた。

 私は覚悟を決めていた。今日一晩私は杉田に弄ばれよう。そして明日になったら圭介に電話をしよう。私でよかったら妻にしてほしいといじらしく答えよう。そして私は一生を掛けて圭介を愛する努力をしよう。私は今まで誰一人として愛したという自覚はない。従って愛というものがどういうものなのか分からない。だけど私なりにやってみるつもりだった。愛というものそのものは得られなくても、たとえままごとのようなものでも愛に近づけていこう。偽物であってもそれを疑わずに愛と信じよう。そのためにも私はここで狂いきるのだ。

 部屋に入ると私はベッドの脇に立ち自らコートを脱ぎスーツの上着のボタンを外した。杉田はネクタイを緩めたワイシャツ姿で私の眼前に現れ私のスーツの襟を持って私が背に負っている重荷を剥ぐように脱がせた。ソファにその上着を投げたかと思うと私を突き飛ばし、ベッドに仰向けに不時着した私の肢体に跨ってきた。

 私は恥かしいぐらいに興奮していた。杉田の指が私のブラウスのボタンを一つ外す度に仰け反るほどの快感が全身を貫いていく。私は堪え切れずに杉田の首に抱きつき唇を重ね肌の感触を求めて頬に頬を摺り寄せた。伸び始めた髭のざらついた感触が何とも心地よい。

 杉田は私の頬に、瞼に、鼻の頭に何度も口づけをし、下唇に、首筋に、耳たぶに歯を立てながらも巧みにボタンを弾いていった。次に上体を起こし裂けそうになるほど強引にブラウスを開く。

 私は小さく悲鳴を上げていた。あまりの興奮に呼吸をすることさえ下手くそになっていた。私の胸が大きく上下に揺れる。私はその揺れを杉田の体重で押さえつけられることを目も開けられずに今か今かと待ち望んでいたのだが、一向に杉田はやってこなかった。

「このネックレス・・・」

 杉田は確かにそう言った。そしてやがて私の上に覆いかぶさってきた。

 私の脳は瞬時に冷静さを取り戻していた。淫らに声を荒げながらも杉田の、濡れた唇、手の動き、瞬きの回数、呼吸の速さ、その全てを隈なく分析し始めていた。


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