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千絵の誕生日である今日、私は急遽圭介に電話して会いたいと告げた。足腰を使う仕事から帰ったばかりで疲れているだろうが圭介は私からの突然の電話を珍しがり二つ返事で了解してくれた。彼はまもなく車で迎えに来てくれるはずだ。私は今日どうしても圭介に抱かれたかった。
例の駅ビルで購入したブランド物のキーケースは千絵には後日渡すつもりだった。もちろん千絵からは宮本さんと三人で食事をしようと誘われている。しかし私は千絵の申し出を、月末で残業しなくちゃいけないからと断った。月末が近づいてきて忙しいのは嘘ではないが、仕事に慣れてきた最近ではそれほど遅くまで残らなくても片付けることができるようになってきたし、他の日に回そうと思えば回せないこともなかった。実際、明日やればいいと今日は定時にあがっている。では何故千絵の誘いを蹴ったのか。それはいろんな意味で私がいれば宮本がやりづらいだろうと思ったからだ。
一週間前私は宮本を駅ビル内のジュエリーショップに連れ回した。千絵に告白する、しかもプロポーズまで考えているとなれば指輪以外に贈るものなどない。私の提案に宮本も納得したようだった。
「指輪なんかあげたら重い感じがして迷惑かなって思ってたけど、言われてみれば確かにそれ以外にないよな」
そう言ってショーケースの中を、ああでもないこうでもないと見つめる宮本の趣味は最悪だった。馬鹿でかい石、嫌味に光るゴールド、過度に手を加えすぎたデザイン。宮本が選ぶものはどれもこれも品のないものばかりだった。千絵にはもっとシンプルなものが似合うということが分かっていない。大きすぎないダイヤに瀟洒なデザイン。私が自信を持って宮本に勧めたのは私の指に一番似合うと思ったものだった。
今頃宮本は私が選んだ指輪をポケットに忍ばせて千絵とどこかのレストランで食事をしているのだろう。私の身体を愛撫したときと同様の覚束なさで指輪を弄んでいるかもしれない。そう思うと早く圭介の腕の中に収まりたいという気持ちが強くなる。何故かは分からないが圭介以外の男と時を過ごした後、私はいつも圭介の身体を欲してしまうのだ。そこが私にとって最も居心地が良いということかもしれない。
宮本の告白の行方も気になるがそれ以上に大事なことがある。「千絵のことが好きだ、結婚したい」とまで言い切った男をいとも簡単に落としたことに大きな意味があるのだ。しかも私からは何も言ってはいない。ちょっとした仕草を見せただけで宮本は金魚のように口をパクパクさせながら私に迫ってきた。もう少し骨があるところを見せるかと思ったが、あまりの呆気なさに逆に物足りないほどだった。
遅過ぎず早過ぎず、私の期待通りの時間で圭介は私の前に現れた。
「ホテル行こ」
助手席に座った私の最初の一言に圭介はちょっと驚いたような横顔を見せたがすぐにいつもの微かに笑っているような柔和な表情になってレバーをドライブに移した。
「よし」
ミラーと目視で周囲を確認してからゆっくりと私たちの軽自動車が走り出す。
ああ、と私は心の中で嘆息する。この声。この仕草。圭介が見せる全ての動作が私を平穏な気持ちにさせてくれる。
私は宮本と寝て良かったと思った。宮本との関係などこれからの私には何の意味もないが、圭介との関係を幸せだと思えるこの瞬間がたまらなく愛しい。
私たちは真っ直ぐにホテルに向かっている。圭介が私の中で己を解放するために、私が圭介に対して己をさらけ出すために。私は下腹部が潤んでくるのを感じないわけにはいかない。
「その指輪似合うね」
私の左手の中指には新しい指輪が輝いている。さすが圭介は良い目をしていると私は思った。宮本とは月とすっぽんだ。
「でしょ。圭介が買ってくれないから自分で買ったのよ」
嘘だった。しかしびっくりするぐらい自然にその言葉は私の口をするりと出ていった。そして私は、ある意味自分で買ったのだと納得するのだった。この指輪の代価を私は身体で支払ったのだと。あのとき宮本は血走った眼で首を縦に振った。同じ指輪を二つ購入するという人でなしの行為を彼は恥も知らずにやってのけた。もしかすると同じ指輪を千絵は喜んで受け取っているかもしれない。そう思うとさらに私の性器は圭介を欲しがって濡れてくる。
「言ってくれれば買うのにさ」
「女の口から言わせるなんて大人の男のすることじゃないわよ」
「そう言われるとつらいな」
私たちは同じように吹き出して笑った。
部屋に入ると私は圭介を押し倒すようにしてその身体の上に馬乗りになった。圭介の唇を求め粘りつくように舌を絡ませながらいつもの感覚で彼の衣類をはだけさせていった。ズボンのファスナーを下ろし雄々しく聳える肉棒を露わにすると私は薬物中毒者が麻薬を求めるように理性を失ってそれにむしゃぶりついた。唾液でしっかりと潤いを与えると私はもう我慢ができずに圭介の腰に自分の腰を下ろしていった。圭介が私の中に肉を掻き分けるようにして入ってくる。私は太い杭で背筋を貫かれたような感覚に思わず声を上げていた。次々に押し寄せてくる快感が私の四肢の力を奪っていく。私が力尽きようとしたときに圭介は芸術的なタイミングで身体を入れ換え、私の上に重なるようにしてさらに私に快楽と興奮を注入していく。私は非常に満足していた。まさに至福のときだった。
全てが終わりまどろみの中で私はぼんやりとした苛立ちを抱いていることに気付いた。気だるく麻痺した思考回路ではこの心に刺さっている棘のありかを探ってもなかなか辿りつけない。このちくっとしたさりげない痛みは何なのだろう。圭介に存分に抱かれた今、これ以上私は何を求めているのだろう。
うつ伏せに枕に埋めていた顔を少し浮かせて私は圭介の様子を覗き見た。
圭介はちゃんと私の傍らにいた。眠ってはいないのだろうが穏やかに目を閉じて横になっている。それを確認すると私のどこかに存在する小さな傷口が余計にじんじんと痛み出した。
この距離。私は半月ほど前にもこの近さで誰かと顔を見合わせている。私は圭介の横顔に千絵の顔を見た。そうだ。あのとき千絵は私に圭介と付き合っているのかと尋ねた。圭介の口から直接聞いたと言っていた。しかし私は圭介から千絵に会ったことを聞いてはいない。どうして言わないのだろう。忘れているだけなのだろうか。それとも圭介にとっては千絵と会ったことなど大したことではないのだろうか。
千絵と圭介も古い付き合いだ。私と千絵が親友だということも知っている。その千絵と街でばったり会ったのなら、やっぱり私に報告するべきではないだろうか。大体、ばったり会っていきなり誰と付き合っているのかなどという会話になどなるものだろうか。だとすると千絵と圭介は立ち話もなんだからと喫茶店ぐらいには寄ったかもしれない。時間帯によれば喫茶店がレストランにもなりさらにアルコールが入る可能性もある。圭介も千絵も酒癖が悪いというわけではない。しかし圭介も千絵のような美人と二人きりで飲み交わしていれば悪い気はしないだろうし、少なくとも以前は恋をしていた相手と再会したのだから千絵としても気分が高揚するだろう。
私は圭介の横顔を見つめながら空想を重ねていった。マイナス思考にはなかなか歯止めがかからない。
「郁子」
不意に名前を呼ばれて私は慌てて顔を伏せた。いつの間にか気だるさはどこかに吹き飛んで私の心臓は活発に動き出している。
「何?」
私は努めて声に物憂い響きをもたせようと試みたがうまくいっただろうか。
横で圭介が上体を起こしたのが分かる。私は裸の背中に圭介の射るような視線を感じる。私は何気ない会話が始まることを望んだ。世間話のようなおしゃべりの中から千絵の話にもっていこう。そうすれば自然と圭介も千絵と会ったときのいきさつを教えてくれるだろう。狭い町だ。歩いていれば過去の同級生に遭遇することなど珍しい話でもない。きっとたわいもないことなのだ。そうだ。そうに違いない。
「俺と結婚してくれないか」
結婚?私が?圭介と?私は完全に意表を突かれていた。まさかこのタイミングでプロポーズをされるとは思ってもみなかった。私は枕に埋めた顔を上げることができないでいた。寝たふりを決め込んで聞かなかったことにしてしまいたいぐらいだった。
「突然どうしたの?」
私は顔だけを圭介の方に向け言葉の調子に軽い驚きを表現した。面白い冗談ねという意味の微笑さえ浮かべてみせた。こんなシリアスな場面は苦手なのだ。何とかして圭介に笑ってもらいたい。笑って悪い冗談だったと謝って欲しい。お願い。そんな怖い顔は圭介には似合わない。
「冗談でも何でもないんだ」その言葉の重量感が私の退路を消していく。圭介の真剣な顔つきが私をじりじりと追い詰めてくる。「思いつきでもない。郁子がこっちに帰ってきてくれて実際の距離が縮まったら、心の距離も縮まった気がするんだ。最近本当に郁子のことが好きなんだなって実感できる。俺には郁子しかいないんだよ」
「でも、そんな、いきなり結婚だなんて」
私は結婚など考えたこともない。そんな儀式は遠い国のおとぎ話程度にしか認識していない。結婚どころか私は圭介のことを愛しているかどうかさえもあやしいのだ。
「いきなりってわけでもないだろ。俺たちもう七年も付き合ってる。年齢だっていつ結婚してもおかしくない。よく考えて出した結論なんだ」
「それはそうだけど。・・・でも、やっていけるのかしら」
「心配ないよ。周りの奴らは一年でさえもなかなかもたないのに、七年間も付き合ってこれたっていうのは俺たちの相性がいいってことだろ?収入だって共働きなら問題ないよ」
私は返す言葉に詰まった。圭介は勘違いをしている。私たちが七年間付き合ってこれたのはお互いがお互いに干渉しなかったからだ。月に一度だけの身体の関係を保ってきたからなのだ。言えることはセックスについての相性が良いというぐらいのことだ。
「嫌なのか?」
「そ、そんなことないけど」
「じゃあ、いいんだな」
「ちょっと、ちょっと待ってよ。どうしてそんなに急いで結論を出そうとするの?そうよ、圭介はよく考えたかもしれないけど、私は今まで結婚なんて考えたこともなかったのよ。圭介が考えたように私にも考える時間が必要だわ。一生のことだもの。後悔しないようによく考えて答えを出したい。少し時間が欲しいの」
「わかったよ」
圭介は渋々私の申し出を承知した。しかし私の「結婚なんて考えたこともない」という言葉にショックを受けたらしく「寂しいなぁ」と大きな独り言を何度も口にした。私はいつまで経っても落ち着かない心を持て余してシャワーに向かった。いつもは全裸でも平気なのに今日はシーツを身体に巻きつけてベッドから降りた。何の前触れもなくプロポーズをしてきた圭介という人間が何を考えているのか分からなくなってしまっていた。