12
私はため息をつきながら待ち合わせ場所にした駅前のドーナツ屋に向かっていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。これから私は宮本と落ち合って彼の買い物に付き合う破目になってしまった。宮本がどうすると訊いてきたのは一週間後に迫っている千絵の誕生日のプレゼントのことだった。
「何にしよっかなぁ。女の子へのプレゼントって何買っていいかさっぱりわからないんだよね。郁子ちゃん一緒についてきてくれない?」
宮本は静かな行内で私に向かって大声で相談を始めた。私の背中に同僚たちの好奇の目が集中しているのはわざわざ振り返らなくても分かる。玄関を閉めたい職員は露骨に不機嫌そうな表情を浮かべている。私個人にとっては何の益にもならないが三百万という大金を気前よく預金してくれた客を無碍に扱うわけにもいかない。しかも相手は知らない人間ではないのだ。私は羞恥心で顔から火が出るような思いでドーナツ屋を指定したのだった。
「言っちゃあ悪いけど、あんな男の誘いに乗っちゃうんだね。やっぱり世の中金なのかぁ」
俺ももっと強引に誘えばいいのかなぁ。終業時刻が過ぎて廊下ですれ違った際に杉田が悲しそうな顔でボソッと呟いた。杉田があんな不恰好な誘いをしてきても私は絶対に乗らない。杉田はもっとスマートであってほしい。だが、結果として杉田のプライドが傷ついているのは私にも理解できた。
「じゃあ、今度ごはんをご馳走してください」
あからさまな社交辞令だが杉田はそれでも幾分機嫌を直したようだった。どうして私がこんなに気を使わなくてはいけないのか。着替えに向かいながら私は困った男たちだと盛大なため息を漏らした。
ドーナツ屋に足を踏み入れた瞬間に店の奥の方から大きな声で、「郁子ちゃんこっちこっち」と私を呼ぶ声がする。店内の客と店員が一斉に私の方に視線を投げかけてくる。私と宮本を見比べてくすくす笑っているカップルがいる。消えてしまいたい。私は思わず間違えましたと頭を下げて外に出たくなるのを何とかこらえ、肩をすぼめ足音を忍ばせて宮本の席に向かった。空いている椅子にコートを掛け、向かい合うように私が座ると宮本は満足そうに頷き店員に向かって手を挙げ大声でコーヒーのおかわりを要求した。
「ここのドーナツ屋ってコーヒーのおかわり無料なんだよ。知ってた?これで5杯目」
なみなみ注いでよ、と要求する近江商人顔負けの宮本を見ているとどうしようもなく胸がむかむかしてくる。胃を壊して下痢にでもなってしまえ、といらいらしているとこちらの胃が荒れてしまいかねない。「お客様は何かご注文は」と愛想の良い高校生ぐらいの店員に尋ねられ、私は小さく、「すぐに出ますから」と断ったが宮本のコーヒーのおかげで全く信憑性がない。
私は早く店を出たかった。宮本と向かい合って座っているのも苦痛だが、それ以上に宮本と一緒にいるところを誰かに見られはしないかと気が気でない。こんなに職場に近いところに長居していてはどうぞ見てください、悪い噂を流してくださいと言っているようなものだ。あの三百万も色仕掛けだったのかと邪推されようものならあまりの口惜しさに気が触れてしまいそうだ。
「キーケースにしようかと思ってます」
先日の母校訪問の際に知ったのだが千絵は車が好きなようだ。運転していると嫌なことを忘れると言っていたし、休日などの暇なときにはよく洗車をしているようだ。私は車のことは良く分からないが、ハンドルもホイールもカーステレオも純正ではなく、それぞれ値が張るものらしい。私の周りでミッションを操る女性など千絵以外にいない。そんな千絵の車の鍵にはどこかの温泉地の土産物のようなみすぼらしい熊のキーホルダーがぶら下がっていて私にはどうも違和感があった。
「キーケースねぇ」
ふーん、と宮本は面白くなさそうに呟いた。
「今、千絵ちゃんがつけてるキーホルダーって俺が買ってきた土産物なんだよな」
「そうなんですか」
そう言われても引き下がる気など全く起こらなかった。それどころか余計にセンスの良いキーケースを見つけて取り替えさせてやるという気概に私は満ち溢れてきた。
「ほんと、女の子って何が欲しいのか分かんないよな」
「そんなことないですよ。女の子なんて単純です。誰だって財布や鞄なんかをあげておけば満足しますよ」
「へぇ。郁子ちゃんも財布や鞄が欲しいの?」
宮本の眼鏡の奥に潜んでいる愚鈍そうな目が私に粘っこい視線を送ってくる。身の毛がよだつとはこのことだった。私は思わず悲鳴を上げそうになるほど背筋が凍りつくのを感じた。
もうこれ以上宮本の顔を直視できない。宮本と同じ空気を吸っていることに耐えられなくなっていた。
私はそろそろとコートの方に手を伸ばし、いつでも立ち上がれるように準備をした。そもそも私が宮本の買い物に付き合わなければならない必要性などどこにもないのだ。ごめんなさい、用事を思い出しちゃって。これだけのことを言い残して素早く出口に向かえば良いのだ。明らかに嘘と分かってもかまわない。私は宮本に気付かれないように深く息を吸い込んで呼吸を整えた。
「郁子ちゃんって千絵ちゃんに似てるよね」
「えっ?」
「千絵ちゃんも結構背が高いけど郁子ちゃんも同じぐらいでしょ。髪形も体型もよく似てるし。何となく全体的に雰囲気がそっくりなんだよね。それはきっと性格も共通するところが多いからなんだろうな。だからさ、郁子ちゃんなら千絵ちゃんがもらって喜ぶものが分かるんじゃないかと思って相談しに来たんだよ」
「そうだったんですか」
私は伸ばした手を膝の上に戻した。
宮本も可愛いところがあるではないか。私と千絵が似ている。二十五歳になった今でもそう言われると全身が一つの羽になったように軽い気分になれる。
「訊いても良いですか?」
「何?」
「宮本さんって千絵と付き合ってるんですか?」
ぶっ。私の質問に宮本は口にしたコーヒーを戻しそうになっていた。私は思わず自分のハンカチを差し出していた。宮本は私の申し出に掌を見せることで礼と断りを表しジーンズのポケットから紺色のハンカチを出して口に当てた。
「付き合ってはないと思うよ。親同士が知り合いだったから昔からお互いに知ってて、幼馴染みたいなもんかな」
口を拭ったハンカチで宮本はついでのように眼鏡のレンズを拭き始めた。黒ぶちの眼鏡を外した宮本は余計にインパクトが薄くなって地味な顔つきだったが意外に目元が鋭く精悍さがあるように見えた。
「宮本さんは、千絵のこと、好きなんですか?」
宮本は手を止め私の方に一瞥を投げかけたかと思うとハンカチをしまい眼鏡を掛け直してまたコーヒーを口にした。
「正直言って、好きだよ。結婚したい。だからこそ今回のプレゼントは大事なんだ。僕は千絵ちゃんにプロポーズするつもりなんだ」
「分かりました。私に任せてください。きっと千絵が気に入るものを見つけてみせますよ」
さあ、行きましょ、と私は率先して席を立った。まだコーヒーが残っている、と未練たっぷりにカップを眺める宮本を置き去りにして私はドアに向かった。宮本が慌てて立ち上がり椅子を蹴飛ばす音が背後で聞こえるが私は足取りを緩めることをしなかった。