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女病  作者: 彩杉 A
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「吉野さんですよね」

 カウンターを挟んで正面に立っているその男に名前を呼ばれても私はピンと来なかった。グレーのセーターにベージュのチノパンというスーパーのチラシでしか見たことのないような格好。私の名前を知っているということは、どこかで会っているのだろう。しかしそれがどこだったかが思い出せない。小太り気味のたるんだ身体に広がり始めている額、今時珍しい黒ぶち眼鏡。そう言えば最近こんな感じの、印象の薄い冴えない男に出会った気がする・・・。そこまで考えて私は漸く一人の男に思い当たった。

「宮本さん!」

 宮本は嬉しそうに頷いた。

「よかったぁ。忘れられちゃったのかと思ったよ」

 宮本はほっとしたような表情でお尻のポケットからハンカチを出し、うっすら汗が浮かんでいる額を押さえた。

「そんな、忘れるはずがないじゃないですか。ハハハハハ」愛想笑いをして見せたが先が続かない。「えーっと、今日はどういう御用でした?」

「どういうって、またまたぁ、この前会ったときに約束したじゃない」

 約束?何のことだろうと私は心の中で小首を捻った。快気祝いと称して呼び出されたレストランで私はこの男とほとんど言葉を交わしていない。顔は思い出すのに苦労したが、そのことは鮮明に覚えている。あのとき私は半ば意固地になって彼に対して口を閉ざしていた。話を振られても相槌すら打たないこともあった。そんな状況で約束など交わすはずはなく、仮に何かを結んでいたならば覚えていないはずがない。

「お約束どおり口座を作りに来たんですよ。わざわざ仕事を休んで」

 私はそんなようなことをこの男が言っていたことを思い出した。確かに宮本は口座を開きにくると言い、私は形式的に礼を述べた。しかしあれは挨拶のようなものだ。あの社交辞令を持ち出して約束だなどと恩着せがましく言われては甚だ不愉快だった。

「それは申し訳ありません。わざわざありがとうございます」

 私は窓口係の習性に従って反射的に謝っていた。我が社のためには取るに足らない口約束を律儀に守ってくれた善意の客に礼を言ってしかるべきなのだ。個人的な感情で、そんなこと頼んだ覚えはないなどと開き直ることは許されないということぐらい私も社会人の常識としてわきまえている。

「仕事休まないと窓口やってる時間に来れないもんね」

 この男は嫌味を言いにわざわざ来たのだろうか。

 毎日窓口に座っているとこういう性質の悪い客に遭遇することもしばしばだ。何か文句を言ってやろう、どこかに落ち度はないか探してやろうという意気込みで目をギラギラ光らせてやってくる輩もいる。そんな客に対して運悪く何かミスをしでかしてしまったらもう最悪だ。その客からはみんなの前で口汚く罵られるし、それが終わったら上司に呼び出されて説教を受けなくてはいけない。そのときは事故みたいなものだと諦めるしかないのだが私にはなかなか割り切れないことが多い。二、三日嫌な気分を引きずってしまうこともよくある。今回は名指しだ。絶対にミスはできないと私は気合を入れた。

「弊社ではインターネットでのサービスも充実した内容のものをご提供させていただいておりますので、そちらをお好きな時間にご利用いただくと大変便利ですよ」

 気がつくと隣の同僚は「営業時間は終了しました」のプレートを窓口に置いて後ろの席に退く準備をしている。壁の時計に目をやると丁度営業終了時刻の三時だった。いつの間にか宮本以外に客はいなくなっていた。

「へぇ、そうなんだ。世の中便利になるもんだね。でも俺、機械が苦手でパソコンの使い方良く知らないんだ」

 へへっと宮本は照れたように無様に顔を歪めて笑った。今時インターネットもできないような社会人がいるだろうか。いや、こんな男にあれこれ説明しようとしていた自分が愚かだったのだ。玄関の方から同僚の男性職員が催促するような目でこちらを見ている。宮本が帰れば今日の受付業務は終了となってシャッターを閉じることになる。ここで時間を費やしていてはこちらが終わるのを待っている彼にとっても迷惑だ。

「口座の開設でございましたね。それではこちらの用紙にご記入願います」

 宮本に任せていてはきっと無駄に時間がかかるし記入ミスをするだろう。私は鉛筆を片手に順序良く記入を促した。はい、そこにお名前を。苗字と名前の間は一マス空けて。こちらに郵便番号とご住所です。県名からお願いします。次にお電話番号です。携帯電話でもかまいません。

「はい。これで全て記入できました。今日は身分証明書は何かお持ちですか?」

「身分証明?」

「はい。お客様を宮本様と特定できる公の機関が発行した証明書です。自動車の免許証で結構ですよ」

「ごめん。俺、自動車の免許持ってないんだ。気をつけて印鑑だけは持ってきたんだけど・・・困ったな」

 照れ隠しの笑顔を引きつらせて宮本はどこのブランドだか分からない悪趣味な蝦色のセカンドバッグの中をごそごそやっている。まったく、冴えない男だ。今時三十男が自動車の一つも運転できないなんて愚の骨頂だ。笑い話にもならない。嫌でもため息が出てしまいそうだ。私はこの男が女とデートをしているところを想像した。買い物にも、映画にも、ホテルにも彼女の運転で・・・。宮本を助手席にラブホテルの駐車場に車庫入れする自分を想像してみる。耐えられないと私は思った。こんな頼りのない男とのセックスなど盛り上がるはずがない。やはり千絵と宮本が付き合っているなどありえないことなのだ。

「パスポートや健康保険証でも構いませんが、お持ちでしょうか?」

 私は受付マニュアルに従って、期待せずに声を掛けた。おそらく今日のところは出直しということで落ち着くだろう。何のために受付時間を延長させてまでこの男に付き合ったのだろうか。自動ドアの前から先ほどの職員が相変わらずこちらをちらちらと見ている。彼もいい加減うんざりしているだろう。

「それなら、あるよ」

 早く言えよと言わんばかりに宮本は二つ返事で健康保険証を取り出した。私は暫く呆気に取られた。宮本は常に健康保険証をセカンドバッグに入れて持ち歩いているようだ。この年代で身分証明用として健康保険証を常に携帯している人間に私は出会ったことがない。身分証明書と訊かれてピンと来なかったのだから宮本も自己を証明するために保険証を持っているわけではないのだろう。彼の顔の艶は病弱とは程遠い。では何のために・・・。意味もなく健康保険証を携行する男。個人的な好みの問題だが・・・。本当に本当に冴えない。冴えなさ具合が私の目論見を越えていて私はまたさらに失望していた。

「これでいいんだよね?」

 不安そうに宮本が私の顔を覗き込んでくる。

「あっ、はい、印鑑もお持ちですし、これで大丈夫です。すぐに新しい通帳を発行させていただきます」

「よかった。口座を開くって結構難しいもんだね」

 それはマネーロンダリングを狙っているような犯罪者や首の回らなくなった多重債務者の発想だ。一般市民が口座を開くのが難しいなどという感想を聞いたことがない。

「つきましては、宮本様。まず最初にいくらか預金していただくことになりますが」

 一円でも構いませんが、と私が言おうとするのを宮本が大きな声で遮った。

「三百万で」

 宮本はバッグから福沢諭吉の束を無造作に鷲掴みして私の前に積み上げた。

「ところでさ、郁子ちゃんはどうする?俺、何したらいいか分かんないんだよね」


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