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女病  作者: 彩杉 A
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 快気祝いをしよう、と言い出した千絵が指定してきた店は電車で南へ十五分ほどの隣町に新しくできた駅ビルの最上階にあった。この隣町と私や千絵が住む町とは人口的にも交通の便から見ても大した差はないのだが、この駅ビルが今年オープンしたことによって二つの町に顕著な差が生まれてくるだろうと予想されている。そしてその予想が現実となるのは誰の眼から見ても明らかだった。

 ビル内には名の通ったブランド店が軒を並べ、ビル全体におしゃれで高級感漂う雰囲気を作り出している。その今時の空気が多くの人間を惹きつけているようだった。ブランド志向の流れはここら辺りの田舎にも浸透し始めている。若者だけではなく中年の域に入りかけている女性たちも値の張るものを持って気取りたくてしかたがない。そういう購買欲だけに的を絞ったビル側の戦略は今のところ功を奏しているようだった。かく言う私もこの駅ビルにすでに何回か訪れている。胸に人知れず飾っているシルバーのネックレスもここのジュエリーショップで購入したものだった。

 私がこのビルに着いたときには千絵の指定の時間からすでに十五分遅れていた。性懲りもなく言い寄ってくる杉田を適当にあしらいながら雑務を片付けていたら思いのほか時間を食ってしまったのだ。これぐらいの遅刻をとやかく言う千絵ではないが、せっかくの千絵の好意を仇で返すようなことはしたくない。私はエレベーターに飛び乗り一目散に最上階を目指した。

 千絵に会うのは私が号泣し千絵が憤激した日以来だ。私は千絵の前で涙を流したことなど一度もなかったし、千絵が顔色を変えるほど誰かに怒りを露わにしたところを目撃したのも初めてだった。長年付き合っている友人なのに涙も憤りも知らなかったことに寂しい驚きがある。この歳になってまたお互いがお互いをさらに理解することになった。そう思うとエレベーター内の階表示が最上階に近づくにつれて妙に照れくさいような窮屈な気分が兆してきた。だが、店に入り店員に席まで案内されたときには私はその軽いいたたまれなさを瞬時に忘れていた。

 席には千絵以外にもう一人いた。見るからにみすぼらしい男。少し小太り気味で怠惰さをイメージさせるたるんだ咽喉周りの贅肉、見たこともないような趣味の悪い紫色のネクタイ、漫画でしか見たことのないような野暮ったい黒ぶち眼鏡、肌はつやつやと若々しいのにすでに後退し始めている前髪。彼は何もかもが完璧な千絵の隣にいるべき人種ではなかった。

「郁子、遅かったじゃない」

 千絵は立ち上がって私を迎えてくれた。先日の剣幕とは程遠い、いつもの柔和な千絵だった。

「ごめんね。なかなか仕事が終わらなくって」

 私は努めてその男を視界に入れないように千絵に向けた視線を固定した。どうしても男が千絵の知り合いだとは思いたくなかったからだ。千絵の隣に座っているのだから千絵と無関係な人物であるはずはないのだが、何かの間違いであって欲しいと思わず願ってしまう。

「こちらは、宮本修一さん。ほら・・・」

 この前話題になった宮本さんよ、と千絵の目が言っている。男は立ち上がって、「宮本です」と私に会釈してきた。男は私や千絵よりも身長が低かった。圭介が私よりも身長が低いのに対しては何の感慨もないが、この男についてはそれだけでも侮蔑の気持ちが湧いてしまう。

「彼ね、前々から郁子に会ってみたいって言ってたの。ほら、郁子を抜きにしては今までの私の人生って語れないでしょ。私と宮本さんも結構古い付き合いだからよく会話に郁子の名前が出てくるんだけど、顔が分からないとイメージがつきにくいじゃない。だから一度会わせてみたいなって私も思ってたの。それでね、この前、郁子が風邪をひいて仕事休んでるって言ったら心配してくれて、快気祝いやろうよって言い出したのも宮本さんなの。ここを予約してくれたのも彼なのよ」

 私は自分に嫌気がさすぐらいぎこちない動作で挨拶を返していた。

 私は今日までに自分の中に無意識に宮本さん像を作り上げてしまっていたことに気付いていた。ここに至るまで私の中での宮本さんは見上げるほど背が高く、高価なものを着こなしながらもそれが嫌味でなく、プロ顔負けのワインや料理に対する造詣の深さで、白くしなやかに伸びる指を持ち、セックスのときには巧みにこちらの羞恥心を煽るような言葉を耳打ちしてくれる大人の男性だった。私は独りよがりだったと自分を責める余裕もないほど彼へのイメージと本人とのギャップの歴然たる大きさに動揺していた。この男が千絵の婚約者だなんて百絵は一体どこに目をつけ何を見ているのだろうか。

 店員が寄ってくると千絵は、先ほど注文したものをお願いします、と告げた。宮本は黙って水を飲んでいる。私はそれを見ているだけでまたみぞおち辺りに怒気が動くのを感じた。店員とのやり取りを千絵にやらせていることが男らしくないようで許せなかったのだ。おそらく宮本が何をしても何をしなくても私は彼を気に入ることはない。

「郁子さんはお仕事は何を」

 いきなり身上調査かとまた私の心に波が起こる。初対面なのに苗字ではなく名前で呼ばれたのも馴れ馴れしいようで癪にさわった。

「ほら、あの駅前の信用金庫よ。修ちゃんも知ってるでしょ?」

 千絵が代わりに説明してくれるのも嬉しくはなかった。私の情報を勝手に宮本に流さないでもらいたい。

「ああ、何となく分かる気がする」

「何となくだなんて郁子に失礼よ、修ちゃん」

「そっかぁ」

 私は甚だ沈鬱な気分になってきていた。もちろん宮本が信用金庫の存在をあやふやにしか覚えていないからではない。千絵がこの何の取り柄もないような男に媚びているとも見えるほど親密に振舞っていることが悲しくてしかたがなかったのだ。

「失礼のお詫びに今度口座を開きに行きますよ。大した額はできませんけど」

「ありがとうございます。お待ちしています」

 こんな男に礼を言うぐらいなら預金などしてもらわなくても結構だというのが正直な気持ちだった。千絵が招いた客だから我慢をして相手をするが、そうでなければ私は席に腰を下ろすこともなかったはずだ。

 運ばれてきたのは赤ワインと三種類のパスタだった。ボンゴレ、イカ墨、カルボナーラのパスタはそれぞれ皿というよりも鉢と言った方が正しいような大きな器に盛られていて大人三人でも食べきれるかどうか不安になるぐらいだった。

 ここのは本当においしいのよ、と千絵が率先して小皿に盛り分けてくれる。妙に甲斐甲斐しい千絵を見ていると百絵の言ったこともまんざらではないように思えてきた。当たり前のような顔で千絵の働き振りを眺めている宮本はもう亭主気取りになっているようにも映る。先日私の前で怒って見せたのは幼馴染である私に婚約者の存在を黙っていたことに対する後ろめたさからなのかもしれないという気さえしてくる。だとすると今日の食事会は快気祝いなどではなく千絵が私に宮本を紹介する場ということも言える。一ヶ月もしたら突然披露宴の案内が届いて泡を食うことも十分ありえる話だ。

 しかし、そうでないとすれば。

 思い当たるのは圭介のことしかない。圭介の口から私と付き合っていると聞けば千絵としてはおもしろくはなかっただろう。だからこそここでは私に当てつけるように宮本と睦まじくしてみせるのかもしれない。千絵は私に嫉妬しているのだろうか。

 高校三年生のときに同級生だった圭介と付き合いたいと思っていたのは私ではなく千絵だった。千絵はそういう恋心を周囲に相談する性格ではないが、圭介を見るときの熱っぽい視線や圭介に話しかけるときの上気した頬を見れば彼女の心内は長年一緒に居る私には手に取るように分かった。このままいけばいずれ千絵は圭介に告白するだろう。そして校内のマドンナとも言える千絵に好きと告げられて断る男などいるはずがない。

 私はどうしてもそれを阻止したかった。そのときの私の心理が、千絵が誰かの女に成り下がるのが嫌だったのか、それとも周囲の憧れの的である千絵が欲するものを千絵に先立って自分の手にしたかったのかは分からない。おそらく両方だったのだろう。

 私はすぐさま圭介に近づいた。何度か千絵に隠れて圭介を誘い出し、自分でも驚くほど巧みにさりげなく好意をほのめかし、頃合を見計らって強引に迫り身体を押し付けた。当時性の面ではまだ子供だった圭介は急な展開に慌てた様子だったが、私がその手を取って乳房に宛がえば逆らうこともできずにそのまま私に溺れてくれた。私にとっても初めての経験だったが怖さはなかった。それよりも千絵がまさに選ぼうとしていた男を奪うことができたことに心酔していた。

 その後まもなく私は圭介には彼女がいるということをそれとなく千絵に伝えた。千絵は平静を装ってはいたが明らかに落胆していて、それを見た私は心の中で狂喜していた。しかし千絵は強かった。人の良い千絵が誰かから男を奪おうとするはずがないという私の読みが当たり、それ以後千絵はきっぱりと圭介に話しかけることも惚けたような視線を送ることもしなくなった。

 私と圭介の付き合いはそこから始まっている。きっかけは千絵だった。私が圭介のことを好きだったわけではない。そして未だに圭介に対して私の中に恋愛感情は芽生えていないように思う。圭介が他の女の話題を口にしても嫉妬という感情を味わったことなど一度もなければ、圭介の傍にいて彼の存在に心がときめいた覚えもない。圭介から連絡がなくて寂しいと思ったこともないし、圭介のために自分の欲望を我慢したこともない。それでも圭介との関係が終わらないのは彼の存在があのときの喜びを思い出させてくれるからだろう。圭介に愛撫されているとき今でも私の身体には千絵に勝ったという高揚感が漲りそれが無尽蔵に溢れる愛液となって圭介の性器を潤すことを私は知っている。

 当時千絵は私と圭介の関係には気付いていなかったと思う。大学受験を目前に控えていた私と圭介は外で会うことも少なかったが、それでもたまに会うときには私は誰にも見られないように細心の注意を払って行動したし、まもなく卒業して私はこの街を出たので二人でいるところを千絵に見られたはずはない。それに人が良すぎる千絵は私のことを疑ったりすることなど一度もなかっただろう。

 快感の裏側に罪の意識を認めていないわけではない。だから時効として十分すぎるほどの年月が経っても千絵に圭介と付き合っているのかと尋ねられたとき私は暫く何も言えなかった。しかし心はもう開き直っている。圭介が何をどこまでしゃべったかは知らないが、事件は何年も昔のことだ。その気になったら幾らでもごまかすことはできるし、いざとなったら千絵が圭介のことを好きだったなんて知らなかったと言い張れば良い。竹を割ったようなさっぱりしたところがある千絵がねちねち嫌味を口にすることもないだろう。ただ千絵としては面白くないというのも分かる。だから今日は私を呼びつけて見せつけようとしているのかもしれない。それだけのことだ。そう思うと私は向かいの二人の仲をあれこれ訊くことも馬鹿馬鹿しく、食べることだけに専念することにした。

 これで料理が不味かったらまさに泣きっ面に蜂だったが、千絵が言ったとおりパスタの味は素晴らしいものだった。イタリアンを嫌う女性は少なく私もパスタは日頃よく食べる方だが、これほどの味は都心でもなかなかお目にかかれない。魚介類は新鮮だし、ガーリックやチーズをふんだんに使っているので味わいに深みがある。ワインも渋みが少なく飲みやすい。

 アサリがどうの、ベーコンがどうのと楽しそうにぺちゃくちゃやっている二人を尻目に私は黙々とフォークを操った。息がニンニク臭くなるのは間違いなさそうだし、イカ墨で口の中が黒くなりそうだったが私は気にしなかった。宮本にどう思われようが知ったことではない。それよりもさっさと平らげてしまって二人を置いてお先に失礼といきたかった。そうだ。せっかくここまで来たのだから地下でケーキを買って帰ろう。ある同僚があそこのケーキは品が良くて美味しいと言っていたのを聞いて前々から食べてみたかったのだ。

「美味しかったでしょ」

 私がものすごいスピードで食べ終えたことに満足したのか千絵が嬉しそうに尋ねてくる。

「ええ、とっても。でも久しぶりにワインを飲んだからかしら、さっきから少し気分が悪いの」

「それはよくないな。郁子さんは病み上がりなんだし」

 途端に宮本が顔を曇らせて私の顔を覗き込んでくる。眉間に皺を寄せてみたところで全然締まらない顔だ。これ以上面と向かっていると本当に気分が悪くなってしまいそうだ。

「ええ。明日も仕事ですからぶり返さないといいんですけど。私、お先に失礼してよろしいでしょうか?」

「どうぞ、どうぞ。早めに休んで大事になさってください」

 せっかくお呼びいただいたのに申し訳ありません、と頭を下げ財布を開こうとすると宮本は大きな手振りでそれを制した。二、三度の芝居じみた応酬の末、私は一銭も支払わずに一人で店を出ることに成功していた。

 目当ての洋菓子屋を見つけたときには私の心は幾分晴れていた。宮本はもう一度会いたいと思うような男ではなかったが、美味しそうなケーキを目の前にしてみるとすでにどんな顔だったかも思い出せないほど印象が薄かった。ろくすっぽ言葉も交わしていないから彼のことを記憶から探り出す糸口も見当たらない。害にもならない出会いだったと脳内のハードディスクから削除してしまうつもりで郁子は両親の分も含めてケーキを購入した。もし今日の日記を書くとしたら、本当にあそこのケーキはおいしかった、両親も喜んでくれて嬉しかった、で終わりとなるだろう。ベッドに入り目を閉じたときに浮かんでくるのは宮本の顔ではなく三角形のレアチーズケーキであり、品の良い甘さを反芻しながら私は今日一日に何の不満もなく眠りにつくに違いない。私は千絵と宮本に出くわすかもしれないという危険を何一つ顧みず、ケーキの入った箱を水平に保つことだけに専念してゆっくりゆっくり駅のホームへと足を運んだ。


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