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女病  作者: 彩杉 A
10/19

 冬は便利な季節だ。体調が悪いのは全て風邪のせいにできてしまう。

 風邪だね。急に寒くなってきたからね。疲れがたまっていたんだよ。インフルエンザが流行っているらしいから気をつけないと。

 体調が悪いので今日明日と休みたい。電話でそう告げると同僚からはこんなに優しい言葉が返ってくる。これが夏だったらあれこれ訊かれたかもしれないが、今の季節は体調が悪いと言っただけで向こうが勝手に風邪だと解釈してくれる。冬様々だ。おかげで私は心置きなく昨日からずっと好きなだけ惰眠を貪ることができた。

 もちろん嘘をついたわけではない。本当に寒気を感じたし、実際に熱も出た。出社したところで仕事にならず周りに迷惑をかけただけだろう。しかし原因は風邪などではなく、千絵の婚約だということははっきりしていた。

 娘が熱を出して寝込んだからといって父も母もかまってはくれない。無口な父はどうしたんだとも訊いてこないし、おかゆぐらい自分で作れるでしょと母はいつもどおりパートに出ていった。おかげで私は誰にも干渉されず何時間も私と付き合うことができた。

 私にこれほどショックを与える千絵とは一体何者なのか。千絵のことでこんなにもストレスを抱えてしまう私とは何者なのか。私は布団の中ですっかりふやけた脳が行うまとまらない思考に身を委ねながら湯水のごとく時間を費やした。

 遠くの方で何かが鳴った。その何かが玄関のチャイムだと気がつくのにどれぐらい時間がかかっただろうか。そうと思い当たった瞬間、反射的に私はベッドの上に身を起こしたが、まもなく再び崩れるように布団の国へ戻っていった。

 携帯電話を見ると三時前だった。さっき確認したときは昼前だったのに。時間は私の知らないうちに私を置き去りにして駆け足で進んでいるようだ。

 それでも母がパートから帰ってくるにはまだ時間がある。つまり今この家には私以外に訪問者に応対する人間はいないことになる。しかし普段この時間に私はいないのだから、今日だって私が出る必要はないだろう。せっかく来たお客さんには可愛そうな気もするが、我が家にこの時間に訪れることがまず間違っているのだ。

 そんな私の言い訳に抗議するように目の前の携帯電話が鳴った。私はびっくりして胸が縮んだような息苦しい痛みを感じた。あまりに顔に近いところで鳴ったので着信音が頭に響く。誰よ、もう、と画面を見ると千絵からだった。

「風邪なんだって?大丈夫なの」

「そうだけど・・・どうして知ってるの?」

「さっき信用金庫にいろいろ手続きに行ったのよ。それで郁子がいないからおかしいなと思って訊ねてみたら、風邪で休んでるって教えてくれたのよ」

 千絵は大野家の光熱費や携帯電話の引き落としを全て信用金庫の口座から引き落とせるように手続きを済ませてきたらしい。

「それで、今どこにいるの?」

「どこって家で寝てるわよ」

「じゃあやっぱり居留守だったのね」

 私は携帯電話を耳に当てたままカーディガンを掴みパジャマ姿のまま慌てて玄関に走った。ドアを開けるとそこには私と同じように携帯電話を耳に当てている千絵が立っていた。

「思ったより元気そう」

 千絵の声が正面からも耳元からも聞こえる。私たちはにっこりと微笑みあった。

 千絵は結婚式の引き出物のような大きな紙袋を持っていた。部屋に上がると早速千絵はその紙袋からステンレスのボールとガラスの小鉢を取り出した。ボールの中にはなみなみと杏仁豆腐が入っている。白い寒天の間に浮かぶさくらんぼやみかんの甘酸っぱそうな色に久しぶりに私の食欲が刺激された。そういえば今日は朝から何も食べていなかったのだ。

「これって」

「そう。あのお好み焼き屋の杏仁豆腐よ」

 千絵は得意げに胸を張った。今日は珍しく束ねていない艶やかな髪を掻き揚げて、おいしいわよ、と小鉢に取り分けてくれる。その病人を労わることだけに集中している無邪気な千絵の横顔に私は見惚れた。私のために千絵がここにいる。時が止まってしまえばいいのにと私は下唇を噛締めた。それが叶わないなら千絵を瞬間冷却して私のものにしてしまいたい。

 私を苦しめる人間が私を救おうとしてくれる。皮肉なことだと私は苦笑するしかない。きっと彼女はいつの日か誰かの妻となっても今日の女神のような献身的な顔で良人の世話を甲斐甲斐しく焼くのだろう。何の打算もない、尽くすことを無上の喜びと感じているような表情の千絵に見つめられれば男でなくとも幸せを感じるはずだ。私にはこんな顔はできない。やはり損得勘定抜きにしては生きていけない私には敵わないのだ。

「はい、どうぞ。いっぱいあるからたくさん食べてね」

「ありがとう。でも千絵も食べてね。私だけじゃこんなに食べられないわ」

「もちろん、そのつもりよ」

 千絵は紙袋からさらに小鉢を出して見せた。私たちは顔を見合わせて大きな声で笑った。

 私はさばさばした気持ちになっていた。

 幼いとさえ言える頃から私は千絵のことばかり見つめて生きてきた。私のこれまでの人生は千絵の周りを取り巻いていただけだ。それは千絵が最高に美しかったから。笑っちゃうぐらい裕福だったから。何をやらせても輝いていたから。それなのに誰からも好かれる人間だったから。

 小学五年のある日、先生に後姿を千絵と間違えられた。そのとき振り向いた私に彼が投げかけた言葉が私の人生を狂わせたのだ。

「双子みたいにそっくりだから間違っちゃったよ」

 今思えばあれは彼なりのジョークだったのだろう。子供相手だと思って大げさな表現をしただけなのだ。しかし私は彼の言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。頭の先から爪先に向けて背筋を通って何かが走り抜けていった。そしてその筋道からじわじわと滲み出す喜び。私は千絵に似ている。どこにでもいそうな容姿、貧しくない程度の家庭、得意も苦手もないという才能、何となく影の薄い存在。そんな私が千絵に似ているとは。教師たちはみな千絵が好きなのだ。それなのに私を千絵と間違えた。私にも千絵になる素質があるのかもしれない。

 そして私は千絵になろう、なりきろう、そして何でもいいから、どんなことでもいいから千絵に勝つんだと心に誓ったのだ。

「やっぱりおいしいわ」

 得も言われない、という表情の千絵は憎らしいぐらい可愛い。私が男なら間違いなくここで千絵を犯しているだろう。しかし私は女だった。女なんかに生まれなければよかった。男は腕力で美を自分のものにできるが、女には自分が美しくなる以外に美を手に入れる道はない。そして千絵の道は真っ直ぐで平坦なのに対し、私の道程は坂と障害物の連続だった。生まれた時点で勝ち目がないのだ。千絵と同じ女に生まれた私の負けだ。

「結婚するの?」

 私の突然の問いかけに千絵はきょとんとした表情を見せた。

 私はその顔つきに苛立ちを覚えた。まだ私を騙し続けるのか。これでもまだ私を苦しめることに飽き足らないのか。そうか。今日の来訪も見舞いと偽って実は私が打ちのめされてくたばっている様子を笑いたかっただけなのだ。私のマイナス思考は山の斜面を下っていく土砂のごとく留まることを知らない。

「私、結婚するの?」

 千絵はスプーンを銜えたまま何のことか分からないという顔つきで私の目を覗き込んでくる。

 このしらばくれようはどうだ。私は憤りを隠せなくなっていた。鏡を見なくても自分の表情が強張っているのが分かる。顔に血が上りこめかみの辺りで脈が怒りのリズムを刻み出したかと思うと急に視界がぼやけて身体の平衡感覚が保てなくなった。千絵の端麗な顔立ちが歪んで見える。私はさりげなく腰をおろしていた床に手をつき自分を支えようとした。ここで退いてはいけない。千絵という人間の白黒を見極めなくては。

「千絵のお母さんが言ってたわよ。千絵には中学からの婚約者がいるって」

「婚約者?誰のこと?」

「隠さなくていいよ、全部聞いたんだから。宮本さんっていう人と結婚するんでしょ?ずっと前から親公認の仲なんでしょ?どうして私に黙ってるのよ。どうして何も言ってくれなかったの?隠す必要なんてないじゃない」

 私は自分が止められなくなっていた。気付いたときにはぼろぼろと溢れる涙でパジャマの袖を汚し先日気に入って買ったばかりの小さなテーブルに突っ伏していた。自分の腕の中に顔を伏せながら私は思った。勝てないわけだ。千絵はこんな醜い涙は流さない。

「郁子。私、まだ結婚なんて考えてないよ。宮本さんはいい人だけど、そういう相手じゃないの」

「もういいよ」

 私は泣きじゃくっていた。私は何が悲しくてこんなにみっともなく泣いているんだろうか。裏切られた気持ち、顔も知らない男への嫉妬、鈍感な自分への嫌悪。

 千絵が結婚したって私に害になることなど何もないはずなのに。私は千絵にこの涙をどう言い訳すれば良いのか。風邪をひいているから情緒が不安定なの、では無理がある。千絵が結婚したらと思うと寂しくて。これでいこう。

「もしもし。お母さん?」

 私が顔を起こすタイミングを見計らっている間に千絵は電話を掛けたようだった。

「私が結婚するってどういうことよ。結婚したいだなんて一言も言ったことないわよ。・・・宮本さんのことを婚約者だって言ったんでしょ?私、婚約なんてした覚えないわ。・・・不服?不服とか不満とか、そういう問題じゃないでしょ。第一、宮本さんだって迷惑だわ。・・・えっ?そんなこと私は知らないわよ。とにかく勝手に私の結婚を決めないで。結婚相手は私が自分で決めるから。・・・だからそんなことは知らないって。ほっといてよ、もう!」

 千絵はものすごい剣幕で電話越しに百絵に食って掛かっていた。空いている右手で何度も何度も髪を掻き揚げ、幼い児童のように頬を紅潮させ、あたりに唾が飛んでいることにも頓着していない。彼女がこんなに怒っているところを私はかつて見たことがない。いつも朗らかに笑顔を浮かべているというのが私の中の千絵像であり、その千絵が怒りに我を忘れるということは私の経験上初めての出来事だった。

 私は呆気にとられていつの間にか顔を起こし千絵の様子に見入ってしまっていた。怒りに震え眉根を顰める千絵も凛としていて素敵だった。髪を梳いていく指があまりに白くて私はそのせわしない軌跡に目を奪われていた。

「失礼しちゃうわ」

 通話を終えても千絵は携帯電話を握り締めていた。怒りという心理的作用に慣れていないのか、自分自身の御し方が分からなくなってしまったかのように大きく息を吸ったり吐いたりしている。口をパクパクする様子はまるで魚のようだと私は思った。朱に染まっていたはずの千絵の顔から見る見る血の気が失せていく。

「千絵?」

「・・・なんか頭がふらふらして気持ち悪い」

 そうこうしている間にも千絵の顔色はどんどん悪くなっていく。

「千絵!ちょっと、早く横になって」

 私は千絵を後ろから抱きかかえるようにして自分のベッドまで運んだ。ぐったりしている千絵は病み上がりの私には意外に重かった。私たちは倒れこむようにしてベッドに転がった。

 今までずっと一緒にいたのに同じベッドで千絵と寝ることなんて初めてのことだ。千絵の顔が本当に目と鼻の先にある。千絵の白い首からは何か芳しいものが匂い立っているようで私はさらに千絵に近づいた。千絵がこちらを向いて弱々しいながらも微笑んでくれる。こんなに近いのに千絵を見つめる私は私でしかなく、私を眺める千絵はやっぱり千絵だ。私はどうあがいても私を見下ろす千絵にはなれない。私は千絵を見下したいわけではない。千絵になりたいのだ。しかし非常に悲しいことだが、幾ら近づいてもなりきることまでは不可能だった。

 横になると千絵は少し楽になったようで顔色も少し戻ってきていた。先ほどまで髪を梳いていた右手で千絵は私の頬を優しく撫でた。泣いていたことをすっかり忘れていた私は恥かしさに顔を伏せ布団の端で顔を拭った。

「郁子は圭介君と付き合っているんでしょ?」

「え?どうして?」

「本人から聞いたわ。この前、圭介君にばったり会ったのよ」

「そう」

 それから私は肯定も否定もできずいつまでも黙っていた。


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